第4話 透明な檻
【春の居場所】
三十五階。
この部屋から見える景色は、いつも美しい。
朝日が昇る街並み。
夜に煌めくネオンの光。
遠くに見える東京タワー。
でも、僕はいつも窓の外を眺めながら思う。
あれから一ヶ月が経った。
今日。
四月の午後。
窓から差し込む光が、部屋を柔らかく満たしていた。
この部屋は、相変わらず静かで。
でも、以前ほど冷たくは感じなくなっていた。
氷月さんとの距離も、少しだけ変わった気がする。
まだ、完全には自由じゃない。
でも、以前よりは……
わずかに息ができる。
それが、今。
「瑠璃、今日はどこに行きたい?」
朝食の席で、氷月さんが聞いた。
その問いかけに、心臓が小さく跳ねる。
これも、変化の一つだ。
以前なら、氷月さんが全部決めていた。
でも、今は……
僕に、選択肢をくれる。
「え……、僕が決めていいんですか?」
「もちろん」
氷月さんが微笑む。
でも、その笑顔の奥に、ほんの一瞬緊張が見えた。
僕が、また離れていくんじゃないか。
そんな不安。
わかる。
だって、僕も同じだから。
氷月さんが、いなくなるんじゃないか。
そんな不安を、いつも抱えている。
「じゃあ……」
僕は少し考えて、言った。
「美術館に、行きたいです」
「美術館?」
「はい。桜の絵の展覧会があるって、ネットで見て」
氷月さんの表情が、一瞬だけ曇る。
でも、すぐに笑顔に戻った。
「いいね。行こう」
その「いいね」という返事が、少しだけ遅かった。
でも、拒否しなかった。
それが、氷月さんの変化。
僕たちは、まだ完全じゃない。
お互いに、依存している。
お互いに、不安を抱えている。
でも、少しずつ。
本当に少しずつだけど。
変わろうとしている。
それが、今の僕たちだ。
氷月さんは、人混みが苦手だ。
いや、正確には……
人混みの中で、僕を見失うのが怖いのだ。
でも、言ってくれなかった。
僕の選択を、尊重してくれている。
「ありがとうございます」
「当たり前だよ。今日は、君の日だから」
その言葉が、嬉しくて。
でも同時に、胸の奥に小さな不安も芽生える。
大丈夫だろうか。
氷月さん、本当は嫌じゃないだろうか。
「瑠璃」
氷月さんが、僕の手を取る。
「楽しみなんだ、本当に」
その温もりが、不安を少しだけ溶かしてくれた。
昼過ぎ。
僕たちは美術館に向かった。
氷月さんは、いつもより地味な服装。
黒いジャケット。
深めのキャップとマスク。
「変装、どうかな?」
「大丈夫だと思います」
それでも、駅のホームで何人かが振り返った。
氷月さんの雰囲気は、隠しきれない。
電車の中。
僕たちは隅の席に座った。
氷月さんの肩が、僕の肩に触れている。
「緊張してる?」
小さな声で聞かれる。
「……少し」
「僕も」
その正直な言葉に、少しだけ笑ってしまった。
「僕たち、同じですね」
「そうだね」
氷月さんも、小さく笑う。
窓の外、街が流れていく。
こうして、一緒に外出できる。
それだけで、心がほどける。
美術館に着いた。
週末だからか、人が多い。
「氷月さん……大丈夫ですか?」
僕が聞くと、氷月さんが頷く。
「ああ。君は?」
「大丈夫です」
嘘じゃない。
でも、心のどこかで怖い。
人混み。
知らない人たちの視線。
ざわめき。
胸の奥で、昔の記憶が小さく蠢く。
……大丈夫。
今は違う。
氷月さんがいる。
そう自分に言い聞かせながら、チケットを買う。
「僕が払うよ」
氷月さんが財布を出そうとする。
「いえ、今日は僕が」
「でも……」
「お願いします」
少しだけ強く言うと、氷月さんが苦笑した。
「……わかった」
その表情に、少しだけ寂しさが混じっていた気がする。
払いたいのに、払わせてもらえない。
