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愛してると呟く俳優は、僕を35階の部屋に縛りつけた ――飛べない蝶――  作者: 雨音 美月


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第5話 雨音の記憶

低く抑えた声が、耳元で囁かれるだけで、身体がびくりと跳ねた。

触れられるたび、感覚がほどけていく。

苺の果実を潰すみたいに、甘く、逃げ場なく。


腰に回された腕が、強く引き寄せてくる。



「愛してる。……瑠璃」


かつては鎖みたいに重かった言葉が、今は熱を帯びて、胸の奥に沈んでいく。

拒む理由なんて、もうどこにもなかった。


「氷月さん……」


名前を呼ぶたび、氷月さんの指先が応える。

確かめるように、逃がさないように。

僕は衝動のままに彼に縋りつき、背中に爪を立てた。

彼の匂いも、体温も、全部、自分の中に刻み込みたくて。


夜が深まるほど、理性は溶けていく。

重なる呼吸、抑えきれない声。

何度も、何度も、氷月さんは「ここにいる」と教えるように、僕を抱いた。


その腕の中で、僕は形を失っていく。

ただ「瑠璃」として、選ばれた存在として。



三十五階の部屋を、夜の帳が静かに包み込む。

テーブルの上には苺がまだ残っているけれど、僕たちは別の甘さを、時間をかけて味わっていた。


窓を開けなくても、息は苦しくない。

この腕の中が、僕自身が選んだ、たった一つの居場所だから。




翌朝。

カーテンの隙間から射す白い光に、ゆっくりと目を覚ました。


すぐそばにある、氷月さんの寝顔。

微かに身じろぐと、腰を抱く腕がきゅっと力を増す。

眠ったまま、それでも離す気はないらしい。


首筋や肩に残る、昨夜の名残。

それは熱よりも、触れられていた記憶そのものみたいで。

少し意識するだけで胸の奥がきゅっとして、無意識に、彼の腕の中で呼吸を整えた。


「……おはよう」


低く掠れた声。

氷月さんが目を細めて、僕を見下ろしている。

寝起きの、無防備な表情。


「おはようございます……。まだ、眠そうですね」


「……ああ。君のせいだ」


額に落とされる、静かなキス。

それだけで、胸が温かくなる。



時計は、現実の時間を刻んでいた。


「……行きたくないな。このまま、君を抱いていたい」


「だめです。撮影、あるでしょう?」


苦笑しながら言うと、彼は肩をすくめた。


「世界一幸せで、同時に世界一、仕事をしたくない男だよ」


シャワーを浴び、シンプルなシャツとジャケットを羽織ると、氷月さんはまた完璧な俳優に戻っていく。

それでも、ボタンを留める僕の指に、そっと触れてくる。


「瑠璃。今日は、何を書く?」


「氷月さんとの時間を。言葉にできるかわからないけど」


「……楽しみにしてる。君が紡ぐ言葉を」




玄関で抱きしめられる腕は、昨夜よりずっと優しい。

壊れ物を扱うみたいに、慎重で、あたたかい。


「行ってくるね。夕飯は、一緒に」


「はい。……いってらっしゃい、氷月さん」


扉が閉まり、静けさが戻る。

それでも、もう孤独じゃない。



キッチンには苺が残り、シーツには彼の匂いがある。


僕はデスクに向かい、ペンを取った。


昨夜、彼がくれた熱が、まだ指先に残っているうちに。

僕だけの物語を、書くために。






【雨音の記憶】


雨が、窓を叩いている。

三十五階の窓越しに見える街は、ぼんやりと霞んでいた。


リビングのソファに座って、僕は外を眺めている。

氷月さんは、朝から撮影で不在だ。

帰りは、夜になるらしい。


一人きりの部屋。

聞こえるのは、雨音だけ。


コーヒーカップを両手で包む。

温かいはずなのに、胸の奥は少し冷えていた。


この雨の音。

この匂い。


胸の奥が、きゅっと疼く。


「……あの日も、雨だった」


ふと、テーブルの上に置きっぱなしだったノートが目に入った。

手に取る。

ページをめくると、昨日までの文字が並んでいる。

走り書きのような日もあれば、几帳面に埋めた日もある。

ペンを握った。



