第20話 王子の弱さの告白
王城の庭園は、昼の賑わいをすっかり手放していた。背の高い木々が風を受けて小さく鳴り、低い生垣の間を月の光がまっすぐ落ちている。噴水の水は音を立てず、月光をほどいた糸のように細く見えた。昼に見るよりも小さい庭だと、レーナは思った。余白が暗さで隠れて、必要な輪郭だけが残る。誰かと話すには、ちょうどいい。
ユリアンは、すでにいた。礼装でも学園の制服でもなく、軽い外套を肩にかけ、手には何も持っていない。護衛の姿は、どこにも見えない。門の外の見張りに最小限の兵だけが残され、庭の中は、二人分の呼吸だけだ。
「待たせた?」
「いいえ。……来てくれて、ありがとう」
それだけで、今夜の空気が定まる。形式ではなく、素の声で始められる夜だと分かった。
ユリアンは噴水の縁から半歩離れ、まっすぐに向き直る。いつもの落ち着いた表情のまま、しかし言葉を選ぶ間は短い。準備してきた言葉を並べるのではなく、今の自分の声で出すために、準備を捨ててきたのだろう。
「私は一度、選べなかった」
最初の一文が、夜の中心に置かれた。庭の影が、わずかに寄ってくる気がした。
「選ぶ前に、事が終わった。終わってから、私は自分の手の遅さを知った。だから——全部選ぼうとした。選べないなら、全部抱えてしまえば落とさないと思った」
レーナは、頷きもしないで聞いた。相槌で彼の言葉の速度を変えたくなかった。ユリアンの声はいつもより少し低く、単語と単語の間に、過去の温度が残っている。冬の出来事なのだろう。旧医務室で見た記録の余白が、ふいに胸に浮かんだ。間に合わなかった。次は上書きする。侍従長の若い筆跡。王子の“正しさ”の始まり。
「全部を抱えれば、誰のものも落とさない。そう思っていた。でも、それは君の手から選択を奪った。私が先に抱えることで、君に渡す前に形が変わった。君が選ぶ前に、私の形になってしまった」
言った。自分の正しさの副作用を、言葉にした。彼がそこまで来るのに、どれだけの時間が要ったかを思うと、胸の奥が熱くなる。彼は王族としての訓練を受け、正しさを職業にしている。正しさをほどくのは、正しさを築くより難しい。
レーナは、唇を開いた。ありがとう、と言いかけて、言葉を変える。今夜ここまで進んだのなら、次を置ける。
「条件を、もう一度言う」
ユリアンの目が少しだけ細くなり、注意が集まる。
「私が“拒む”と言ったら、止まること。二つ目、私が“自分で選ぶ”と言った導線に、あなたは先回りしないこと。三つ目、私が“扉を閉めたい”とき、あなたは鍵を作らないこと」
静かな庭に、三つの条件が真っ直ぐ並ぶ。どれもこの数週間で少しずつ形になってきたものだ。今夜はそれを、正式に置く。契約ではない。約束だ。約束は、互いの側に置かれている。
ユリアンは目を閉じ、息を吐き、そして開く。視線が揺れずに戻ってきたのを見て、レーナは胸の奥の力を少し抜いた。
「……一つ目は守る。二つ目は、努力する。三つ目は——できるようにする。約束する」
完了形の約束。今まで彼が避けてきた言い方だ。“検討する”“努める”の向こう側にある言葉が、今、月の下に置かれた。努力は条件から逃げるための言葉ではないと知っている。それでも、完了形は重い。彼がその重さを自分の肩に置いたのを、レーナは確かに見た。
彼女は一歩だけ近づき、袖口に指を触れた。布の感触は冷たく、皮膚の温度は高い。
「それなら、私からも条件」
「まだあるのか」
「ある。簡単で、難しいやつ。あなたが弱いとき、弱いと言うこと」
ユリアンの目がわずかに見開かれ、そして初めて、笑いがこぼれた。声にはならない笑い。けれどそれは、これまでと違う種類の緩みだった。
「難題だ」
「難題には価値がある」
「たしかに」
短いやり取りで、空気の硬さがほどける。案内人の声が、水面から小さく跳ねた。月に触れた糸のような水に、いたずらのような言葉が混ざる。
「扉、ついたね」
