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夜市の灯火 03

灯火の果ては、沈黙に満ちていた。 魔女と少年は、誰も踏み入れたことのないその空間へと、ゆっくりと足を踏み入れる。 黒猫は肩の上で身じろぎしながら、周囲の魔力の流れを感じ取っていた。


「...にゃ。ここ、誰かの感情が染みついてる。魔力が、泣いてるみたい。静かに、長い時間をかけて」


少年は、足元の石畳を見つめていた。 その表面には、焦げたような痕が残っている。 彼は、何かを思い出しそうになって、立ち止まった。


「この場所、前にも来たことがある気がする。でも、怖くて...それ以上、進めなかった」


魔女は、何も言わずに歩き続ける。彼女の魔力が、空間の沈黙に触れるたび、灯火の残滓が微かに揺れた。


やがて、崩れかけた棚が現れる。その奥に、革の表紙がひび割れた古い本が、ぽつんと置かれていた。


少年は、震える指先でそっと本に触れた。その瞬間、空気がわずかに震え、灯火のない空間に、微かな光がともる。


彼は、ゆっくりと本を開いた。


最初の頁には、震えるような筆跡で、こう記されていた。


『母の声を忘れないために、僕は書き始める。 舞台の光、あの笑顔、そして……最後の瞬間のこと』


少年の目が見開かれる。 指先が、頁の端を掴んだまま、動かない。

「...これ、僕が書いた...?」


彼女は、静かに少年を見つめていた。 黒猫が、そっと言う。

「にゃ-。この記録、あんたのものみたいね。でも、なんでこんな場所にあるんだろ。 まるで、誰かが“ここ”を作ったみたいに...」


少年は、答えずに本を見つめた。 その目は、何かを思い出しそうで、けれどまだ届かない場所にいた。


彼は、次の頁をめくる。 そこには、母の舞台の描写が綴られていた。


『舞台の幕が上がる。母は、光の中に立っていた。僕は、客席の隅で、息を殺して見ていた。彼女の声は、世界のすべてだった』


少年の目が潤む。 その声が、耳の奥で微かに響いた気がした。


「...そうだ。僕は、母の舞台を見ていた。あの日...照明が、母の上に落ちて...」


彼は、言葉を詰まらせる。彼女は、そっと本の頁に指を添えた。魔力が、彼の記憶に触れるように、静かに震えた。


「火が広がって。光が消えた。母の声が、聞こえなくなって。僕は、恐ろしくて逃げたんだ。 」


少年は、膝をついた。 その肩が、わずかに震えていた。


「...忘れたくなかったのに。時が経つにつれて忘れてしまった。だから、僕は...母の声を、もう一度聞きたくて。」


黒猫は、静かに少年に身を寄せる。

「にゃん。声って、記憶と繋がってるのね。この本、あんたの“探し物”に近いかもしれない」


少年は、最後の頁をめくる。 そこには、魔法の断片が記されていた。

『声を探す者のために。忘れた者のために。灯火はともる。』


彼は、彼女の方を見て、かすかに微笑んだ。

「...ありがとう。君が一緒に来てくれたから、僕...思い出せた。 母の声も、少しだけ、戻ってきた気がする」


彼女は、何も言わない。 けれど、その目は、灯火の奥で静かに揺れていた。


夜市の果てで、記憶がひとつ、目を覚ました。 そして、沈黙の底に眠っていた“声”が、再び響き始めようとしていた。



彼女は、古い本の最後の頁に指を添えたまま、じっと動かずにいた。 少年は、膝をついたまま、ゆっくりと呼吸を整えている。 空間は沈黙に包まれていたが、魔力の流れは確かに揺れていた。


彼女は、そっと立ち上がる。 灯火のない空間の奥に、ひとつだけ淡く揺れる光が見えた。 それは、誰かの“探し物”が形を持ち始めた証だった。


黒猫が、低く囁く。

「にゃ?この場所、まだ何か残ってる。 声の痕跡か、記憶の残響か。...灯火が、呼んでる」


少年は、彼女の視線を追うように顔を上げる。

「...あれ、見たことある気がする。 でも、近づいたことはない。 怖かったから。でも、今は、行ってみたい。」


彼女は、何も言わずに歩き出す。 少年も、ゆっくりとその後に続いた。


灯火の残響は、空間の奥で静かに揺れていた。 近づくにつれて、空気がわずかに温かくなる。 まるで、誰かが“待っていた”ような気配。


彼女は、手を伸ばし、灯火に触れた。 その瞬間——


光が、静かに広がった。


それは灯火の揺らぎではなかった。もっと柔らかく、もっと深く、空間そのものを染めていく光だった。 彼女の指先から伝わった魔力が、灯火の残響と共鳴し、沈黙の底に眠っていた記憶をそっと浮かび上がらせる。


空間が、変わった。


石畳の床が、いつの間にか赤い絨毯に変わっていた。天井のない夜市の空に、黒い天幕が張られ、無数の観客の気配が満ちていく。舞台の中央には、ひとりの女性が立っていた。


白いドレス。背筋を伸ばし、微笑みをたたえた横顔。その姿は、光に包まれていた。

彼女が一歩、前に出る。その足音が、空間に響いた。そして——声が、出た。


それは、言葉ではなかった。 けれど、確かに“誰かの優しさ”が宿っていた。 音楽のように、風のように、空気を震わせるその響きは、舞台の上からまっすぐに届いた。


少年が、目を見開く。

「...母の声。...これ、母の声だ。」


彼の声は、震えていた。けれど、その震えは恐れではなく、確信だった。


彼女は黙ってその光景を見つめていた。彼女の沈黙の魔法が、灯火の記憶を壊さぬよう、そっと包み込んでいた。

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