第2話 初めての自由
氷月さんのいない部屋は、
広くて、静かで、何一つ動かない。
たった二日間。
それだけのはずなのに、
胸の中は空洞みたいに響いていた。
だけど同時に、
胸の奥にそっと“解放の風”が吹いてしまった。
誰にも見られない時間。
誰の影も落ちてこない空間。
そんな一瞬の自由を「心地いい」と思ってしまった自分が、怖い。
氷月さんがいなくて、ほっとしたなんて——
そんなこと、絶対に許されないのに。
スマホが震えた。
『空港に着いたよ。これから飛行機に乗る。着いたら連絡するね。愛してる』
指が微かに震えながら、返信を打つ。
『気をつけて。愛してます』
送信。
既読。
それで世界が再び静かに閉じる。
白いソファ。
無機質なガラステーブル。
計算された照明。
どれ一つ、僕の匂いのするものなんてない。
僕の“選んだ”ものなんて——
ひとつも。
ソファに座る。
数秒で立ち上がる。
窓辺に行く。
戻る。
呼吸の意味が分からなくなる。
“氷月さんがいない時間の過ごし方”なんて、
僕は誰にも教わったことがなかった。
気づけば、
外に出たい——
そんな衝動が胸を押していた。
おかしい。
昨日まで外なんて、怖かったのに。
ひとつだけ、変わったことがある。
氷月さんはいない。
僕を見ていない。
知らない。
その事実が、僕の背中を押した。
呼吸の仕方を思い出すみたいに。
玄関でコートを羽織りながら、
心臓の音が耳の奥で跳ねている。
ドアノブに触れた瞬間、
“裏切りだ”という言葉が胸を刺した。
でも、ゆっくり——扉を開けた。
廊下は誰もいない。
エレベーターのボタンを押す手が震える。
階数の数字が静かに降りていく。
35、34、33……
自分の鼓動だけが生き物のように暴れていた。
1階。
ドアが開く。
冬の空気が頬に触れた瞬間、
世界が淡い光を帯びながら動き出した。
人の声。
車の音。
風の匂い。
ずっと閉じ込められていた記憶が、
胸の奥でそっと呼吸を始める。
足が、一歩、前に出る。
生きている。
そんな当たり前のことが、胸を震わせた。
ただのスーパーマーケット。
けれど僕にとっては、異国のような場所だった。
自動ドアが開く。
柔らかな暖気。
明るい照明。
新鮮な匂い。
買い物かごを持つだけで胸が高鳴る。
野菜を手に取るたび、
“選んでいいんだ”という喜びが、指先を震わせた。
トマトをひとつ選ぶ。
ただそれだけの行為で、涙が溢れそうだった。
自分の意思で選んだものなんて、久しぶりだったから。
「すみません」
肩に触れた声に振り向くと、
柔らかい雰囲気の女性が立っていた。
ショートカットの、優しげな人。
「あ、こちらこそ……」
「あなた、書く人?」
「え……?」
不意を突かれた問いに、思考が止まる。
「目がね、言葉を探してる目をしてるの」
それだけで、心の奥を覗かれたようで息が詰まった。
差し出された名刺には——
桐谷麻衣、文藝春秋社。
編集者。
その名刺は、
触れれば別の人生が始まってしまいそうな重みがあった。
「よかったら、お茶しない? 仕事じゃなくて、ただのお喋り」
氷月さんじゃない誰かと話すこと。
それは本来、許されないはずなのに。
でもなぜか、
その声はあたたかくて、怖くなかった。
「……はい」
気づけば、答えていた。
温かいコーヒーを両手で包みながら、
胸の震えを押さえるように深呼吸した。
「緊張してる?」
「……少し」
「大丈夫。私は変な人じゃないよ」
その笑顔が、
“外の世界は優しいかもしれない”と教えてくれる。
彼女はノートを差し出した。
新品の白いページが、まっすぐ僕を見ている。
「書いてみない? 何でもいいの。きっと書けるよ」
「書けるか……分からないです」
「あなたの目は、言葉を探してる目だもの」
胸の奥の柔らかいところに、
そっと指先を置かれたみたいだった。
「言葉にならない痛みは、言葉にすると軽くなるよ」
その一言で、
ずっと固まっていた何かが、少しだけ解けた。
「……ありがとうございます」
ノートを受け取る。
軽いのに、確かに重さがあった。
「書けたら、見せてね。待ってるから」
救われるって、こういうことなのかもしれない。
マンションへ戻るエレベーター。
階数が上がるにつれて、
胸の罪悪感も静かに重くなる。
35階。
扉が開く。
部屋は何も変わっていない。
けれど“僕”は、確かに変わってしまった。
外の世界を知った。
氷月さんではない誰かに触れられた。
その事実が、怖くて、でも嬉しかった。
スマホには着信三件、
メッセージ五件。
『瑠璃、大丈夫?』
『どこにいるの?』
『電話に出て』
『心配してる』
『瑠璃』
背筋が冷たくなる。
午後五時。
外出していたのは三時間。