『四月十日。

今日は雨。

氷月さんは仕事。

僕は一人で、窓の外を見ている。

この雨の音を聞いていると、昔のことを思い出す。

誰にも必要とされていないと思っていた頃。』


ペン先が、紙の上を滑る。

雨音に混じって、かすかにインクの擦れる音がした。


窓に映った自分の顔が、少しだけ昔の僕に重なった。

目を閉じると、記憶が静かに流れ込んでくる。





僕は、小さい頃から一人でいることに慣れていた。


五歳の冬、両親は離婚した。

母に手を引かれて家を出た日のことは、

冷たい手の感触だけが残っている。


父の顔は覚えていない。

背中だけが、記憶にある。


それから、母と二人の生活が始まった。

母はいつも忙しく、疲れていた。


「瑠璃、いい子にしててね」


その言葉を残して、毎日出かけていった。

静かな部屋で、僕は一人、時間をやり過ごした。




十三歳の春。

母は再婚した。


新しい父親は、最初は優しかった。

母も、幸せそうだった。


だから、僕は何も言わなかった。


でも、母が夜勤の日、

家に二人きりになると、空気が変わった。


近すぎる距離。

触れてくる手。


「父子のスキンシップだよ」


そう言われるたび、体が固まった。

嫌だと思っても、声が出なかった。



十四歳の冬、勇気を出して母に話した。

でも、信じてもらえなかった。


母は、見ないふりをした。


それ以上、僕は何も言えなくなった。



十六歳の冬。

もう、限界だった。

これ以上ここにいたら、

僕はきっと、静かに壊れてしまう。


高校を、中退した。


「瑠璃! 何を考えてるの!」


母の声が、部屋に響く。

怒りというより、追いつけない不安みたいな音だった。


「……ごめんなさい」


「謝って済む問題じゃないでしょう」


「でも、もう……」


「もう、何!」


言えなかった。

本当の理由を、言葉にできなかった。


「家を……出ます」


「何ですって?」


「一人で、暮らします」


「お金はどうするの」


「働きます」


母は、深く息を吐いた。

疲れ切った顔で、僕を見る。


「勝手にしなさい」


その一言で、会話は終わった。

それが、最後だった。


家を出た。

けれど、行く場所はなかった。


知り合いも、友だちも、

頼れる大人もいない。


お金もない。


夜は、ネットカフェで過ごした。

蛍光灯の白い光が、眠気を削っていく。


数日で、手持ちは尽きた。


仕事を探した。

けれど現実は、冷たかった。


高校中退。

資格なし。

経験なし。


どこも、僕を必要としなかった。



十七歳になる頃。

コンビニの深夜バイト、

倉庫での日雇い、

ポスティング。

やれることは全部やった。

それでも、生活は綱渡りだった。

家賃を払えば食費が消え、

食べれば家賃が払えない。

そんな日々が続いた。



そんなとき、画面の端に浮かんだ文字。


『高収入・即日払い・容姿に自信のある方』


怪しい。

分かっていた。


それでも、目を逸らせなかった。


他に、選べる道がなかった。


連絡をした。

面接に呼ばれた。


繁華街の雑居ビル。

昼間でも、どこか夜の匂いがした。


「君、いいね。すぐ人気出るよ」


店長と名乗る男が、商品を見るみたいに僕を眺める。


「……何を、するんですか」


「簡単さ。お客さんを癒してあげるだけ」


その言葉の裏にあるものを、僕はちゃんと理解していた。


でも——

断る理由を、もう持っていなかった。



「明日から来れる?」


「……はい」




その瞬間、僕の名前は、静かに置き去りにされた。



こうして、僕は——

十八歳の春、夜の世界に足を踏み入れた。





最初は、四十代の男だった。



「初めて?」


「……はい」


「緊張してるね」


伸びてきた手が、頬に触れる。


その感触に、体が強張った。

思い出したくない記憶が、肌の奥で疼く。


体の内側が、静かに悲鳴を上げた。


でも、耐えた。


生きるため。

今日を越えるため。


心を、遠くへ逃がした。

体だけを、ここに残して。




二人目。