レーナは反射で噴水を見た。誰もいない。けれど、聞こえた。ユリアンは声が聞こえたわけではないはずなのに、同じ方向に視線を向け、うっすら微笑む。共有したものは、言葉でなくても分かるときがある。
そのときだった。庭の門外、石段のあたりで小さな叫び声が上がった。金具が鳴る音、短く切れた息。夜間巡回の兵が足を滑らせたのだろう。
ユリアンの身体が、反射で動いた。王族の訓練。危険に先に手を伸ばす癖。正しさの最短経路。彼の足が芝を踏んだ瞬間、レーナは短く言った。
「止まって」
反射より短い言葉。命令ではない。約束を思い出す合図。ユリアンの足が、石になったように止まる。彼は彼女を見た。二秒。長い二秒。庭の影が、動かない影になった。
門の外の兵は、自分で立ち上がった。仲間の手を借りて、鎧の埃を払う。すぐに姿勢を正し、再び巡回に戻る。何も起こらない。世界は続く。
ユリアンは息を吐き、低く笑った。さっきよりも、人間の笑いに近い。
「……難しい」
「でも、できた」
「うん」
笑いながら、少しだけ泣く。泣くほどの出来事ではないのに、目の奥が熱くなる。泣く理由はひとつではない。反射を止めた自分に驚いたこと。止めるように言えた自分を信じられたこと。止まった彼を見て、この先を信じてもいいと思えたこと。
「ほら」
レーナが袖から手を離すと、ユリアンは指先で自分の目尻を軽く押さえ、照れたように笑った。
「弱いと言う練習は、今じゃないか」
「そうね。たしかに、今」
「弱い」
「よく言えました」
二人で小さく拍手をした。誰も見ていないから、ばかみたいなことをしてもいい。ばかみたいなことを許せる夜は、あまりない。こういう夜は、分岐点になる。
「一つ聞いてもいい?」
「どうぞ」
「……君が私を嫌いになる可能性は、今、どれくらいある?」
「ゼロではない。でも、今夜は低い。低いことを、私が分かっている」
「よかった」
正直さの方向が揃う。怖さを隠すかわりに、怖さを置く。置いてしまえば、踏まずに歩ける。ユリアンは噴水の縁に腰を下ろし、レーナと同じ高さになった。月の光が彼の耳の輪郭を薄く照らす。いつも舞台の上にいた人が、今は、地面に座っている。
「君は、扉をどこに付けた?」
「ここ。庭の真ん中」
「ずいぶん目立つ」
「目立つほうが、外からも蝶番が見える。シオンがそう言った」
「良い助言だ」
「ね」
少しの沈黙。噴水の糸が、風に切られて揺れる。二人の視線は、その揺れと同じ速度で、夜の濃さに馴染んでいく。
「私のことを、もう少しだけ言う」
「うん」
「全部を抱えるのは、仕事としては正しい時がある。王族としては、いつかまた、そのやり方に戻る瞬間があると思う。けれど——君といるときは、やめる」
「その線引きは、私のため?」
「君と、私のため」
「なら、受け取る」
「ありがとう」
「礼を言うのは、約束を守れたとき」
「努力する、ではなく?」
「守る、と言ったよね」
「言った」
「なら、守って」
「守る」
完了形の反復。自分で自分に課す形。言葉は、口にするたびに重さを増す。重くなりすぎると折れる。だから、重ね方を覚える必要がある。今夜の彼は、その重ね方を探している。探す姿そのものが、レーナには好ましかった。
ユリアンは外套の内側から小さな封筒を取り出した。差し出しながら、説明を付け加える。
「贈り物ではない。返すものだ。君が旧医務室で写し取った紙片。公式に、閲覧記録の写しとして認めた。君の権利で持つものだ」
封筒の口は封じられていない。受け取りの自由があるという意味だ。レーナは受け取った。重さは、紙の重さしかない。
「ありがとう。……こういう“返す”は、好き」
「君に喜ばれたら、私も少し嬉しい」
「少し?」
「少しずつにしておきたい」
「どうして」
「一気に増やすと、私はすぐ全部にしたがるから」
「自覚があるのは強い」
「弱いのかもしれない」
「弱いと言えたのは、強い」
