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全ルート潰しの王子は今日も現れる/転生ヒロイン、イベント完全制覇をあきらめない  作者: 妙原奇天


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第7話 幼馴染ルートの再挑戦

 放課後の鐘が三度鳴った。澄んだ金属音が空を渡り、学園の影がゆっくりと長く伸びていく。昼のざわめきは薄くなり、代わりに机の引き出しを閉める木の音や、椅子を引く控えめな音が重なって、校舎全体が別のリズムに切り替わる。

 レーナは自分の席で深く息を吸い、机の中から掌ほどの小箱を取り出した。箱の蓋は角が丸く、故郷の工房で油をしみ込ませた手触りが残っている。蓋をずらすと、柔らかい布が現れた。淡い色の布をめくる。そこにあるのは木の笛。音孔に指を置くと、乾いた木の匂いがわずかに立ち上がる。指先の温度で、思い出の方が先に温まる。


(夕陽の角度、四十五度。あの並木道。合言葉を、最後まで)


 ノア・フェンネルの“思い出上書き”は、幼い日の合言葉が鍵だ。ゲームの画面の中では、風景はいつでも美しかった。けれど現実では、風向きも、足音も、衛兵の位置も、王子の公務も、ぜんぶ動く。だから今日、レーナは三本の導線を用意した。

 表向きは「保健室に寄る」ルート。もう一本は「購買で補助教材を買う」ルート。そして本命――中庭の噴水の裏から裏門へ抜ける、細い細い通路。影が濃い時間のための道。

 教室の前方でプリントを束ねていたリリカと、レーナは短く視線を交わした。リリカはわずかに頷き、紙片を掲げる。表のルートのための“保健室行きメモ”。侍従の視界にわざと入る高さで、一秒だけ見せる。それから、さりげなくしまう。


 廊下に出ると、人の流れが二つに割れているのが見えた。正面玄関へ向かう群れと、保健室方向の薄い列。白手袋の侍従のひとりが、レーナのほうを一度だけ見て、すぐに目を離す。視線は軽いのに、網目は細かい。狙いどおりだ。表に人員が割かれた。

 レーナは鞄の位置を腰の後ろへ回し、足音を通常より半歩だけ短く刻む。中庭に近づくほどに、花弁の匂いが濃くなり、噴水の水音が一定の拍で胸の中の鼓動と重なる。噴水の裏はひんやりとして、光が柔らかく跳ね返る。レーナは上衣のボタンを二つ外し、内側に仕込んでいた色の地味なケープに素早く袖を通した。目立たないことが、今日の正義。


 噴水の石縁をなぞるように回り込み、薄い陰の帯に足を踏み出す。裏門へ抜ける細い通路は、石畳の目地が他より深い。雨が降るとすぐ水が溜まる場所。今日は乾いている。壁に沿って滑るように歩くと、世界の音が少しだけ遠くなった。表の動線の喧騒は、石の向こうに置いてきた。

 裏門を抜ける。目の前に整然と並ぶプラタナス。葉の裏側に夕陽が透け、緑が金色に混ざる。並木道は、古い友人のように静かに迎えてくれる。


 遠くから、足音。あのリズムを間違える人はいない。レーナは笛を握り、唇に触れさせる。音は出さない。ただ、幼い日に決めた位置に指を置く。

 カチ、と、石が硬く鳴った。

 振り向かずに、レーナは言う。「遅い」

 背後で小さく息が笑う気配。「知ってる」

 ノアだ。背丈が伸び、肩幅が広くなっても、歩幅は昔と同じ。石畳がノアの足だけ特別な音を出す。レーナは軽く肩越しに視線を送り、彼の横顔を一瞬だけ捉える。目尻の影は穏やかで、日中の眠たげな光とは違っていた。