三人目。

十人目。


いつからか、数えるのをやめた。


毎日、違う顔。

でも、同じ夜。


鏡に映る自分は、知らない誰かだった。


目は乾いていて、

笑顔は、うまく貼り付けただけのもの。


——これは、本当に僕なんだろうか。





それから一年近く。

季節が一巡して、また冬が来た。

十九歳になる頃には、もう何も感じなくなっていた。


痛みも。

屈辱も。


ただ、求められるままに。

感情のない、人形みたいに。



ある日、店長が言った。


「瑠璃、VIPフロアに回す」


「……VIP?」


「客層が変わる。金持ちばっかりだ」


「……分かりました」


どうせ、同じだ。


誰が相手でも。

何も、変わらない。


——そのときは、そう思っていた。




十九歳の十一月。

VIPフロアでの、最初の夜だった。



控え室で待ちながら、いつものように心を切り離す。

感情は遠くへ、体だけをここに残す。

それが、生き延びるための癖になっていた。



「瑠璃、今夜の相手だ」


呼ばれて、指定された部屋へ向かう。

足音だけが、やけに響いた。


ドアを開けた瞬間、

胸の奥で、何かが止まった。


窓辺に、男が立っていた。

黒いコート。

背が高く、整った横顔。


でも——

その瞳が、空っぽだった。


深いのに、何も映していない目。

鏡みたいに、僕自身を映している気がした。


「初めまして。瑠璃です」


声が、わずかに揺れる。


「……氷月だ」


低くて、柔らかい声。


テレビで見たことのある顔。

人気俳優。


「……あの、俳優の?」


「ああ」


「有名な方なのに……こんな場所に」


彼は、ほんの少しだけ笑った。

寂しさを隠すみたいに。


「君こそ。どうして、ここに?」


答えられなかった。


「……色々、あって」


「そうか」



それ以上、踏み込んでこなかった。

沈黙が落ちる。


でも、不思議と息苦しくなかった。




「……今日は、どうされますか」


何度も繰り返してきた言葉。


彼は少し考えてから、言った。


「話を、してもいいかい」


「……え?」


「ただ、話がしたいんだ」


そんな客は、初めてだった。


「……はい」



ソファに座る。

距離は、きちんと空いている。

触れてこない。


「何歳?」


「十九です」


「……若いね」


その言い方が、どこか痛そうだった。


「どうして、ここに?」


「それは……」


言葉が、喉で止まる。


「話したくないなら、いいよ」


優しい声。


だから——

なぜか、話してしまった。


「家に、いられなくなって」


「家族は?」


「母が……信じてくれなかった」


それ以上は言えなかった。


彼は、ただ静かに頷いた。


「……辛かったね」


その一言で、

胸の奥が、じんと熱くなった。




時間は、静かに過ぎていった。

彼は、最後まで触れなかった。



「もう、時間だ」


「……はい」


「ありがとう」


「こちらこそ」


立ち上がった彼が、振り返る。


「また、来てもいい?」


「……え」


「君と、話したい」


その言葉が、胸に残った。


「……はい」




二回目。


一週間後、彼は約束通り現れた。


「また、来てくれたんですね」


「ああ」


その日も、話をしただけだった。


仕事のこと。

疲れたこと。

誰も信じられなくなったこと。


僕も、少しずつ話した。

過去のこと。

今の生活のこと。


心の奥の重さが、

ほんの少し軽くなる気がした。




三回目。


また一週間後。


「今日は……触れてもいい?」


その言葉に、体が固まる。


やっぱり、同じだ。

そう思って、頷いた。


でも——

彼の触れ方は、違った。


そっと、手を取るだけ。


「冷たいね」


「……はい」


「温めたい」


両手で包まれる。

ゆっくりと、熱が伝わる。


頬に触れる指。

怖くない。


「もう少し、いい?」


「……はい」


唇が、触れた。

押し付けない、確かめるみたいなキス。


離れたとき、

