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全ルート潰しの王子は今日も現れる/転生ヒロイン、イベント完全制覇をあきらめない  作者: 妙原奇天


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第10話 文官試験の罠

 期中試験の朝は、校庭の木々まで静まっていた。風がない。旗も鳴らない。音が少ない朝は、紙の道具が一番よく働く。レーナは寮の机で、紙とペンの相性を最後まで確かめた。筆圧は軽め、線は細め。速くも遅くもなく、読み返した教師が「丁寧だ」と言い切れるくらいの速度で運ぶ。そして、あえてところどころに小さな迷いを残す。迷いは会話を呼ぶ。補講室での「条文書き写しイベント」は、そこから始まるはずだ。


 廊下の掲示板には「文官筆記 一時限目」とあり、試験監督の名簿が下がっている。受験生たちの靴音は短く、話し声は低い。ノアは遠くから軽く手を挙げ、頬を叩いて自分を起こす仕草をした。カイルはすでに教室の扉の前に立ち、避難経路の地図を無意識に目で追っている。シオンは列の最後尾にいて、壁の時計の分針と自分の脈を合わせるように視線を上下させていた。いつもの調子だ。


 試験問題は、おそろしく正確な言葉で組まれていた。形式は選択と記述の折衷、最後に条文の要旨を自分の言葉でまとめる大問。冒頭に並ぶ基本概念は、教本に忠実だ。レーナは心の中で、小さく頷く。ここで差はつかない。勝負は後半。わざと曖昧に置かれた語を、どれだけ正しく“曖昧なまま”扱えるか。


 「公序」「善良の風俗」「公共の福祉」。似ているようで、隣り合っていない。レーナは、答えの文章に余計な飾りを足さないよう注意しながら、ところどころに自分の解釈の角を置いた。角は小さいほどいい。評価する側が触ったときに、引っかかる程度の角。その角が、補講での会話の火種になる。


 静かに始まり、静かに終わる。予定通りだった。ベルが鳴ると同時に、監督が用紙を回収する。紙の束が机上を移動し、最後尾でぴたりと止まる。レーナは深呼吸をせず、首だけ回して肩のこわばりをほどいた。肩の力を抜く仕草は、不必要な戦意を隠すのにちょうどいい。


 午後、補講室。窓からの光が四角く床に落ち、机の上に薄い影を作っている。参考法典と判例要旨の写し、それから薄い紙が重ねて置かれ、席は二人掛け。監督官が「指導を希望する者は相互に意見交換を」とだけ言い、扉の近くに控えた。


 最初にレーナの机に影を落としたのはシオンだった。手袋は外さない。椅子を引く前に、視線で隣に座る許しを問う。レーナは短く頷く。彼は腰掛け、参考条文の写しを一枚、彼女の前に広げた。


