第1話 35階の部屋
十二月の夜。
窓の外は、凍てつく空に溶けた光で満ちていた。
三十五階の街は宝石箱のようにきらめいて、
その一粒一粒が、ガラス越しにしか触れられない遠い星のようだった。
指先で窓をなぞる。
冷たさは皮膚より先に、心の底へ零れ落ちていく。
この高さで輝く世界は、美しいのに、
どうしてだろう、ひどく遠い。
「瑠璃」
背後から落ちた声に、肩が震えた。
氷月さんが帰ってきたのだ。
振り返ると、撮影帰りとは思えないほど穏やかな笑み。
“完璧”と呼ばれる表情が、
今はただ、僕を囲い込むためだけに存在していた。
「また、外を見ていたんだね」
「……綺麗だったので」
嘘じゃない。
でも、本当の理由はもっと深くて、もっと言えない場所にある。
氷月さんが近づき、僕を後ろから抱き込む。
その温かさは優しいのに、
同時に、出口を塞ぐ腕でもあった。
「寒いだろう」
「大丈夫です」
「本当に?」
首筋に触れた吐息が、
冬よりも冷たく、冬よりも熱く感じられる。
体が固くなるのを、自分でも止められなかった。
氷月さんの手が、僕の腕を撫でる。
持ち物を確かめるように。
僕がここにいることを確認するように。
「瑠璃、冷えてる。暖房、ちゃんとつけてた?」
「……はい」
「嘘だね」
その声色の変化に、心臓が痛むほど跳ねた。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。君の体が心配なんだ」
そう言いながら、氷月さんは僕を抱き上げる。
脆い欠片を拾うみたいに。
触れられるほど、僕の輪郭は曖昧になっていく。
「少し、温めないとね」
そのまま寝室へ運ばれた時、
体は理解していた。
今夜も、何が起こるのかを。
抵抗する理由はなかった。
抵抗できないのではなく、
“抵抗という選択肢”が、もう僕の中に残っていないだけ。
ベッドに降ろされる。
氷月さんの手が、僕の頬をそっと包んだ。
「今日、寂しかった?」
「……はい」
「僕もだよ」
額に、頬に、顎に、淡いキスが落ちる。
その優しさの奥にあるものまで、全部飲み込んでしまいたくなる。
「今日も、君は美しいね」
「そんな……」
「本当だよ。君は、僕のものだ」
その言葉は、雪みたいに静かで、
触れたら溶けてしまいそうだった。
「……はい」
「誰のものでもなく、僕だけの」
「……はい」
「ちゃんと言って?」
逃げ場のない瞳が、まっすぐ僕を見つめる。
逃げようと思えば逃げられるはずなのに、
その場所から動けない。
「……僕は、氷月さんのものです」
言うたびに、心のどこかが軋んだ。
でも同時に、不思議な安心が降りてきた。
僕はひとりじゃないのだと、勘違いでも思えるから。
「いい子だ」
微笑みが落ちてきた瞬間、胸がじんと温かくなった。
それが幸せなのか、服従から生まれる安堵なのか、
もう分からない。
氷月さんの指が、僕の喉元をなぞった。
ただ触れただけなのに、その細い軌跡が熱を孕んで皮膚に沈んでいく。
「震えてる」
囁きは、肌の奥に直接落ちてくるみたいだった。
「……寒いだけ、です」
「違うよ」
首を掬うように指がまわり、親指がゆっくり脈を押さえる。
逃げ道を塞ぐわけでも、力をこめるわけでもなく、
ただ”僕の反応を読む”みたいに。
その掌が、喉の鼓動と僕の嘘を同時に掴んでいた。
「ねぇ、瑠璃」
唇が耳に触れる。
それだけで背が跳ねた。
「こんなに柔らかい声で震えてるのに……寒いわけないだろ」
肩越しに落ちた息が、皮膚をひとつずつ撫でていく。
ゆっくり、逃げられない速度で。
指先が鎖骨を辿る。
触れている時間が長すぎて、
どこからが触れられていない部分なのか分からなくなっていく。
「ここ、熱いよ」
「……っ」
胸の奥がきゅっと縮まる。
痛いけど、離れてほしくなくて――
そんな自分がいちばん情けなかった。
氷月さんは僕の上着をふわりと脱がせ、
肌に触れるその手つきは優しいのに、