なぜか、涙が出ていた。


「……どうしたの?」


「分かりません」


ただ、胸が温かかった。




四回目。

彼は、もう毎週のように現れるようになっていた。


静かな部屋。

ふかふかのベッドに身を預けると、氷月さんの腕が、そっと僕を囲う。


無理やり何かを求められることはなかった。

ただ、指先が髪を撫でる。

熱を帯びた視線が、逃がさないように僕を見つめる。



「瑠璃……」


名前を呼ばれるだけで、胸の奥が揺れた。


唇が、額に落ちる。

まぶたに、影のように触れる。

そして——

唇に。


羽毛が触れるみたいに、柔らかくて、甘い。

それは、これまで僕が知っていたキスとは、まるで別物だった。



「……氷月、さん……」


声が零れると、彼の指が服の隙間へと滑り込む。

触れるだけ。

確かめるように、なぞるだけ。


その指先が、僕の冷えていた芯を、ゆっくり溶かしていく。


「嫌だったら、言って」


「……大丈夫、です」


「本当に?」


その一言が、妙に甘くて、胸がきゅっと締めつけられた。

確かめられることが、こんなにも嬉しいなんて、知らなかった。


シャツのボタンが、一つ、外れる。

肌に触れる手は、温かくて、ためらいがちで。


「……綺麗だ」


囁くような声。

そんなふうに言われたのは、初めてだった。


他の誰もが、僕の体しか見ていなかった。

けれど氷月さんだけは——

僕の奥に残った、壊れかけの“心”を、そっと掬い上げようとしているみたいだった。


深くなるキス。

唇が重なるたび、甘さが滲む。


それでも、痛くない。

怖くない。


ただ、胸の奥が、じんわりと熱を帯びていく。


この人の腕の中なら。

触れられても、壊れない気がした。


そう思ってしまったことが、

甘くて、少しだけ、怖かった。




【五回目】


氷月さんが来た。

けれど、その日の空気は、どこか違っていた。


「瑠璃」


呼ばれただけで、胸がざわつく。


「話がある」


真剣な目。

逃げ場のない静けさ。


「……ここを、出たくないか」


「え……?」


「僕が、引き取る」


一瞬、意味が分からなかった。

心臓が、遅れて跳ねる。


「引き取る……?」


「ああ。君を、ここから連れ出したい」


どうして、そんなことを。

声にならない疑問だけが、胸に溜まる。


「君を……このまま、この場所に置いておけない」


その目は、揺れていなかった。


「でも……」


「嫌なら、無理には言わない」


間を置いて、静かに。


「それでも……僕は、君を救いたい」


その言葉が、胸の奥に触れた。


救いたい。

そんなふうに言われたのは、初めてだった。


「……優しくしないでください」


「どうして?」


「優しくされると……期待してしまうから」


声が震え、涙が落ちた。


「もう……裏切られるのは、嫌なんです」


氷月さんは、何も言わずに、涙を拭ってくれた。

指先が、温かい。


「裏切らない」


即答だった。


「……信じられません」


「分かってる」


それでも、と言うように、彼は僕を抱きしめる。


「時間をかけて、信じてもらえたらいい」


その腕の中は、驚くほど静かで、優しかった。


「……本当に?」


「ああ。本気だ」


胸の奥で、何かが小さく音を立てて、ほどけた。



僕は——

初めて、誰かを信じてみたいと思った。



「……お願いします」



こうして——

僕は、新しい檻に入った。

綺麗で、温かい檻。


でも——

氷月さんのそばなら。

それでも、いいと思った。




目を開けると、

そこには三十五階のリビングがあった。


雨は、まだ降っている。

窓を叩く音だけが、現実へと僕を引き戻す。


コーヒーは、もう冷めかけていた。

それでも、カップから伝わる微かな温もりが、今の僕を繋ぎ止める。


あの頃の僕は、ここにはいない。

戻れない場所に、置いてきた。


——そう、思いたかった。


窓の向こうで、街は静かに滲んでいる。

雨の向こう側に、過去を溶かすように。


僕は、ゆっくりと息を吐いた。






(氷月の視点)