「第一条の“公序”をどう読む?」


 問いは直球。言い方は柔らかい。相手の反応を測るための最短距離の球だ。レーナはあらかじめ残しておいた迷いのひとつに、指先を添える。


「“秩序”に引き寄せて読める場面はあると思うけど、この条文では“合意の合計”に近い。今この社会で、多くの人が『それは困る』と感じる範囲の重なり」


「合計は、誰が数える?」


 罠だ。数える者が支配する。統計は中立に見えて、重み付けを誰が決めるかで歪む。レーナは、わざと踏み込むほうを選んだ。


「いまは王家。けれど、いつかは私たち」


 シオンの唇の端が、ほんの少し上がった。「野心は似合う」


「褒め言葉として受け取っておく」


「褒め言葉だよ。野心を言葉の上で正しく扱える人は少ない。大抵は燃料にして暴走する」


「暴走の記録は旧医務室で見た」


「それを見たうえで、その答えを出すなら、君はだいぶ頑丈だ」


 言葉は軽いが、視線は軽くない。シオンは参考条文に赤鉛筆で細い印を付けた。


「では“善良の風俗”は」


「この条文文脈では“羞恥”とか“慣習”ではなく、実害の出やすい境目。誰かが傷つく可能性の高い行動を止めるための網。だから、本来は狭く読む」


「広く読めば安心だからね。広く読まない選択をできる人は少ない」


「広く読む安心は、考える面倒を減らす安心でもあるから」


「君は面倒が好きだ」


「きっと、好き」


 シオンは笑い、紙を一枚めくった。


「次。第三条の“公共の福祉”。ここでの“公共”は“公衆”ではない。『共同体の基礎条件』に近い。ここでの“福祉”は『幸福』ではない。『基礎条件の安定』だ」


「同意。だから、ここで禁止されるのは“うるさいこと”じゃなくて、“基礎条件を壊すこと”。……たとえば、誰かの選択の回数を減らす指示を安易に重ねること」


 言いながら、自分でユリアンの横顔を思い出す。言った直後に、シオンの目が細くなり、わずかに笑みを隠した。彼はこの会話の先を知っている。補講室の空気は整っている。イベントの条件は揃った。あとは、彼の「言葉の罠」に一度綺麗に落ちること。


「では、最終問い。『自由』とは何か。三十字以内」


 レーナは、彼が置いた小さな穴に気づく。三十字。短い定義は美しくなりやすい。美しさは、罠と親しい。


「“選べるように見える束縛”」


 先に答えたのは、シオンのほうだった。彼は自分の用紙の上に、その一行を書き、音もなくレーナの机に滑らせる。レーナは笑みをこらえて、肩だけで小さく息をした。


「先に言われた」


「この定義が、今日の君には似合う」


「嫌味として受け取ってもいい?」


「褒め言葉だよ」


 そのとき、補講室の扉が静かに開いた。監督官とともに、ユリアンが入ってくる。制服の襟は乱れていない。視線は穏やか。場を壊す気配はないのに、空気の重心が一瞬で変わる。


「補講の公平性を担保するため、距離を保つこと」


 それは正しい。正しいけれど、レーナたちが今、ちょうど“心拍を上げるための会話”に入るところだったことを、見事に打ち消す一言でもあった。条文の解釈は理屈だけでは身につかない。体温の上がる瞬間が必要で、今それを作っていた。


 レーナは微笑み、立ち上がって一礼した。


「ご配慮に感謝します」


 礼は武器になる。正しい言葉には、正しい形で返す。監督官は「一定の間隔を」と指で示し、二人掛けの席の間に一脚ずつ椅子を差し込んだ。シオンは肩をすくめ、机の上に先ほどの紙片――「自由:選べるように見える束縛」――を置いたまま立ち上がる。


「じゃあ、今日はここまで」


「今日の“罠”は綺麗だった」


「明日も置く。拾って」


 彼はそれ以上何も言わず、扉の外へ滑るように出て行った。手袋は外さないまま。背中を見送りながら、レーナは紙片を指先で押さえた。紙は薄いのに、意味は重い。


 部屋に残ったユリアンは、窓の角度を確かめるふりをして、レーナの机へ近づいた。参考条文、判例要旨、そしてレーナの筆跡。彼はそれらを、目で丁寧になぞる。


「速い。けれど、最後の一画はよく震える」


「震えは、怖さじゃなくて、進みたい速度のせい」


 ユリアンはわずかに視線を緩めた。目の奥に、朝の光の色が差す。


「なら、私の速度を、君の速度に合わせる方法を探す」


 それは、妨害の新しい宣言にも聞こえた。彼が速度を合わせるということは、合わせた結果、彼の影がずっと隣にあるということだ。影は涼しく、同時に視界を奪う。


「合わせる前に、扉を置いて」


「扉?」


「上書きの前に、必ず止まる場所。三十秒だけでいい。さっきの会議で決めたように」


「……分かった」


 短い返事だった。約束ではない。でも、嘘でもない。ユリアンは机の端に指を添え、紙片を見つめる。


「“自由:選べるように見える束縛”。今日は、この定義が君の机にある。明日は、別の定義を置けるようにする」


「自分で置くよ」


「手伝える」


「見ているだけで」


 ユリアンは何も言わなかった。黙って、わずかに笑った。監督官が咳払いをし、部屋に静けさが戻る。ユリアンは一歩下がり、全体に向けて「続けて」とだけ言って、扉の外へ出た。