守りたいのに、守らせてもらえない。
氷月さんの葛藤が、透けて見えた。
展示室。
桜の絵が、壁一面に飾られている。
「綺麗……」
思わず、声が漏れた。
淡いピンク。
舞い散る花びら。
春の儚さが、そこにあった。
「本当に、綺麗だね」
氷月さんが、隣で囁く。
僕たちは、ゆっくりと絵を見て回った。
人が多い。
時々、誰かが僕たちの間を通り過ぎる。
その度に、氷月さんの肩がかすかに強張るのがわかった。
「氷月さん」
「ん?」
「大丈夫ですか?」
「……ああ」
でも、その返事は少し硬い。
次の部屋に移る時、人がさらに増えた。
狭い通路。
押し合うような人波。
僕の肩が、知らない人にぶつかる。
「あ、すみません」
謝りながら前に進もうとした、その時。
氷月さんの手が、僕の手をぎゅっと掴んだ。
「……っ」
強い。
今までと、違う強さ。
振り返ると、氷月さんの顔が少し青ざめていた。
「氷月さん……?」
「ごめん……少し、外に出よう」
美術館の外。
ベンチに座る。
氷月さんは、深く息を吐いた。
「ごめん、瑠璃」
「いえ……どうしたんですか?」
「ああ……ただ」
氷月さんが、僕を見つめる。
「人混みで、君を見失いそうになって……怖かった」
その正直な言葉に、胸が痛む。
「ごめんなさい。僕が、美術館に行きたいなんて……」
「違う」
氷月さんが、首を振る。
「君は悪くない。これは、僕の問題だ」
氷月さんの手が、膝の上で小さく震えている。
「君を……抱きしめたかった」
「え……?」
「さっき、人混みの中で。君を抱きしめて、誰にも触れさせないようにしたかった」
その時、氷月さんの手が僕の腰を引き寄せた。
一瞬だけ、強く。
まるで堪えきれなくなったように。
「……っ、ごめん」
息を荒げながら、彼はすぐに力を緩めた。
「つい……」
震える声。
自分を必死に制する、その姿。
危うくて、愛おしい。
「でも……それは、昔の僕だ。君を縛る、昔の僕だ。だから、やめた」
その告白に、涙が溢れそうになる。
「氷月さん……」
「手を繋ぐだけで、我慢した」
氷月さんが、僕の手を取る。
「これが、今の僕にできる、精一杯」
その手が、温かい。
「ありがとうございます」
「何が?」
「我慢してくれて」
氷月さんが、少しだけ笑った。
「……当たり前だよ」
「でも、苦しいですよね」
「……ああ」
正直な返事。
「でも、君の自由を奪うよりは、ずっといい」
その言葉が、胸に沁みた。
しばらく休んでから、再び美術館に入った。
今度は、空いている時間帯を選んで。
氷月さんの手を握りながら、僕は思う。
——ここにいるのは、僕の意志だ。
逃げたくて外に出たわけじゃない。
氷月さんと一緒に、春を見たかっただけ。
「ゆっくり見れますね」
「ああ」
氷月さんの表情が、心なしか柔らかくなる。
絵を見ながら、僕は氷月さんの手をそっと握った。
「……瑠璃?」
氷月さんが、少しだけ驚いた顔をする。
「離しませんから」
その言葉に、氷月さんの目が潤んだ。
「……ありがとう」
手を繋いだまま、僕たちはゆっくりと絵を見て回った。
桜の絵。
繊細で、美しくて。
僕たちみたいだ、と思った。
完璧じゃない。
時々、不安になる。
でも、それでも……
美しい。
美術館を出た後、小さなカフェに入った。
「ここ、いいですね」
「ああ。静かで」
窓際の席。
外の景色が、薄く霞んで見える。
「何にする?」
「コーヒーと……ケーキが食べたいです」
「甘いもの、好きだったね」
氷月さんが、微笑む。
注文を済ませて、二人で窓の外を眺める。
「瑠璃」
「はい?」
「……楽しい?」
その問いに、僕は頷いた。
「はい。とても」
「良かった」
氷月さんの表情が、ほっとしたように緩む。
