夜市の灯火 04
舞台の上の母は、観客に向かって微笑み、手を差し伸べる。その手の先に、少年がいた。 幼い彼が、客席の最前列で、目を輝かせて見上げていた。
「僕、ここにいた。あのとき、ここにいたんだ」
少年の声が、記憶の中の自分と重なっていく。舞台の光、母の声、客席のざわめき。 すべてが、彼の中でひとつに繋がっていく。
だが、次の瞬間——
光が、揺れた。 舞台の上空から、何かが軋む音がした。 少年の表情が、凍りつく。
彼女は、そっと彼の手を取った。その手の震えを、ただ受け止める。
「まだ、全部は思い出せなくていい」 そう語るように、彼女は静かに頷いた。
舞台の光景は、やがて霧のように薄れていった。けれど、母の声の残響は、少年の胸の奥に、確かに残っていた。
灯火の残響が静かに消えていく。空間は再び沈黙に包まれたが、少年の胸の奥には、確かな温度が残っていた。母の声。それは、音ではなく、感情のかたちだった。
彼女は、少年の横顔を見つめていた。その目に映るのは、過去を見つめる者のまなざし。
黒猫が、肩の上で小さく身を翻す。
「にゃ。声は見つかったけど、まだ終わってない気がする。 この空間、もっと奥がある。...何かが、まだ眠ってる」
少年は、日記を胸に抱えたまま、立ち上がる。その手は、もう震えていなかった。
「母の声は、確かにここにあった。でも、僕がどうしてそれを忘れたのか...まだ、わからない。それに、どうしてこの場所に日記があったのかも。」
彼女は、灯火の奥を見つめる。そこには、さらに深い闇が広がっていた。 灯火の光も届かない、夜市の心臓部。
少年は、彼女の視線を追うように、そちらへと目を向ける。
「行ってみたい。 怖いけど、今なら...君となら、行ける気がする。」
彼女は、短く頷いた。その沈黙は、少年の決意を受け止めるものだった。
ふたりは、灯火の深部へと歩き出す。足元の石畳が、少しずつ変化していく。焦げた痕、割れた床、そして——舞台の残骸。
少年の足が止まる。 そこには、崩れた照明の台座があった。 金属の歪みが、火災の熱を物語っている。
彼は、ゆっくりとその前にしゃがみ込む。
「...ここで、母が...」
言葉は続かなかった。 けれど、彼女はそっと隣に腰を下ろし、彼の手に触れた。 その魔力が、空間の記憶に触れる。
灯火が、微かに揺れた。 そして、空間の奥から、もうひとつの“記録”が現れる。
それは、日記とは別の、魔法陣の痕跡だった。床に刻まれた線。誰かが、何かを“始める”ために描いたもの。
少年は、それを見つめていた。その形に、見覚えがある気がした。けれど、まだ思い出せない。
彼女は、魔法陣に手をかざす。魔力が、静かに共鳴する。
黒猫が、低く囁く。
「にゃ。この魔法、あんたの魔力に似てる。もしかして、あんたが——」
少年は、目を伏せた。 その胸の奥で、何かが揺れていた。
「...わからない。 でも、もし僕が...この場所を作ったのだとしたら、それは、母の声を思い出したかったからだと思う。」
彼女の指先が魔法陣の中心に触れると、空気がわずかに震えた。灯火の光が、陣の線をなぞるように淡く広がっていく。その光は、記憶の残滓を拾い上げるように、空間の奥へと染み込んでいった。
少年は、魔法陣の形を見つめていた。円と線の配置、刻まれた文字の癖。どこか懐かしい。けれど、思い出せない。
「この魔法...見たことがある気がする。でも、いつ、どこでだったか...はっきりしない。」
彼女は言葉を返さず、魔力を静かに流し込む。 魔法陣が、彼女の魔力に反応するように、わずかに光を強めた。
黒猫が、低く呟く。