雨が、窓を叩いている。


本来なら、今日は屋外での撮影だった。

けれど予想以上の降りで予定は崩れ、急きょスタジオ撮影に切り替わった。


セットの窓越しに見える灰色の街が、

作り物じゃない現実みたいに胸に迫ってくる。


カメラの前に立ちながら、

僕の意識は何度も別の場所へ引き戻されていた。



あの部屋。


三十五階の、静かなリビング。

ソファに座って、雨を眺めているだろう、瑠璃の背中。


今日は一人だ。

きっと、静かな時間を過ごしている。


この雨の音。

湿った空気の匂い。


初めて会った夜のことが、否応なく蘇る。

あの場所。

窓の向こうに滲んでいた、同じような街の光。


カメラの前では、どんな感情でも演じられる。

完璧な表情を作ることもできる。


それなのに——

あの夜の記憶だけは、どうしても切り離せなかった。


守りたいと思った。

救いたいと、確かに思った。


それと同時に、

手放したくない、とも思ってしまった。


ふいに、記憶が重なる。


——あの日も、雨だった。




一年前の十一月。

冬の気配が、街の隙間に忍び込むような、冷たい夜だった。



撮影が終わったのは、深夜二時。

身体より先に、心が限界を迎えていた。


「高遠さん、お疲れさまでした」


スタッフに頭を下げ、控え室に戻る。

スマートフォンが、やけに重く感じられた。


画面には、梨華――

恋人だったはずの女からの通知が、何通も並んでいる。


『ごめんなさい』

『話を聞いて』

『誤解なの』


誤解、か。


違う。

あれは、はっきりとした現実だった。


昨夜、僕が目にしたもの。

梨華が、僕のプロデューサーに縋るように抱きついていた姿。


――「氷月なんて、利用価値があるだけ」


その声も、その温度も、耳に焼き付いている。


スマホを伏せた。

もう、返す言葉はなかった。


「高遠、大丈夫か?」


マネージャーの篠原が、控え室に顔を出す。


「ああ」


反射的に嘘をついた。


「今夜、飲みに行くか?」

「……いや。一人でいたい」


「無理するなよ」


その背中に、返事はしなかった。


一人きりになった控え室で、鏡を見る。

作り上げられた、完璧な顔。


――なのに、空っぽだ。


何のために笑っている?

何のために演じている?