「僕も、楽しいよ」
「本当ですか?」
「ああ。君が選んだ場所だから」
その言葉が、嬉しい。
コーヒーが運ばれてくる。
湯気が、ゆっくりと立ち上る。
白い煙が、春の光に溶けていく。
「あの、氷月さん」
「ん?」
「今日、ありがとうございました」
少し迷ってから、僕は言った。
「僕の、行きたい場所に……連れてきてくれて」
一瞬きょとんとしてから、氷月さんが小さく笑う。
「当たり前だろう。デートなんだから」
その一言に、胸がどきりと跳ねた。
氷月さんが、カップを手に取る。
「これが普通なんだろうね」
「普通……ですか?」
「ああ。恋人同士なら」
その言葉に、胸が高鳴る。
恋人。
僕たちは、恋人なんだ。
当たり前のことなのに、改めて言われると照れてしまう。
「瑠璃、顔が赤いよ」
「え……そんな」
氷月さんが、楽しそうに笑う。
「可愛い」
「やめてください……」
恥ずかしくて、顔を伏せる。
氷月さんの笑い声が、優しく響く。
その音が、カフェの静けさに溶けていく。
夕方。
マンションに戻った。
二人で、靴を脱ぐ。
リビングに入ると、夕陽が部屋を染めている。
薄紅色の光。
ガラス越しに、街が霞んで見える。
「今日は……本当に、楽しかったです」
僕が言うと、氷月さんが振り返った。
「僕も」
「また、行きたいです。どこか」
「ああ。次は、どこに行きたい?」
「えっと……」
少し考える。
「水族館とか……」
「いいね」
氷月さんが、微笑む。
「今度は、もっと上手く我慢できるように練習しておくよ」
その言葉に、思わず笑ってしまった。
「練習するんですか?」
「ああ」
氷月さんも、笑う。
窓辺に近づくと、氷月さんが後ろから抱きしめてきた。
「……っ」
「今日、我慢した分」
耳元で、囁かれる。
「……いいかい?」
その問いかけに、胸の奥が熱くなる。
「……はい」
氷月さんの腕が、優しく僕を包む。
でも、今までと違う。
逃げられない強さじゃない。
ただ、温もりを分け合うような抱擁。
窓の外、夕陽が沈んでいく。
オレンジ色の光が、部屋を優しく包む。
でも、すぐに薄れていく。
儚い光。
消えてしまいそうな、温もり。
氷月さんの腕の中。
でも、今は……
檻じゃない。
居場所。
そう思えるようになった。
「瑠璃」
「はい?」
「愛してるよ」
「僕も……愛してます」
その言葉を、今は素直に言える。
依存じゃなく。
選択として。
夕陽が完全に沈み、部屋が薄暗くなる。
でも、怖くない。
氷月さんの温もりが、そこにあるから。
「今日は、本当に楽しかった」
もう一度、彼が呟いた。
氷月さんが、少しだけ抱きしめる腕に力を込める。
「僕もです」
その声が、優しく響く。
完璧じゃない。
時々、不安になる。
でも……
それでいい。
窓の外、街に明かりが灯り始める。
春の夜。
新しい季節。
新しい、僕たち。
そっと目を閉じると、氷月さんの心臓の音が聞こえた。
静かで、温かい音。
でも、それも消えてしまいそうで。
だから、もっと強く感じたくて。
氷月さんの腕に、そっと手を添えた。
「おやすみ、瑠璃」
「おやすみなさい、氷月さん」
今日という日が、静かに終わっていく。
透明な時間。
儚い、幸せ。
でも、確かに、ここにある。
明日も、また。
二人で。
【完璧な仮面と、苺の甘い夜】
(氷月の視点)
午前七時。
撮影現場に到着する。
「おはようございます、高遠さん」
スタッフたちが頭を下げる。
「おはよう」
笑顔で返す。
完璧な笑顔。
カメラの前でも、外でも変わらない表情。
それが、僕の仕事だ。
控え室に入る。
マネージャーの篠原が、スケジュールを確認している。
「今日は、例のシーンだな」
「ああ」