 二人は並んで歩き出す。並木の端でレーナは立ち止まり、影の角度を計る。地面に落ちる影が足首の少し上。まだ早い。

 会話を投げる。「史科、次の単元、面白い?」

「丘陵地の風の話。レーナの得意分野」

「得意っていうか、好きなだけ」

「好きなだけを得意って言えるの、ずるい」

「ずるいって言われるの、嫌いじゃない」

 笑いが一回、葉の間を通る。沈黙が落ちる。沈黙は怖くない。ノアといる沈黙は、厚みがある。沈黙の底に、懐かしい地名を一つ落とす。

「セルンの丘」

「覚えてる」

「雨上がり、泥だらけ」

「笛、落とした」

「拾ったの、私」

「うん」


 光が深くなる。影が伸び、角度が合う。四十五度。

 レーナは笛を持ち上げ、息を入れずに運指だけを作る。幼い日の決めごと。親指、人差し指、中指――順番に置く。ノアの指がそれを追い、同じ形を作る。

 視線が重なる。

 レーナの喉の奥で、言葉が熱になる。

「この風は――」

 ノアの声が重なる。「北から」

 レーナ。「その向こうは」

 ノア。「丘の屋根」

 レーナ。「屋根の縁は」

 ノア。「僕らの手」

 レーナ。「手の……」

 ノア。「続き」

 言葉は最後まで届いた。どこにも落ちなかった。

 音のない演奏のように、二人の指は笛の上で同じ形を保つ。夕風が少し強く吹き、葉が光を細かく砕いた。

 胸の中で、何かがゆっくりと整う感覚があった。点と点が線になる。線が図形の輪郭になり、図形に体温が宿る。ノアは「……やろう」と静かに言った。

「……続き」

 レーナの視界がほんの一瞬、にじむ。泣きたくはない。泣くのは次のステージの演出にならない。目を細めてもう一度、手の形を確かめた。


 遠くのほうで、衛兵の配置がさりげなく変わる影が見えた。王子の姿はない。けれど、視線の網が広く、薄く、二人を包んでいる気配がある。

 妨害は来ない。来ないという介入。見守られているという制御。中央の磁場が、あえて向きを変えないで、周縁の風だけ整えているような感じ。


 合言葉が終わると、足元の影はゆっくりと位置を変えはじめる。門限の鐘が一回、二回、三回。空気が校内時間に戻ってくる。

「戻ろうか」

「戻ろう」

 並木道を引き返す。笛は箱に戻さない。まだ、掌の温度を渡していたい。

 裏門に近づくと、巡回の学生会バッジが視界に入った。レーナは自然に歩幅を緩める。形式的な説諭が始まる。

「日没後の裏門付近は、見学者の通行が制限されています。施錠前に戻るのが規則――」

「破っていません。日没前に戻っています。記録、確認できます」

「裏門側の歩行は“推奨されない”」

「推奨は義務ではない」

 説諭は続く。反省文の提出が告げられ、ノアは横で小さく笑って「俺、半分書く」と言う。

「二人で“反省の共同課題”?」

「そう。字がきれいなのはレーナ」

「こういう時に使うの、ずるい」


 反省文の紙を受け取り、薄くため息をつく。こういう面倒は嫌いじゃない。嫌いじゃないけれど、時間は奪われる。

 教室まで戻ると、空はもう群青に傾き、窓枠が夜の額縁みたいに世界を切り取っている。

 自分の席の上に、一枚の紙が置かれていた。

 丁寧な字。短い文。

 ――道に穴がある。明日は別の靴底で。

 署名はない。けれど、その“優しさの匿名性”の癖は知っている。ユリアン。

 ありがとうは書かない。

 レーナは紙を裏返し、余白に小さく赤で線を引いた。


(来なかった。来ないことが、介入)


 彼の優しさは、視線の整え方と同じで、こちらの選択肢の数を増やすふりをして、実際にはいくつかの道の砂利を掃いてしまう。歩きやすいことは、楽だ。楽は、期待を産む。期待は、依存の形になる。

 笛を箱に戻す。布が木肌を撫でる音が小さく立って、消える。

 胸の奥に少しだけ残っている震えを、言葉に変える。


(過去の根っこに、届いた。けど、根っこは一本じゃない)