 補講室の空気は少し軽くなったが、さっき作りかけた温度は戻らない。レーナは紙片をノートに挟み、条文の穴埋め問題を一通り見直す。答えはあっている。問題は、あの一拍が潰れたことだ。潰れた一拍は、別の場所で取り戻すしかない。


 夕方、学生会室。窓の外は曇り、塔の影が短い。机に置いた紙片を広げる。「自由:選べるように見える束縛」。シオンの一行は、読み直すたびに別の顔をする。解釈の幅が広い言葉は、上手に使えば梯子になり、下手に使えば網になる。


 レーナは赤いペンで小さく付け加えた。


「――ただし、『同意の扉』を通った選択に限る」


 自分の言葉で、罠の奥に小さな杭を打つ。誰かが数える合計、誰かが定義する風俗、誰かが守ろうとする福祉。どれも否定しない。けれど、先に置くのは扉。上書きの前に立つ扉。そうすれば、速度を合わせるという言葉が、支配ではなく並走の意味を持てる日は来る。


 ノアがノックもなく顔を出す。「どうだった」


「罠を踏んだ。踏み方は綺麗だった。でも、途中で止められた」


「王子?」


「うん。『公平』という名の椅子を一脚、間に置かれた」


「それはそれで、間違ってない」


「間違ってない。だから厄介」


 ノアは机の端に座り、紙片を覗いた。「これ、好きな言い方だ。きれいに見えるから怖いけど」


「きれいだから怖い。だから、扉を足した」


「らしいね」


 ノアは短く笑い、持ってきたメモを机に置いた。「静音日の初日のアンケート、集計した。共同課題の進みは二割増し。読書時間の質は『集中できた』が七割。巡回の負担は“やや増加”」


「数字がついた」


「二週間後にもっと揺れるけど、最初の手応えは悪くない」


 ノアは立ち上がり、表の貼り替えを手伝うと言って隣の机に行った。あとで、彼の字で「静音日の説明文」を掲示板に貼る予定だ。無駄がない文は、余計な争いを生まない。


 夜。寮に戻る途中、渡り廊下のガラス越しに、訓練場の端でカイルが後輩に槍の握りを指導しているのが見えた。遠くの声は聞き取れないが、手の振りでだいたい分かる。「止まれ」「見ろ」「進め」。心のうちの指示と似ている。止まる、見る、進む。順番が狂うと、怪我をする。紙の上でも同じだ。


 部屋に戻ると、机の上に一枚の封筒。差出人はない。中には短い紙切れ。


 ――明日の補講は、座席の間隔を「目安」とする。指導の妨げにならない範囲で、会話を尊重する。


 ユリアンだ。署名はないのに、分かる。言葉の硬さと柔らかさの混ぜ方に、彼の癖が出る。レーナは封筒をたたみ、ゴミ箱に入れず、ノートの見返しに挟んだ。礼は書かない。礼を言い続けると、礼が鎖になるから。


 机に向かい、今日の出来事を簡潔に記す。試験、補講、罠、椅子、紙片、扉。書きながら、シオンの一行が何度も頭に浮かぶ。「自由:選べるように見える束縛」。言葉は危険だ。危険だから使う価値がある。正しく置けば、守る側にも攻める側にも回る。


 灯りを落とす前、レーナは白紙を一枚机の中央に置いた。次の試験の紙は、まだ白い。白い紙は味方だ。怖いのは、白い紙を他人の速度で埋めようとすること。明日は、自分の速度で、誰かの速度を追い越さず、置いてもいかず、並ぶ。


 窓の外で、見張りの交代の靴音が遠ざかる。静かな夜だ。レーナはペン先をキャップで覆い、箱の中にしまった。笛の箱には触れない。今日は文字の音だけで十分だった。


 ベッドに横になり、目を閉じる。紙の上の小さな震えが、心臓の強さとは別物だと分かっているから、眠りはすぐに来た。明日も、罠は置かれる。明日こそ、綺麗に落ちて、綺麗に抜ける。抜けるための扉は、もう描いた。あとは、開けるだけだ。

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