服が床に落ちた音だけが妙に冷たい。
触れるたび、
僕という輪郭が氷月さんの都合で形を変えていく。
「力抜いて。怖くない」
怖いのに。
でも、その声に抗う方法なんて僕はとうに失っている。
腰にまわされた手が、逃げられない角度で引き寄せた。
布越しの体温が触れ合った瞬間、
呼吸が止まった。
「ほら、ちゃんとこっちを見て」
顎を指で上げられる。
目が合った瞬間、もう何も考えられなかった。
「綺麗だよ……壊れそうなくらい」
囁きながら、氷月さんの指が僕の背をゆっくり、ゆっくり降りていく。
触れているというより、
僕を”ほどいている”ような手つきで。
その度に、
体の奥で小さく鳴る声を、
必死に噛み殺した。
「瑠璃、声……我慢しなくていいよ?」
耳に落ちてくる声が、
一番触れてはいけないところを撫でてくる。
「僕が聞きたいんだ。君の全部」
胸が痛いほど熱くなり、
逃げたいのに、逃げたくなくて、
どちらに転んでもきっと落ちてしまう。
「……氷月さん……」
呼んだ瞬間、抱き寄せる腕が強くなる。
その強さが、支配なのか愛なのか、
もう分からなかった。
僕の反応ひとつひとつを確かめるように、
氷月さんの手はゆっくり深く触れてきて――
その先は、
もう夜の闇と、呼吸と、熱の中に溶けていった。
名前を呼ばれるたび、
僕は僕でなくなっていく。
でも、
それでもいいと思ってしまった。
氷月さんの腕の中でだけ、
僕は”存在していい”気がしたから。
気づけば部屋は暗くなり、
街の光がカーテンの隙間から細く伸びていた。
隣では氷月さんが眠っている。
腕が、まだ僕の腰に絡んでいた。
心地よい疲労と、鈍い痛み。
それを”愛”と呼ぶことで、
今日もまた一日が終わる。
でも、本当はどうなんだろう。
あの頃と、何が違うんだろう。
違うのは――
氷月さんが”買い取った”のは、僕の夜じゃなく、僕自身だということ。
その事実が胸を掠めた瞬間、
僕はそっと考えるのをやめた。
考えれば、きっと壊れてしまう。
「まだ起きてたの?」
眠っていたはずの声に、びくりとする。
「……はい」
「眠れない?」
「少しだけ」
氷月さんが僕を抱き寄せる。
ゆっくり、逃げ道のない強さで。
「大丈夫。僕がいるから」
優しいのに、どこか捕まえるような声。
「愛してるよ、瑠璃」
その一言に、胸がぎゅっと痛む。
「……僕も、愛してます」
愛なのか。依存なのか。
境界線はとっくに見えなくなっていた。
朝。
目を開けた瞬間、すぐ前に氷月さんの瞳があった。
「おはよう、瑠璃」
「……おはようございます」
優しく頬を撫でる指が、首筋へ滑る。
「ここ、少し痕が残ってる」
指先が触れた場所が、微かに熱を帯びる。
昨夜の痕――
愛の証拠。
そう思うことで、やっと呼吸が整う。
「ごめん。少し強かったね」
「大丈夫、です」
痛いのに、嬉しい。
嬉しいのに、胸が痛い。
氷月さんは、その痕にそっと口づけた。
消えてしまう前に、もう一度刻むように。
「シャワー、浴びようか。……一緒に」
“提案”の形をした命令に、従う。
バスルームで、氷月さんが僕の体を洗う。
陶器を扱うような手つき。
けれどその優しさの奥に、
「瑠璃がどこにも触れられていないか」を確かめる感触が混じる。
一日中この部屋にいるのに。
どこかへ行く自由もないのに。
それでも毎朝必ず確認する。
洗われるたび、
僕は自分が誰のものなのかを思い知らされる。
服も、髪も、全部氷月さんが整える。
鏡には、人形とその持ち主のような絵が映る。
「君を綺麗にするのは、僕の仕事だから」
その”仕事”という言葉が胸に小さな刺を残した。
朝食。
完璧な朝食が並ぶテーブル。
氷月さんは今日の撮影スケジュールを告げる。
「夜の九時くらいになる。……待っていてくれる?」
「はい」
即答すると、氷月さんは満足げに微笑んだ。
「外には出ないでね。約束だよ」
「……はい」
胸がきゅっと痛む。