誰も、本当の僕なんて見ていない。

見られているのは、“高遠氷月”という商品だけ。


プロデューサーも。

恋人も。

ファンも。


誰一人として――

僕自身を、愛してはいなかった。


マンションに帰る気になれず、夜の街を彷徨った。

人影の少ない裏通り。

ネオンの光が、路地を冷たく染めている。


その時、不意に視界に入った看板。



『Nocturne』


会員制の、夜のサロン。

業界に身を置いていれば、噂を知らない者はいない場所。

足が、止まる。

こんなところに来る自分を、軽蔑した。

それでも、扉の前から動けなかった。


——誰でもいい。

“高遠氷月”じゃない、何者でもない自分として、誰かに触れたい。


いや、違う。

触れたいんじゃない。

確かめたいんだ。

この空っぽの心が、まだ何かを感じられるのか。

それとも、もう完全に壊れてしまったのか。



気づけば、扉を押していた。


中は、静かで、過剰なほど洗練されていた。

柔らかな照明。

無機質で、どこか優しい空気。


「いらっしゃいませ」


受付の女性に案内され、部屋でカタログを渡される。

並ぶのは、美しい“商品”たち。


整った顔。

作られた微笑み。

――そして、光を失った目。


ページをめくり、ふと、指が止まった。


儚い。

壊れそうなほど、透明で。


『瑠璃 19歳』


それだけが、書かれていた。

透き通る肌。

大きな瞳。

そこに宿るのは、深く沈んだ闇。


——この子も、溺れているのか。

他の誰でもなく、この子を選んだのは、

きっと、自分と同じ匂いがしたからだ。

水の底に沈む者同士。

息もできないまま、それでも浮かび上がれない者同士。


「……この子を」


気づけば、そう口にしていた。


待つ時間が、やけに長く感じられる。

胸の奥が、理由もなく疼いていた。


——何を期待しているんだ、僕は。

この子に会って、何が変わる?

