夜市の灯火 01
峠を越えると、視界が一気に開けた。
石造りの建物が幾重にも重なり、眼下に巨大な街が広がっていた。
屋根の波が連なり、煙突からは細く煙が立ち上っている。遠くからでも、人の声が風に乗って届いてくる。
黒猫が肩の上で息を呑む。
「にゃーっ、でっか!こんなに大きい街、初めて見たわ。」
彼女は、何も言わずに街を見下ろしていた。けれど、指先がわずかに震えていた。
魔力の流れは、街の中で複雑に絡み合い、脈打っていた。 まるで、巨大な生き物の体内に踏み込むような感覚——静かに、しかし確かに、彼女の指先を震わせた。
街の門は開かれていた。 衛兵が立っていたが、旅人には目もくれず、流れるように人々が出入りしている。
街の門をくぐった瞬間、空気が変わった。音。匂い。熱。すべてが濃密だった。
通りには人が溢れていた。 商人が声を張り上げ、子どもが走り回り、馬車が軋みを上げて通り過ぎる。 香辛料の匂い、焼き菓子の甘さ、革の匂い、汗の匂い—— 魔力の流れさえ、人の気配に押し流されていた。
黒猫が肩の上で目を丸くする。
「すごい。こんなに人がいるの、初めて見たわ。あっ、あれ見て!焼き果実の屋台!」
彼女は、静かに屋台へと歩み寄る。言葉はない。黒猫が店主に話しかけ、果実の串をひとつ買う。
「にゃにゃにゃ。これ、甘いわよ。あんたも食べてみなさい。もう一本ちょうだい!」
彼女は、黙って受け取り、ひとくちかじる。果汁が舌に広がる。ほんの少しだけ、目を細めた。
通りを歩くうちに、黒猫は次々と屋台に目を留める。香草の束、魔力で冷やされた果物、音を鳴らす小さな魔具—— 彼女は黙って見守りながら、時折、黒猫の好奇心に付き合って立ち止まる。
「にゃーん。この街、楽しいじゃない。魔力の流れは複雑だけど、食べ物は最高ね。」
日が暮れ、街の喧騒が少し落ち着いた頃。 彼女と黒猫は、表通りの大きな大衆食事処に入った。 木の扉を開けると、焼いた肉と酒の香りが鼻をくすぐり、熱気が頬を撫でた。
席につくと、黒猫が店主に注文を告げる。
「にゃー。焼き魚と、香草のスープ。あと、肉ね。肉も必要よ。それから、あんたには果実水ね。」
彼女は黙って座り、湯気の立つ料理を見つめる。 ひとくち食べると、ほんの少しだけ目を細めた。
彼女と猫は先ほどまで、街を思い思いに楽しんでいたのでお腹が空いていた。料理が運ばれるそばから、つついている。
そのとき、隣の席から声が聞こえてきた。
「...霧の峠、晴れたらしいぞ。今朝、通ってきた商隊が言ってた」
「マジか?あそこ、ずっと霧で閉ざされてたのに。これで遠回りしなくて済むな。」
「領主も喜んでるらしい。新しい交易路が出来れば、街も潤うってさ」
黒猫が、満足げにうんうんと頷く。
「あの霧の峠のことね。あんたが封印しなおした。こうやって人知れず、喜んでもらえるのは嬉しいわね。」
彼女は、静かにスープを口に運ぶ。 何も言わないが、心の中で何かがほどけていくようだった。
すると、別の席から、また別の話が聞こえてきた。
「知ってるか?夜市の話、」
「街の廃墟に、夜だけ現れるってやつか?あれ、ほんとにあるのか?」
「あるってさ。俺の知り合いの知り合いが、招かれたんだとよ。そこはなんでも、何かを探してる者だけが入れるらしい」
「で、どうなったんだ?」
「魔具を手に入れたって、それで大金を得たらしい。けどな、噂では二度と戻ってこなかった奴もいる。」
黒猫が、耳をぴくりと動かす。
「...にゃ。夜市?変な噂話ね。あんた、気になる?」
彼女は、ほんの少しだけ目を伏せる。 それは、肯定のしるしだった。
「にゃー。でも今夜はもう遅いし、宿に泊まって、明日調べよう。あんた、疲れてるでしょ。」
彼女は頷く。 街の初日は、喧騒と香りと、噂に満ちていた。魔力の流れは、まだ遠くにある。けれど、灯りの向こうに、彼女を待つ“何か”が、確かに息を潜めていた。