慌てて電話をかける。
『瑠璃!』
怒りと不安が混ざった声。
その震えが、胸に刺さる。
「ごめんなさい……気づかなくて」
『本当に家にいたのかい?』
心臓が止まったように痛む。
「……はい」
初めてついた嘘は、
口の中でほろりと苦かった。
沈黙が降りる。
『……もう、ちゃんと電話に出てね』
「はい。ごめんなさい」
『無事なら、それでいいよ』
声に温度がなかった。
電話が切れた瞬間、
背中に冷たい汗が落ちた。
でも——
胸の奥に、ほんのわずかな解放感もあった。
嘘をつけた。
秘密を持てた。
その事実が怖いのに、
どこか嬉しかった。
氷月さんのいないベッドは広く、
冷たく、
静かに広がっていた。
でも——
自由だった。
誰にも触れられない夜が、
こんなにも静かに息をさせてくれるなんて、
知らなかった。
桐谷さんにもらったノートを開く。
白いページ。
ペンを握る。
心の内が、静かに文字へと溢れていく。
書き終えたページを閉じ、
ノートを抱きしめる。
僕だけの世界。
僕だけの秘密。
それが、少しだけ愛おしい。
翌朝。
氷月さんからのビデオ通話で目を覚ました。
『おはよう、瑠璃』
疲れの見える顔。
その瞳にうっすら残る疑い。
「おはようございます」
『今日はどうするの?』
「……家で、本を読もうかと」
嘘。
でも、罪悪感は昨日ほど大きくなかった。
『また夜、電話するから』
「はい」
通話が切れると同時に、
胸の奥に小さな波が立つ。
外へ出たい。
また、あの空気を吸いたい。
昼。
もう迷わなかった。
今日は、罪悪感が薄い。
たった一日で、僕は変わってしまったみたいだった。
カフェへ入り、窓際の席に座る。
コーヒーの湯気がゆっくり消える。
ノートを開き、昨日の続きを書いた。
“愛と依存の違いって、何だろう。”
ペンが止まった瞬間——
「その続き、気になるな」
顔を上げると、桐谷さんがいた。
「桐谷さん……」
「偶然。ここ、よく来るの」
向かいに座った彼女は、
ページを開く僕の手元をそっと見つめる。
「見せてくれる?」
迷いが胸に渦巻く。
でも、その目は優しかった。
そっと、ノートを差し出した。
桐谷さんは、
僕の言葉をゆっくり、丁寧に読んだ。
沈黙が落ちる。
読むたびに、
彼女の瞳が少しずつ揺れていくのが分かった。
そしてページを閉じ、
ふっと息を吸ったあと——
「……すごい」
声が震えていた。
「言葉が、生きてる。
痛みが、優しい。」
胸の奥が、じんと熱くなる。
「あなた、才能があるよ」
「そんな……」
「本当。
でもね……無理してる。
あなた、どこかで止められてるでしょう?」
その一言で、
僕の呼吸が止まった。
桐谷さんは、それ以上は聞かなかった。
ただ、静かに、花がほころぶみたいに微笑んだ。
「あなたの言葉は、檻を破る力があるのよ」
「奪わせちゃダメ」
その響きが、胸のずっと奥で眠っていた何かをそっと揺らす。
――誰かが昔、言ってくれた気がした。
“君は自由でいていいんだよ”
やわらかい声。
でも、誰だったのか思い出せない。
時間の底に沈んでしまった光の断片みたいに、触れられない。
「ねえ、もしよかったら……」
桐谷さんは、少しだけ息を吸って、勇気を集めるみたいに言った。
「小説を書いてみない? あなたの中の世界を、形にしてみて」
「……僕が?」
「うん。あなたなら、きっと届くと思う」
ふわりとした優しさじゃなくて、
“信じている”という芯のある強さ。
「痛みを知っている人の言葉は、同じ痛みを抱えている人に届くの」
「でも、僕なんかの言葉が……」
「『なんか』じゃないよ」
その瞬間だけ、桐谷さんの声が少しだけ強くなった。
まるで僕の背中に薄い羽根をそっとつけてくれるみたいに。
「あなたの言葉は、あなただけのもの。
誰にも真似できない、大切なものなんだよ」
胸が、じんわりと熱くなる。
涙が、喉の奥でゆっくり膨らんでいった。
「新人賞があるの。締め切りは来年の一月末」
そう言って差し出してきたパンフレットは、紙なのに重かった。
期待とか、未来とか、忘れていた温度が詰め込まれているみたいで。
「もし書けたら、応募してみて」
「私、あなたの才能を応援してるから」
「ありがとう、ございます」
その言葉しか出ない。
でも、それだけじゃ足りない気もした。
「困ったことがあったら、いつでも連絡して。
力になるからね」
その瞬間、世界がふっと明るくなった気がした。
外の光は、思っていたほど冷たくない。
氷月さんじゃない誰かが、僕を“人間として”見てくれている。
商品でも、所有物でもなく。
ただの僕として。
マンションに戻る。
エレベーターの鏡に映った自分は、ほんの少しだけ表情が柔らかかった。