「ややこしい」
「人間はややこしい」
ユリアンが笑う。レーナも笑う。二人の笑いが重なると、庭が少し広くなったように感じる。余白が戻る。そこに、次の言葉を置ける。
「明日からも、私は私の速度で進む。あなたは外で待つ。危険が来たら——」
「止まっていいかどうか、君に聞く」
「聞くの?」
「君が“今は止まって”と言ったら止まる。“来て”と言ったら行く。……君が言う前に、勝手に定義を変えない」
「できる?」
「できるようにする。約束する」
また完了形。今度は彼自身の訓練への約束だ。反射を訓練で作ったのなら、反射を訓練でほどくこともできるはずだ。王族の教育が万能であるわけではないけれど、王族の教育は万能でないことを知るためにもある。
門外で、巡回の兵たちの足音が遠ざかっていった。庭はさらに静かになる。虫の声すら、ここでは遠い。噴水の糸だけが、夜の中心を結んでいる。
「レーナ」
「なに」
「君がいなかったら、私はここまで来られなかった。ここまで来たら——君がいない日も、ここを守れる気がする」
「それが一番うれしい」
「そうか」
「あなたがいない日に、私が選び方を忘れないように。私がいない日に、あなたが止まり方を忘れないように」
「忘れない」
「忘れそうになったら?」
「弱いと言う」
「よくできました」
二人でふざけて、また小さく拍手をした。月は少し動き、噴水の糸の角度が変わる。庭の影の位置も、わずかに変わる。目に見えない変化が、確かに背中を押す。
「もう行く」
「送らない」
「送らないで」
「分かった」
レーナは封筒を胸に入れ、噴水から離れた。ユリアンは動かない。止まるべき場所で止まる人になろうとしているのが、遠目にも分かる。彼が芝の上で影になっていく。レーナが石畳を踏む。靴音が三歩分、重なって、そこで離れる。
庭の出口に近いところで、案内人の声が、また軽く跳ねた。
「今日の扉、ちゃんと鍵穴ついてた」
「見えた?」
「見えた。外からでも見える高さ」
「よかった」
「ねえ、明日、少しだけ揺れるよ」
「何が」
「仕様のほう」
「揺れて倒れる?」
「倒れない。揺れて、穴があく。君が開けたのと同じ形。誰かが通れる」
「誰」
「君が選ぶ誰か」
声はそこで消えた。彼女の中に残ったのは、不安ではなく準備の感覚だ。揺れるなら、立ち方を整えるだけだ。背中が伸びている夜は、準備が早い。
城の外縁に続く渡り廊下へ出ると、遠く、学園の尖塔が月の線を切っていた。レーナは立ち止まり、封筒の角を指で確かめる。紙は薄い。けれど、中にある行は重い。——上書きは、同意の扉の前で止まれ。自分の字。今日の夜まで、言葉だけの線だった。今は、庭の真ん中に実物がある。蝶番の音まで、たしかに聞こえた。
寮に戻ると、机の上に小さな花瓶があった。リリカが置いていったのだろう。濃い青のリボンが結んであり、紙片が挟まっている。
——扉の飾り、第一案。取り外し可。気に入らなければ、次へ。
レーナは笑って花瓶を窓辺に置き、リボンの結び目を確かめた。強く引けばほどける。日常ではほどけない。ちょうどいい。
ランプを落とす前、窓を少し開ける。庭の方向から、夜の匂いが弱く流れ込む。月は薄くなり、星が増えた。今夜の会話は、明日には過去になる。けれど、過去は消えない。過去を言葉にした人の姿は、もっと消えない。
ベッドに横になり、目を閉じる。明日の揺れに備えて、体の力を抜く。弱いと言えた人に、弱いと言ってもらうには、こちらも正直でいなければならない。強く見せるためだけの言葉は、扉を固くする。固くした扉は、いつか自分の指を挟む。
「おやすみ」
小さく言うと、外のどこかで蝶番が一度だけ鳴った。返事だと思った。返事がある生活は、呼吸が深い。眠りは、ゆっくりと沈む。月は動き、噴水の糸の角度がまた変わる。世界は続く。続いていくように、今夜、二人は約束を置いた。終わりではなく、更新の始まりとして。




