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全ルート潰しの王子は今日も現れる/転生ヒロイン、イベント完全制覇をあきらめない  作者: 妙原奇天


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第3話 図書塔イベント検証

 寮の朝は、湯気ののぼる白い息のようにゆっくり動き出す。

 レーナは窓辺の小卓にノートを広げ、鉛筆で二本の線を引いた。一本は目立つ。一本は目立たない。どちらも図書塔へ向かう。

〈表ルート 教室→渡り廊下→教務→図書塔正面〉

〈裏ルート 寮裏庭→掃除具置き場横の小窓→塔下層→書庫〉

 線の交点に小さく丸をつけ、そこに“視線の休符”と書き込む。見られ続けることは、見張る側にも負担だ。休符を置けば、メロディは乱れる。

「ねえ、今日の私はどっちを歩けばいい?」

 ベッドの端に腰かけたリリカが三つ編みを指に巻き、いたずらっぽく首を傾げた。

 レーナは心強い味方の笑顔に微笑みを返し、折りたたんだ紙片を手渡す。

「表をお願い。これを侍従に渡して。“今日は体調が悪いから保健室へ”って。実際は廊下の真ん中で止まって、ため息を大きめに一回」

「大きめに一回。了解。演技指導が細かいの、嫌いじゃない」

「私も自分にだけは細かいの、嫌いじゃない」

 互いに目配せして立ち上がる。ノートの端、昨日拾った薄茶の史料の角が覗く。レーナはそれをそっと撫でた。紙のざらつきは、世界の設計図の裏側みたいに頼りない。それでも、確かな形でここにある。

 鐘が鳴る。授業と授業の狭間、渡り廊下に人が溢れた。光がガラスに砕け、焦点の合わない笑い声が波打つ。

 リリカは指示どおり中央で立ち止まり、胸に手を当てる。頬の色をわずかに引かせ、肩を落とす。芝居は上出来だ。ほどなく規律正しい靴音。ユリアン付きの侍従が、波を割ってやってくる。

「レーナは今朝から体調が悪くて。保健室で休むって」

 紙片を差し出すと、侍従は目だけで字面をさらい、わずかに眉尻を下げた。

「承知しました。殿下にお伝えします。……お連れしましょうか?」

「大丈夫。自分で歩けるから。あ、レーナは本当は今日、図書塔の資料を見たがってたんだけどなあ」

 わざとらしさ満点のため息。

 侍従は礼節の布でそのわざとらしさを包み、見逃すふりをしたまま、見逃さない位置へ滑っていく。廊下の端、視界の高い場所。

 観客が用意され、舞台は整った。

 レーナは裏庭へ回り込む。銀杏の木の根元、落ち葉の色が朝露で濃くなっている。掃除具置き場の壁は古く、ひとつだけ歪んだ窓枠がある。昨日、落ち葉掃除の往復の合間に測った枠の幅は、肩を斜めにすれば通れる。

 掌の鍵束を持ち替える。用務員からもらった“写し”は軽く、輪の摩耗が本物より浅い。金属同士を触れ合わせないように、呼吸を止め、鍵穴の向こう側の小さな舌に角度を合わせる。

 コト、と乾いた感触。

 小窓の内側の留め具が、素直に身を引いた。

 レーナは片腕を先に、次に肩、最後に腰をくねらせ、滑り込む。石壁の冷たさが制服越しにしみる。地面に触れる瞬間の音を、靴底の外側に逃がす。

 塔の内側は、しんと静かだった。紙と石灰、わずかに油の匂い。ここに来る者の呼吸の整いかたが匂いの層を作る。

(今日の狙いは、腹黒文官の不意打ち。棚の端、本が落ちる、その瞬間の距離。……演出を現実にするとき、一番大事なのは“遅すぎず、速すぎない”手の速さ)