例のシーン。
キスシーン。
相手役は、人気女優の柊美咲。
美人で、演技も上手い。
プロ意識も高い。
仕事、だ。
ただの、仕事。
そう自分に言い聞かせる。
スマホを取り出す。
瑠璃からのメッセージはない。
まだ寝ているだろう。
昨夜、遅くまで原稿を書いていたから。
画面を見つめていると、篠原が声をかけてきた。
「高遠、大丈夫か?」
「何が?」
「今日のシーン。瑠璃君のこと、気になってるんじゃないか?」
「……仕事だ」
「分かってる。でも、お前……」
篠原が、少し心配そうな顔をする。
「昔と違うからな。今は、帰る場所がある」
その言葉が、胸に沁みた。
「ああ。だから、ちゃんとやる」
「そうか」
篠原が頷く。
「なら、いいんだ」
メイク室。
鏡の中の自分を見つめる。
完璧に整えられた顔。
欠点のない、作られた美。
これが、僕の武器だ。
スマホが震える。
瑠璃から。
『おはようございます。今日も頑張ってください』
たった一行。
でも、心が満たされる。
返信を打つ。
『おはよう。ありがとう。休憩時間に電話していい?』
すぐに返事が来る。
『はい。待ってます』
画面を見つめていると、メイクさんが声をかけてきた。
「高遠さん、お顔を」
「ああ、すみません」
スマホをしまう。
鏡の中の自分が、少しだけ笑っている。
柔らかい笑顔。
瑠璃といる時の、僕の顔だ。
撮影現場。
高級ホテルの一室。
「高遠さん、準備はいいですか?」
監督が聞く。
「はい」
柊美咲が、隣に立つ。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
彼女は、プロだ。
目に感情はない。
ただ、仕事をこなすだけの目。
僕も同じだ。
「では、リハーサルから」
監督の合図で、シーンが始まる。
役の名前は、透也。
孤独なビジネスマン。
相手役の麗香は、偶然出会った女性。
二人は、一晩だけの関係を持つ。
そういう設定だ。
「透也……」
麗香が、僕の名を呼ぶ。
「麗香」
僕は、彼女を抱き寄せる。
唇が、触れる。
——瑠璃じゃない。
その事実が、胸を刺す。
でも、顔には出さない。
透也として、演じきる。
「カット。もう一度」
監督の声。
何度も、何度も。
唇を重ねる。
抱きしめ合う。
でも——
心は、瑠璃のところにある。
休憩時間。
控え室に戻ると、すぐにスマホを手に取った。
瑠璃に電話する。
『もしもし』
その声を聞いた瞬間、体の力が抜ける。
「瑠璃」
『お疲れ様です。お昼、食べましたか?』
「これから。君は?」
『さっき食べました』
「そうか」
沈黙。
でも、心地いい沈黙。
『氷月さん、今日の撮影……大丈夫ですか?』
「え?」
『その……キスシーンがあるって』
瑠璃の声が、少しだけ不安そうだ。
「ああ……気にしてた?」
『少しだけ……』
その正直さが、愛おしい。
「仕事だよ。感情はない」
『はい……分かってます』
でも、声が揺れている。
「瑠璃」
『はい』
「触れたいのは、君だけだ」
その言葉に、電話の向こうで小さく息を呑む音がした。
『……ありがとうございます』
「今夜、帰ったら……いいかい?」
『はい』
その返事が、嬉しい。
「じゃあ、頑張ってくる」
『はい。待ってます』
電話を切ったあと、新しいメッセージの通知が表示された。
『お疲れ様です。
これから夕飯の材料を買いにスーパーへ行ってきます。
氷月さんが好きな苺があったら買っておきますね。
撮影、頑張ってください』
「…………っ」
喉の奥から、熱い塊が込み上げた。
ただの日常の報告。
けれど、そこには僕の好きなものを考える瑠璃がいて、僕の帰りを待つ瑠璃がいる。
「……っ、ふふ……」
思わず口元を押さえて笑いが漏れた。