外の空気を少しでも吸いたいと思うのは、
わがままなのだろうか。
でも言えない。
言えば、心配させてしまう。
信頼を失ってしまう。
だから――
従う。
「寂しかったら電話して。いつでも出るから」
その優しさが、時々息苦しい。
氷月さんが出ていき、扉が閉まった瞬間、
部屋の空気が変わる。
静寂が重たく押し寄せる。
僕はソファに座り、天井を見つめる。
触れられた場所がまだ熱く、
考えたくないのに、氷月さんのことばかり考える。
これは――
依存だ。
あの頃と、何も変わっていない。
ただ檻が変わっただけ。
スマホが鳴る。
氷月さんから。
『瑠璃、何してる?』
『本を読んでます』
嘘。
でも、正しい嘘。
『写真、送ってくれる? 君が見たい』
鏡の前で何度も笑顔を作り、氷月さんの好みの角度を探す。
“自然な笑顔”なんて知らない。
“氷月さんのための笑顔”だけが必要だから。
送る。
すぐ返事が来る。
『可愛いね。夜、たくさん触れさせて』
体が熱くなる。
嬉しい。
怖い。
『はい』
それだけ返す。
指先が震えていた。
昼。
またスマホが鳴る。
『瑠璃、昼ごはん食べた?』
『食べました』
食べていない。
でも、“食べてない”と言えば、撮影を止めて帰ってくる。
その優しさは、僕を優しく縛る鎖だ。
『夜、楽しみにしてて』
その言葉だけで胸が熱を帯びる。
期待と恐怖が入り混じり、
どちらにも傾けず、ただ揺れていた。
夕方。
鏡の前に立つ。
首筋の痕に指先が触れた瞬間、
胸の奥がきゅうと痛む。
これは愛の証か。
それとも、所有の刻印か。
あの頃、痕をつけられることは禁止されていた。
“商品”だから。
今、痕が残るのは許されている。
“氷月さんのもの”だから。
それは同じことじゃないだろうか――。
けれど、考えると涙が出そうで、
ゆっくり目を閉じた。
引き出しを開ける。
奥から、一冊のノートを取り出す。
隠してあるノート。
氷月さんには見せていない、唯一のもの。
ページを開く。
自分の字が、並んでいる。
ペンを握る。
今日の日付を書く。
『十二月三日。
氷月さんを愛している。
本当に、愛している。
でも、苦しい。
これは、愛なのか。
依存なのか。
分からない』
ノートを閉じる。
また、引き出しの奥にしまう。
これが、僕の唯一の秘密。
氷月さんから隠している、唯一のもの。
夜、九時。
ドアが開く音。
「ただいま、瑠璃」
「お帰りなさい!」
僕は玄関に駆け寄った。
氷月さんを見た瞬間、安心する。
体が、緩む。
「会いたかったよ」
氷月さんが、僕を抱きしめる。
その腕の中で、息ができる。
「僕も…会いたかったです」
本当だった。
一日中、氷月さんのことを考えていた。
会いたくて、会いたくて。
おかしい。
朝、別れたばかりなのに。
「いい子で待っててくれたね」
「はい」
「ご褒美、あげないとね」
氷月さんが、僕の顎を持ち上げる。
そして、唇が重なる。
深く、長く。
息ができなくなるまで。
離れた時、僕は息を切らしていた。
「瑠璃、今日も君は美しいね」
「ありがとう…ございます」
「夕食、まだだろう? 一緒に食べよう」
「はい」
でも、氷月さんの手は僕の腰に回されたまま。
「……その前に」
氷月さんが囁く。
その声は、甘くて、逃げられない。
「少しだけ、いいかい?」
それは、質問じゃない。
「はい…」
そのまま、寝室へ。
「少しだけ」は、いつも長い。
でも僕は、それを拒まない。
拒めない。
これが、僕たちの日常だから。
深夜。
氷月さんは眠っている。
僕は、そっとベッドを抜け出した。
氷月さんが目を覚まさないように。
リビングへ。
窓辺に立つ。
外の世界。
遠くに、高速道路の光が流れている。
車が走っている。
どこかへ向かっている。
僕も、かつてはあそこにいた。
自由に、どこへでも行けた。
いや、自由じゃなかった。
行く場所は決まっていた。
でも、今は?