空っぽの心が、満たされるとでも思っているのか。

それでも、心臓は静かに跳ね続けた。



ドアが、ノックされる。


「失礼します」


開いた扉の向こうに、少年が立っていた。

写真よりも、ずっと脆そうだった。

今にも消えてしまいそうなほど、儚かった。


「初めまして。瑠璃です」


声まで、消え入りそうだった。


「……氷月だ」


偽名を使うつもりだったのに、本名が零れた。


「俳優の……?」


「ああ」


「……有名な方なのに、こんな場所に」


その言葉に、胸が軋む。


そうだ。

僕は、こんな場所に来るべきじゃなかった。

それでも、来てしまった。


「君は……どうして、ここに」


瑠璃は俯き、小さく答えた。


「……色々、あって」


それ以上は聞かなかった。

聞いてしまったら、戻れなくなる気がした。


沈黙が落ちる。

でも、不思議と息苦しくなかった。

むしろ、この静けさが心地よかった。

何も演じなくていい。

何も取り繕わなくていい。


「今日は、どうされますか……?」


彼にそう尋ねられる。

きっと、何度も繰り返してきた言葉。

その健気さが、胸の奥に静かに刺さった。


——ああ、この子も僕と同じだ。

本当の自分を隠して、

誰かが求める役を演じている。


「話をしてもいいかい」


自分でも、意外な言葉だった。


距離を保ったまま、ソファに並んで座る。

触れない。触れさせない。

それなのに、確かに伝わる体温。


十九歳だと聞いたとき、

胸の奥で、鈍い痛みが走った。


若すぎる。

こんな場所にいるには。


彼がぽつりぽつりと語る言葉を、

僕は遮らずに聞いた。


「……辛かったね」


そう言った瞬間、

彼の目が揺れた。


——ああ、まずい。


この子は、

「分かってもらえた」と感じただけで、壊れてしまう。


なのに。


時間いっぱいまで、何もせずに過ごした。

触れなかった。

触れられなかった。


別れ際。


「また、来てもいい?」


その言葉は、

すでに“一度きり”では終われない自分への、言い訳だった。




二回目。

三回目。


会うたびに、彼の表情が少しずつ緩んでいく。

それが、嬉しかった。



三回目の夜。



「……触れてもいい?」


そう尋ねた瞬間、

彼の身体が、わずかに強張る。


後悔した。

でも、引き返せなかった。


手を取るだけ。

それだけで、彼の指が冷えていることが分かる。


「温めたい」


包み込むと、

ゆっくりと力が抜けていった。


頬に触れる。

拒絶は、ない。


唇が触れた瞬間、

これは“仕事”じゃないと、はっきり分かった。


彼が泣いたとき、

胸の奥が締めつけられた。


——泣かせたいわけじゃない。

——壊したいわけでもない。


ただ、ここにいてほしかった。




四回目。


腕の中に、彼を収める。

ベッドは柔らかく、部屋は静かだ。


髪を撫でる。

名前を呼ぶ。


それだけで、彼の呼吸が変わる。


唇に、額に、まぶたに。

キスは浅く、何度も。


服の隙間に指を滑らせると、

彼の身体が、怯えながらも受け入れる。


「嫌なら、言って」


確認するたび、

自分が優しい人間みたいで、少し気分が悪かった。


——本当は。


逃がしたくない。

他の誰にも、触れさせたくない。


その気持ちを、

“守りたい”という言葉で、覆い隠しているだけだ。


それでも彼は、

僕の腕の中で、壊れなかった。


それが、救いだった。



五回目。


「ここを、出たくないか」


そう口にした瞬間、

もう後戻りできないと分かっていた。


「僕が、引き取る」


救いたい。

本心だ。


でも同時に——

失いたくない、という欲も、確かにあった。


「優しくしないでください」


その言葉に、胸が痛んだ。


期待させるつもりなんてなかった。

……いや、嘘だ。


期待させたい。

僕だけに。


「時間をかけて、信じてもらえたらいい」


そう言いながら、

腕の中に閉じ込めている自分に、気づいていた。


それでも。


この子が、ここにいる限り。

僕の目の届く場所にいる限り。


——世界は、彼を壊せない。


そう信じたかった。




こうして、彼は檻に入った。

僕の手で作った檻に。


それが救いなのか、

ただの独占なのか。


その答えを、

僕はまだ、知らない。




カメラマンの声で、意識が引き戻される。



「高遠さん、もう一度お願いします」


雨音は、まだ続いている。

スタジオの窓を叩く音が、現実に輪郭を与える。


深く息を吸い、僕は視線を上げた。

役の感情を、完璧な形に整えて、表情に落とす。


けれど胸の奥には、あの夜から続く、ひとつの影がある。


三十五階のリビング。

雨を眺める、細い背中。


今も、そこにいる。

檻の中かもしれない。

それでも——

僕が選んだ場所だ。


守ったつもりで、縛っている。

救ったつもりで、奪っている。


それでも、あの時扉を開けなければ、

彼はもう、この世界にいなかったかもしれない。


それだけが、僕を前に進ませる理由だった。


「……カット」


声が落ちる。


僕は、ゆっくりと瞬きをした。

雨の街は、もうセットの向こうにしかない。


それでも確かに、今も降り続いている。

あの日と同じように。






【過去からの追っ手】


(瑠璃視点)


春の午後。

氷月さんは、撮影で留守だった。


「今日は夜まで帰れないかも」


朝、そう言って出かけた氷月さんの背中を見送る。


「いってらっしゃい」


「いってきます。瑠璃、無理しないでね」


「はい」


ドアが閉まる。

静かな部屋。

一人の時間。

でも、今は——

寂しいだけじゃない。


窓を開けて、外の空気を吸う。

暖かい風。

春から、夏へ。

季節が、移り変わっていく。


「……少し、散歩しようかな」


スマホを手に取り、氷月さんにメッセージを送る。


『少し外出してきます。夕方には帰ります』


すぐに返信が来た。


『分かった。気をつけてね。何かあったらすぐ連絡して』


その言葉が、温かい。

昔なら——

「外出するな」と言われていた。

でも、今は違う。

信じてくれている。


「行ってきます」


誰もいない部屋に、そう呟いて、僕は外に出た。





第5話を読んでくださり、ありがとうございます。

今回は、二人の過去を書きました。

瑠璃がなぜあの場所にいたのか。

氷月がなぜ扉を押したのか。

その重さを丁寧に描くことで、二人が今ここにいる意味を伝えたかった。

「守ったつもりで、縛っている」という氷月の矛盾も、「優しくしないでください」と泣いた瑠璃の言葉も、どれも二人の本音です。

不完全なまま、それでも今朝を迎えている二人を、温かく見守っていただけたら嬉しいです。


【次回予告】

外の空気は、思っていたより優しかった。

でも——

街の片隅で、忘れたかった声が聞こえる。


「瑠璃」


過去は、春の日差しの中にも潜んでいた。



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