さっきまでの冷徹な俳優はどこへやら、僕はただの、恋人のメール一通で救われるただの男になっている。
「おい、急にニヤニヤするな。変だぞ」
篠原が呆れたように言ったが、そんなことはどうでもいい。
胸の奥が、温かい。
瑠璃。
君がいるから、僕は大丈夫だ。
午後の撮影。
本番のキスシーン。
後半の撮影、スタッフたちは驚いたに違いない。
僕の芝居に、先ほどまでなかった狂気じみた情熱が宿ったからだ。
早く終わらせる。
一刻も早く、あの部屋へ。
苺を買って待っている、僕の大切な人の元へ。
「では、本番いきます」
監督の声。
「用意……アクション!」
僕は、透也になる。
孤独で、冷たい男。
麗香を抱く。
唇を重ねる。
首筋に、キスを落とす。
「透也……」
彼女の声が、耳に響く。
でも——
聞こえるのは、瑠璃の声だ。
『氷月さん……』
胸が、きゅっと痛む。
「カット! OK!」
監督の声で、我に返る。
「高遠さん、今日は一段と凄かったですね……」
美咲が、少し頬を染めて話しかけてくる。
「ああ、失礼。急いでいるんだ。大切な約束があってね」
僕は彼女の視線を、かつての僕のように冷たくあしらうことさえしなかった。
ただ、幸福な男の顔で一礼し、現場を飛び出した。
「お疲れ様でした」
スタッフに挨拶して、控え室に戻る。
メイクを落とす。
鏡の中の自分が、疲れている。
車の中で、僕は何度もメッセージを見返す。
『買っておきますね』
その言葉の響きが、どんな賞賛の言葉よりも、僕の乾いた心を潤していく。
三十五階。
ドアを開ければ、そこには僕の愛する「蝶」が、自らの意志で羽を休めているはずだ。
僕はもう、彼を檻に閉じ込めたりしない。
その代わり、僕は僕自身を、彼が何度でも戻ってきたくなる最高の場所にしてみせる。
苺を食べる彼の、甘く汚れた唇を想像しながら、僕はアクセルを少しだけ強く踏んだ。
(瑠璃の視点)
カチリ、と電子錠が解錠される音が静かなリビングに響く。
心臓がトクン、と跳ねた。
かつての、逃げ場を失った震えじゃない。
彼が帰ってきたという、熱を帯びた期待だ。
「ただいま、瑠璃」
扉を開けて入ってきた氷月さんは、どこかひどく疲れているように見えた。
けれど、僕と目が合った瞬間、その瞳にふわりと柔らかな光が灯る。
撮影現場で纏っていたであろう完璧な俳優の仮面が、僕の前でだけ、音を立てて崩れていくのがわかった。
「お帰りなさい、氷月さん。……お疲れ様です」
「ああ……。君の顔を見たら、急に力が抜けてしまったよ」
氷月さんは鞄を置くのももどかしそうに歩み寄り、僕を包み込むように抱きしめた。
薄手のコート越しに伝わってくる、彼自身の体温。
その匂いを吸い込むと、僕の心もようやく今日という一日を終えて、安住の地に降り立ったような気がする。
「……苺、食べましょう。洗ってきますね」
「待って。もう少しだけ、このままで」
耳元で囁かれる低い声。
首筋に押し当てられた鼻先が、僕の拍動を確かめるように深く沈む。
氷月さんは今、何を考えているんだろう。
一日中、僕のいない場所で、誰のために笑い、誰のために愛を語っていたのか。
僕はそれを聞かないし、彼も言わない。
ただ、こうして抱きしめられる強さが、彼の言葉にならない想いを伝えていた。
「瑠璃」
「はい……?」
「今日、頑張ったから」
「え……?」
「今、いいかい?」
その問いに、頬を赤らめる。
「……はい」
キッチンへ向かい、買っておいた苺をボウルにあける。
蛇口から流れる水が指先に冷たい。
真っ赤に熟れた果実を一つずつ丁寧に洗って、白い皿に並べる。
その様子を、氷月さんはカウンター越しにじっと見つめていた。