「にゃ。この陣、誰かの“願い”でできてる。 記憶を留めたい、声を失いたくない...そんな感情が、魔力に染みついてる」
少年は、陣の縁に手を伸ばす。指先が触れた瞬間、胸の奥に何かが響いた。 それは、痛みではなく、懐かしさだった。
「これ...僕が描いたのかもしれない。母の声を忘れないようにって。そう思って、長い間、魔法の研究を続けた。そして、ついに完成したんだ。」
彼女は、静かに彼の方へ目を向けた。 そこに立っていたのは、もう少年ではなかった。 いつの間にか、彼の姿は成長した青年へと変わっていた。
背は伸び、肩は広がり、瞳には深い静けさが宿っている。
彼の魔力が、空間に染み渡っていく。魔法陣の中心から、灯火がひとつ、またひとつと生まれ始める。それは、記憶を探す者のための灯り。失われた声を求める者が、導かれる場所。
夜市が、誕生していた。
けれど、それは意図されたものではなかった。彼の願い——母の声を思い出したいという、ただそれだけの思いが、あまりにも強く、あまりにも純粋だったために、魔法は空間そのものを形づくってしまった。
探し物が見つかる場所。記憶の残響が灯火となって揺れる場所。それが、夜市。
彼の魔法は、完成と同時に彼自身をも飲み込んだ。空間を編む代償として、彼の存在は魔法の中に溶けていった。
彼女は、灯火の揺らぎの中に、彼の魔力の痕跡を感じ取っていた。生命の流れは、もうそこにはなかった。彼が今ここにいるのは、魔法が残した“記憶のかたち”だった。
黒猫が、肩の上で小さく鳴く。
「この夜市、あんたの願いが生んだもの。でも、あんた自身は、もう...」
彼女は、青年の姿を見つめる。彼は、灯火の中で微笑んでいた。その笑みは、どこか安らかで、どこか遠い。
「君が来てくれてよかった」
彼の声は、静かに響いた。
「僕の魔法が、誰かに届いた。それだけで、もう十分なんだ。」
灯火が、ひとつだけ強く揺れた。そして、彼の姿は、光の粒となって空間に溶けていく。
彼女は、最後までその光を見送った。
夜市は、彼の願いから生まれた。そして、彼の消失とともに、灯火は静かにその役目を終えようとしていた。
彼女は、魔法陣の中心に残された痕跡に手をかざした。そこにあったのは、彼女が探していた“新しい魔法”だった。けれど、それは術式でも呪文でもない。誰かの強く、純粋な願いがなければ、形にならない魔法だった。
彼女は、静かにその魔力に触れる。それは、彼の残したもの。母の声を思い出したい——ただそれだけの、まっすぐな思い。誰かに見せるためでも、誰かに届くためでもない。 自分自身のために、彼が編んだ魔法。
彼女には、まだそのような願いはなかった。何かを強く求める気持ちも、誰かを呼び戻したい思いも。けれど、その魔法に触れた瞬間、胸の奥で何かが静かに動いた気がした。
言葉にはならない。けれど、確かに何かが変わり始めていた。
黒猫が、肩の上で小さく身じろぎする。空間の空気が、わずかに揺れた。
そして、朝が来た。
夜市の空が、ゆっくりと明るくなっていく。灯火は、ひとつ、またひとつと消えていった。魔法の構造がほどけていくように、空間が静かに崩れていく。
彼女は、何も言わずにその場に立ち尽くしていた。黒猫も、言葉を発さず、ただ彼女の肩に寄り添っていた。
夜市は、消えた。それが終わりだったのか、始まりだったのかはわからない。 再び現れるのかどうかも、誰にもわからない。
ただ、朝日とともに、魔力は四散した。痕跡も、灯火も、声の残響も。すべてが、静かに空へと溶けていった。
彼女は、胸の奥に残った微かな震えを感じながら、新しい一日を迎える空を見上げた。
そして、何も言わずに歩き出した。