 下層から螺旋階段を上り、書庫階の手前で一度だけ耳を澄ます。外から遠い、金属の音が響く。まだ訓練の刻限ではない。余裕はある。

 レーナは格子戸の影に身を寄せ、視線を上に滑らせた。高い棚の左側、背表紙の縁が数ミリだけ突き出ている厚手の本。誰かが意図的に手前ぎりぎりに戻した、崩れのきっかけ。

 梯子に足を掛け、一段、二段と上る。背中から肩にかけて、筋肉の動きを薄い布がなぞっていく。視界の端、窓から差す光が細い帯になり、埃がその帯にだけ白く浮く。

 指先が背表紙に触れた瞬間――

「攻略の定義を、そろそろ変える時」

 耳鳴りと区別のつかない微かな声が、金具の冷たさを震わせた。

 案内人。

 世界を外側から覗く、名のない観客。

 レーナは眉を寄せ、声を置き去りにするみたいに呼吸を整えた。

 一本の指を伸ばし、本の下端を支える。

 ほんのわずかに遅れて、別の手が、上からの落下を受け止めた。

「危ない」

 囁く息と紙の匂いが交じる距離。

 シオン・ハーケン。腹黒文官。

 視線が同じ高さで合う。まつ毛の影が、梯子の影に重なる。指先は熱くも冷たくもなく、感情の温度が外へ漏れない。

「君は王子の磁力を、反発で測ろうとしている」

 言葉は、穏やかに鋭い。

 レーナは口元だけで笑い、相手の間合いにあえて小石を投げる。

「じゃあ、私は非磁性体になる」

「磁石は裏表が同じだ。北を拒めば南が寄る。反発が強ければ、別の面が引く」

「なら、面を平らにする。どちらにも引かないように」

「平らに削れば、次は滑る。転ぶのは、君だ」

 息のテンポが、台詞のテンポと重なっていく。

 落ちかけの本にこもった空気がゆっくり吐き出され、ページがわずかにふくらむ。その薄い膨らみが、二人の距離を、言葉以上に測る物差しになった。

 そのときだ。塔の外から、規則正しい金属音が響いた。

 剣の鍔が打ち合う音。盾が石畳を擦る音。掛け声は抑えられているのに、リズムだけがこちらの胸に届く。

 レーナは梯子から視線だけを外に向け、窓の隙間を覗いた。

 王城側の巡回路から迂回してきた列。胸元の紋章で分かる。ローレン隊――カイルの部隊。

 塔の基部に、簡易のロープが張られていく。見張りの位置が変わる。動線の穴が、ひとつ、塞がる。

(やっぱり。安全配慮の名目。塔周辺の立入制限。裏庭の小窓は、今日が最後)