今は、この部屋から出られない。
出てはいけない。
約束したから。
氷月さんとの約束。
ガラスに手を当てる。
冷たい。
外の世界は、冷たくて。
でも、ここは温かい。
どちらが、正しいのか。
分からない。
「瑠璃?」
背後から声がして、びくりとする。
振り返ると、氷月さんが立っていた。
「どうしたんだい? 眠れなかった?」
「…はい。少しだけ」
「そうか」
氷月さんが、近づいてくる。
後ろから、抱きしめられる。
「また窓を見てたのかい」
「はい…」
「外が、気になる?」
その問いに、息が詰まる。
「いえ…ただ、綺麗だったので」
「そうか」
氷月さんの腕に、力が入る。
「でも、外は寒いよ」
「はい」
「君は、ここにいた方がいい」
「はい」
「僕が、守るから」
その言葉が、優しくて。
でも、重くて。
「さあ、ベッドに戻ろう」
手を引かれて、寝室へ。
ベッドに入る。
氷月さんが、抱きしめる。
「もう、起きちゃダメだよ」
「はい」
「おやすみ、瑠璃」
「おやすみなさい」
目を閉じる。
でも、眠れない。
氷月さんの腕の中。
温かい。
安心する。
でも――
胸の奥に、小さな痛みがある。
名前のつけられない、痛み。
それが、何なのか。
まだ、分からない。
窓の外。
遠くの街に、ひときわ明るい星が瞬いている。
まるで、自由を知る蝶の羽のように。
でも、僕は飛べない。
この腕の中が、温かすぎて。
冬の街はきらめき、
僕の世界は静かに音を失っていく。
この体のどこにも逃げ場はない。
でもきっと――
心にも、もう逃げ場はない。
それでも恋は、
こんな風に始まってしまうのだろう。
儚く、
痛く、
美しく。
まるで――
飛べない蝶を掌に閉じ込めたまま、
その温もりごと静かに支配していく、
冬の夜みたいに。
十二月八日の朝。
薄く滲むような白い光が、窓の向こうで震えていた。
冬の朝の匂いは、胸の奥のどこか深い場所をじわりと冷やす。
「瑠璃、今日から二日間、海外ロケなんだ」
朝食の席で告げられた言葉に、
僕の手がぴたりと止まった。
「二日だけだよ。待っていられるかい?」
氷月さんの声は、いつものように優しい。
けれどその瞳の奥には、薄く影が差していた。
それが僕に向けられた不安なのか、
それとも彼自身の揺れなのか、分からない。
「……はい」
その一言は、口からこぼれた瞬間に胸の奥を締めつけた。
扉が閉まった音が、
部屋の空気から体温を奪っていく。
たった二日間。
それだけのはずなのに——
胸の奥にそっと、"解放の風"が吹いてしまった。
氷月さんがいなくて、ほっとしたなんて。
そんなこと、絶対に許されないのに。
第1話、お読みいただきありがとうございます。
瑠璃と氷月の関係、あなたはどう感じましたか?