「……綺麗な赤だね。まるで、今の瑠璃の頬みたいだ」
「からかわないでください。……はい、どうぞ」
リビングのソファに並んで座り、皿を真ん中に置く。
氷月さんは一粒手に取ると、それを口に運ぶのではなく、僕の唇にそっと寄せた。
「瑠璃から。君が選んでくれたんだろう?」
促されるまま、僕は苺を口に含む。
甘酸っぱい果汁が口の中に広がり、鼻に抜ける香りが胸の奥をくすぐった。
もぐもぐと咀嚼する僕を、氷月さんはまるで一番大切な宝物を眺めるような、熱い眼差しで見つめている。
「……甘くて、美味しいです」
「そうか。……僕にも、分けてくれるかい?」
彼の手が僕の頬に添えられる。
指先が唇の端をなぞり、そのまま吸い寄せられるように唇が重なった。
苺の甘い香りが混じり合う、深くて熱いキス。
彼の舌が僕の口内をなぞるたび、頭の芯がとろけていくような感覚に陥る。
スーパーで売られていた日常のはずなのに、氷月さんに触れられると、すべてが特別で、背徳的な儀式のように感じられてしまう。
「……本当だ。甘いね」
唇を離した氷月さんが、蕩けたような声で笑う。
その瞳には、まだ隠しきれないほどの独占欲が渦巻いているのが見えた。
彼はきっと、一日中こうして僕に触れるのを我慢していたんだ。
撮影現場で誰かを抱きながら、心では僕を求めていた。
その歪なまでの執着が、今の僕には愛おしい。
「……明日も、買ってきますね。氷月さんの好きなもの」
「ありがとう。嬉しいよ」
氷月さんは僕の手を取り、指先の一つ一つに丁寧に口づけを落とした。
かつてはこの手を引いて、僕を暗い部屋へ連れて行った。
でも今は、この手を握って、一緒に春を待ってくれる。
「瑠璃……愛してるよ。何よりも」
「……はい。僕も、愛しています」
ソファの上の空気が、苺の甘い香りを孕んだまま、じりじりと熱を帯びていく。
氷月さんの指先が、僕の胸元にそっと触れ、布越しに体温を探る。
その手つきは、かつての強制的なものとは違う。
内側に秘めた奪いたいという衝動を抑え込もうとしているのが、指先の微かな震えから伝わってきた。
「瑠璃……。君を、奪ってしまいたくなる。……いいかな」
「……はい」
答えた瞬間、世界が反転した。
ソファに押し倒され、氷月さんの重みが全身にかかる。
首筋に落とされる熱い口づけが、鎖骨、胸元へと降りていき、そのたびに僕の思考は白く塗りつぶされていく。
寝室へ移動する間も、彼は僕を離そうとしなかった。
シーツに沈み込み、重なり合う。
氷月さんの瞳は、熱に浮かされながらも、僕の一挙一動を逃さないように見つめている。
「んっ……、氷月さん」
「いいよ……もっと、呼んでごらん」
読んでくださり、ありがとうございます。
また、こうして瑠璃と氷月の世界へ戻ってきてくださって、本当に嬉しいです。
続きを書くことは、ずっと迷っていました。
第3話の終わりに込めた「不完全なまま、でも歩き始めた」というあの余韻を、壊してしまわないか。
二人の「その後」を描くことで、あの沈黙の美しさが失われてしまわないか。
そんな不安が手を止めていました。
それでも、書かずにはいられなかった。
歩き始めた彼らが、その後どんなふうに転んで、傷ついて、それでもまた立ち上がろうとするのか。
私自身が、どうしても見届けたくなってしまったのです。
続編では、「変わろうとしている二人」を描きます。
でも、変化は一直線ではありません。
時に後退し、また同じ場所に戻ってしまうこともある。
それでもその繰り返しの中にこそ、本物の変化が宿ると私は信じています。
瑠璃と氷月は、まだ飛べません。
でも、空を見上げることを、覚え始めました。
またあなたと一緒に、彼らの春を迎えられたら幸いです。