 心の底が冷たい水に触れた。

 だが、手は止めない。

 レーナはシオンの指からそっと本を受け取り、棚に戻した。

 梯子を降り、書庫の扉へ向かう。

 シオンは格子戸を開ける手を止め、代わりに鍵束を鳴らした。音は鐘のミニチュアのように鈍く響く。

「君は“定義の外側”に立ちたがる。外に立てば、内側のルールは君を守らない」

「守られに来たわけじゃない。読みに来たの」

「何を」

「世界の仕様。……塗り直す前の色」

 扉が開く。密度のある冷気が頬を撫でる。

 棚の列は、整いすぎていて海の断面みたいだ。

 レーナは目的の棚をあえて外し、古文書の箱が積まれた隅に膝をついた。

 箱の蓋に指をかけ、力を均一に――開く。

 古い紙の匂いが立つ。封蝋の跡、筆致の異なる署名、擦れて消えかけの年号。

 薄茶の一枚が、指の腹にざらりと触れた。

〈学内行事に関する王家特権の通達〉

〈王族による提案は最上位議事として扱い、同時刻に予定された私的行動または非公式行動に優先する〉

〈当該通達は安全配慮を目的とし、必要と認められる場合、既存の行事・動線・集会を上書きする権能を行使できる〉

 読みながら、胸の奥の何かが静かに位置を変えた。

 ユリアンの介入は偶然でも気まぐれでもない。制度の上に立つ正当性。上書きは彼個人の「わがまま」ではなく、世界の傾斜の結果。

 なら、傾斜の角度を少し変えればいい。

 地図を書き換えるのではなく、凡例を増やす。

 彼の権能を否定せず、発動させにくい形に“固定化”する。

「借りるわ」

「記録の持ち出しは原則禁止だ」

「写す。速く」

 レーナは袖口から細いメモ用紙を取り出し、要点だけを写した。文字は小さく、しかし整っている。

 シオンは何も言わない。何も言わないことが、許可の形であると知っている人の沈黙。

 外の金属音が近づく。階下で靴音。扉の開閉。

 立入制限の告知が始まったのだろう。

 レーナはメモを畳み、腰のリボンの裏地に滑り込ませる。

 扉を閉め、梯子の横を抜ける。

 シオンは格子戸に手を掛けたまま、視線だけで問いを寄越した。

「君は、王子を敵に回すのか」

「回したいのは“仕組み”。彼は仕組みの顔をしているから、顔に礼をして、仕組みに穴を開ける」

「顔に礼をして、仕組みに穴を」

「覚えやすいでしょ」

 シオンの口元が、ほんのわずかに笑った。

 レーナは塔を降り、外へ出た。

 ロープと見張り。学生への丁寧な説明。「安全のため」。

 言葉が柔らかいほど、侵入角は鋭利になる。

 胸に冷たい風を入れながら、レーナは寮へ戻った。

 夕暮れは、学園の輪郭をほんの少しだけ曖昧にする。

 寮の扉の前、影の濃いところに立つ人影がある。

 ユリアン。

 昼の太陽を味方につける笑顔とは違い、夜のための沈んだ微笑がそこにあった。

「遅くなって、すまない」

「殿下。お疲れさまです」

「今日の君は、指先が少し冷えていた」

 言葉の重心が、心臓の裏側に落ちた。

 塔で本を支えた手は、シオンのものだ。ユリアンはそこにいなかった。

 でも、彼は知っている。見たか、見させたか、見なくても届く仕組みか。

 どれでもいい。どれでも怖い。

「勉強していたので」

「君の勉強は、いつも誰かを救う。だから、見守られなければならない。……冷えないよう、明日は一緒に」

 やさしい言葉の芯に、針が一本。

 レーナは角度をきれいに整え、礼を置く。

「ご配慮は感謝します。……でも、私の明日は私のもの」

 沈黙。

 ユリアンは息をわずかに吐き、微笑を、ほんの少しだけ深くした。

「なら、私の明日にも、君がいるようにする」

 逃げ道の少ない美文。

 レーナは扉の取っ手に指をかけ、冷たさを受け取った。開く。閉じる。

 扉が合わさる寸前、彼の吐息だけが閾の上をかすめる。低い、柔らかな風の音。

 静か。

 それでも、世界のどこかで紙が一枚、めくられる音がした気がした。

 机のランプに灯りを入れる。

 ノートを開き、今日の収支を記す。

 裏ルート成功。腹黒の距離、再現。塔周辺の立入制限、発動。仕掛けの穴、ひとつ閉鎖。

 史料の写し、確保。王家特権=上書き権の制度的根拠、確認。

 赤で見出しを引く。

〈制度で封じられるなら、制度で穴を開ける〉

 下に箇条を走らせる。

・学生会議題「学年行事の分担固定化」提出

・安全配慮を目的とした手順明文化=“上書き”の発動条件を増やす

・固定担当は学期ごとに抽選、変更には委員会決議を必須化

・委員会の定足数は今期から増員=時間がかかる=王子の即時上書きの抑制

・利点の可視化(面倒が減る、責任が明確になる)で賛同者を確保

 ペン先がとまる。

 窓硝子に映る自分と目が合う。

 黒の底で、小さな光ノイズがぱちっと弾けた。

 案内人。

 声は先ほどよりも遠く、しかし輪郭は近い。

「攻略の定義を、変えるのね」

「私の定義は、選択肢の数じゃない。“選べる場”の設計」

「なら、彼は場そのものだ」

「場に、座布団を敷くわ。いくつも」

 ひとりごとのように交わして、レーナはノートを閉じた。

 薄茶の史料の写しを重ね、鍵を上に置く。

 今日手に入れたものは小さい。けれど、次のページをめくるには十分な重みだ。

 ランプの灯を落とすと、暗がりが部屋の形を取り戻す。

 ベッドに身を横たえ、天井の木目を数える。

 一、二、三――渡り廊下の渋滞。侍従の視線の休符。リリカの大げさなため息。

 全部が、次の一手のための拍子になって胸に戻ってくる。

(私は非磁性体になる。引かれも押されもしない。……でも、私が選ぶときは、私の足で歩く)

 目を閉じる直前、遠くの塔の頂で小さな明かりが灯った気がした。

 誰のものでもないように見える明かり。

 明日、その灯の下で配られる紙の一枚に、レーナの字が載る。

 議題。分担。手順。

 恋より地味で、恋より強い。

 それを知っている彼女は、自分の指先がまだ少し冷えていることに気づいて、にやりと笑った。

 冷えは、集中の証拠。

 熱は、最後の一押しに使う。

 そう決めて、静かな呼吸のなかへ滑り込む。

 夜は長くない。

 夜が短いのは、明日が忙しい印だ。

 忙しい明日は、たいてい、面白い。

 面白い明日は、たいてい、勝てる。

 そんな単純なおまじないを心の底に置いて、レーナは眠りに落ちた。

 東の空がまだ灰色のうちに、鳥が一声だけ鳴く。

 彼女は目を開け、身を起こし、ノートの新しいページをひらいた。

 太い字で、真ん中に書く。

〈次の一手――学生会に議題提出。賛同者マップ作成。ユリアンの“安全配慮”を議題化〉

 ペン先が紙を滑る音が、朝の最初の音楽になった。

 それは、王子の磁力でも、文官の静寂でも鳴らせない、彼女だけのリズム。

 レーナは深く息を吸い、扉を開ける。

 今日も、図書塔は遠くに見える。

 遠いものほど、狙い甲斐がある。

 足音が廊下に乗り、朝の光に溶けていった。

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