 窓の外、衛兵の靴音が石の上で細かく反射する。通り過ぎていく。

 机にノートを広げ、反省文より先に、今日の“達成”と“課題”を並べる。

 達成――並木道、角度四十五度、合言葉、最後まで。ノアの手の温度。視線の重なり。

 課題――見守られる介入の読み替え。中央が動かない時の周縁の流れ。学生会の巡回ルートの変更申請。次の“静けさ”の舞台。

 ペン先が走る。

 書いていると、耳の奥で紙がめくられる音がした。

 案内人の声は、今日は来ない。来ないことが答えであることも、ある。

 代わりに、窓の隙間から入ってきた風が、机上の紙を一枚だけずらした。紙の角が光を拾い、細い三角形が白く灯る。

 レーナはそこに、さらに一行、書いた。


〈王子の“来ない介入”への対処〉

・来ない=網は張られている。網の目を利用して、静けさを固定化

・学生会の巡回を“静音ルート”に言い換える議題。合言葉は公的行為ではないが、静音の実験として扱える

・ノアの“静かな共同作業”を可視化。騒音の少ない教室の指定を申請

・リリカに“騒がしい見せ場”を別フロアで一つ作ってもらい、中央磁場を遠ざける


 書き終えると、部屋の空気が少しだけ軽くなった。計画という名の空気穴。

 反省文は、ノアと二人で半分ずつ。字はレーナが整える。文章は、ノアに一行だけ遊ばせる。「反省しています。でも、反省の仕方を学びたくて外へ出ました」――そういう無害な反抗。

 書き終わって窓辺に立つと、並木道の先に、夜のはじまりが柔らかく沈んでいくのが見えた。笛の箱は机の端。指はまだ少しだけ、木の匂いを覚えている。


 寮へ戻る廊下で、リリカが待っていた。

「どうだった?」

「やった。最後まで」

「やったね」

 リリカはほっとしたように笑い、次の瞬間には目をいたずらっぽく細める。「でも、捕まった」

「捕まった。共同課題、増えた」

「じゃあ、わたしも書く」

「それは違う」

「違わない」

 小声で笑いが続く。こういう小さな笑いは、磁場を乱す。笑いが多い場所は、中央の整えた線から少しだけ外れて、よどむ。よどみは、設計の余白だ。


 部屋に戻る。扉を閉める前に、廊下の端で一瞬、白い影が動いた気がした。振り返ると誰もいない。

 机に戻ると、笛の横に、いつの間にか紙切れが一枚増えていた。さっきのとは別。

 ――明日は雨。靴底だけじゃ足りない。

 まだ、署名はない。優しさの匿名性。

 レーナは紙を天井にかざし、透かしてみる。紙の繊維の方向。角の折り。ユリアンの筆圧の癖。

「……ありがとうは、書かない」

 声に出してみる。自分に聞かせるための声。

 笛を箱に戻し、蓋を閉じる。

 もう一度、ノートを開いて、四つの名前を書いた。


〈ノア/カイル/シオン/リリカ〉


 それぞれの名前に、今日の手触りを短く添える。

 ノア=静けさの鍵。

 カイル=守るの定義。

 シオン=制度の縁。

 リリカ=舞台の余白。

 そして、最後に小さく、名前を書かない誰かのための欄――

 王子=来ない介入。

 案内人=黙る助言。

 空欄の下には、一本の線だけ引いておく。線はまだ意味を持たない。明日、意味が乗る。


 ランプの火を少しだけ細くして、椅子の背にもたれる。

 今日、確かに届いた。過去の根っこに。ノアの指の温度に。合言葉の最後の音に。

 “コンプリートは、孤独では届かない”。声は今夜も来ないけれど、言葉は胸の中で消えない。

 明日は別の靴底。雨なら、音の吸い方が変わる。並木の葉の落ち方も変わる。衛兵の巡回の足音が湿って、角が取れる。静けさを作るには、いい条件だ。

 レーナはベッドに横になり、掌を胸に置く。指が笛の形を探す。息は入れない。形だけ。

 そのまま目を閉じる。

 暗闇の中で、並木道の影がもう一度ゆっくり伸び、笛の穴がひとつずつ、夜に溶けた。

 鐘は鳴らない。鳴らさない。

 静かな夜が、次の静けさのために、厚みを増していく。

 眠りは浅く、しかし切れない。夢の端で、ノアの足音だけが、昔と同じテンポでこちらへ向かってくる。

 明日は、過去の根っこをさらに下へ。雨の下で。中央が来ない介入を選ぶなら、その来なさを、こちらの武器にする。

 レーナは最後にもう一度、箱の中の笛の重さを思い出し、笑った。小さく。誰にも聞こえないように。

 明日は、もっと上手に。

 勝つために、やさしく。

 やさしいままで、勝つために。

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