長い間、曇っていたガラスがやっと少し透けたみたいな顔。
“……これ、裏切りなのかな”
胸の奥で、小さな痛みが波紋を広げる。
部屋のドアを閉め、スマホを見る。
着信はない。
ほっとしてしまう。
けれど、胸の奥にうっすらと寂しさが流れ込む。
おかしい。
あんなに距離を置きたいと思っているのに。
連絡がないと、寂しいなんて。
この矛盾が、心の中でゆっくり軋んだ。
ソファに座り、パンフレットを開く。
「新人文学賞 作品募集」
文字が光って見えた。
知らなかった場所の扉を突然開けられたみたいに、胸がざわつく。
書けるだろうか。
そんな自信はない。
でも――
書きたい。
この胸の中で行き場を失って渦巻いている言葉を、
紙の上に落としてしまいたい。
氷月さんのこと。
あの静かな世界のこと。
痛みと、愛と、逃げたい気持ちと、触れてほしい気持ち。
全部。
ノートを開き、震える手でペンを握る。
『これから、書く。
何を書くのか、まだ分からない。
でも、書かなければならない気がする。
これは、僕が僕であるための、小さな闘いなのかもしれない』
夜。
スマホが鳴った。
画面に浮かぶ名前だけで、心臓が跳ねる。
「もしもし」
『瑠璃』
その声は、甘いのに冷たくて、
僕の胸をぎゅっと掴んで離さない。
「お疲れ様です」
『今日は、どうだった?』
「本を読んでました」
嘘。
今日も外に出た。
桐谷さんと話した。
でも、それは言えない。
『そう。ちゃんと電話に出られた?』
「はい。今日は、かかってこなかったので……」
『昼に一度かけたんだけど……出なかったね』
呼吸が止まる。
心臓が一拍遅れて、痛みのように脈打つ。
「え……?」
カフェのざわめき。
机の木の匂い。
桐谷さんの手元のコーヒー。
そのすべてが一瞬で凍りつく。
「あ……」
気づかれてしまった。
胸の内側で何かがきしむ。
「ごめんなさい……」
『やっぱり、家にいなかったんだね』
声が低くなる。
表情は見えないのに、眉が寄っていく気配が分かる。
「いえ、家に……」
『嘘をつかないで』
氷水みたいな言葉。
喉がひりつく。
「氷月さん……」
『どこにいたの?』
「近くの……コンビニに……」
自分の声がこんなに震えるなんて知らなかった。
『そう』
沈黙が落ちる。
空気が薄くなる。
『瑠璃、約束したよね』
「はい……」
『外には出ないって』
耳の奥で脈が痛い。
「ごめんなさい……」
『僕は、君が心配なんだ』
その言い方は優しいのに、
逃げ場をふさぐ鎖みたいだった。
『君の過去を知ってる人に会うかもしれない』
『危ない目に遭うかもしれない』
『だから約束したんだよね』
「はい……」
『もう、しないでね』
「はい」
『明日、帰るから』
息が止まる。
胸がぎゅっと縮む。
『ちゃんと、話そう』
「……はい」
『おやすみ、瑠璃』
「おやすみなさい」
通話が切れると、世界の音が一気に戻った。
手が震えていた。
背中に冷たい汗が流れる。
明日、氷月さんが帰ってくる。
そして――。
怖いのに会いたくて、会いたいのに怖くて、胸の中で感情が絡まり合う。
この矛盾が、胸の中で静かに裂けていく。
ベッドに横になる。
眠りだけが、遠い。
天井の白が、悲しいほど静かで、
触れたら冷たそうで。
明日、氷月さんが帰ってくる。
そうしたらまた、元の生活に戻る。
外に出ない。
誰とも会わない。
ただ、氷月さんを待つだけの日々。
だけど――
この二日間で、僕は変わってしまった。
外の空気を吸った。
自分の言葉を見つけた。
誰かが僕を信じてくれた。
“僕”を、見てくれた。
それを手放せるだろうか。
手放さなきゃいけないのだろうか。
分からない。
ノートを開いて、最後のページに書く。
『十二月九日、夜。
明日、氷月さんが帰ってくる。
怖い。
嘘がバレるかもしれない。
怒られるかもしれない。
でも、この二日間は宝物だった。
僕が僕であることを、少しだけ思い出せた。
氷月さんを愛している。
本当に、愛している。
でも、苦しい。
愛しているのに、一人になりたいと思ってしまう。
これはおかしいことなのか。
分からない。
でも、もう後戻りはできない気がする。
外の世界を知ってしまった。
自由の味を知ってしまった。
明日から、どうなるんだろう』
ペンを置く。
ノートを閉じる。
窓の外で、月が冷たい光をこぼしていた。
明日は、雪が降るかもしれない。
白い静けさに包まれるかもしれない。
目を閉じても眠れない。
心臓が、夜の中でひとり早く走り続けている。
――明日。
その一言だけが、胸の奥でゆっくり形を変えながら、
解けたり、固まったりしていた。
第2話、お読みいただきありがとうございます。
外の世界に出た瑠璃。
これから、どうなるのか——




