霧の峠
黒猫は、肩の上でしっぽを揺らす。
「にゃ、次はどこ? あたしの鼻が言うには、北の峠の向こうに、ちょっと変な風が流れてる。魔力の流れが止まってる感じ。...なにかしら?」
彼女は、返事をしない。けれど、その視線の先には、霧のかかる峠が見えている。
黒猫が、肩の上でにやりと笑う。
「にゃっにゃっ、また面白い魔法が眠ってるって、野生の勘が言ってるわ。行くのよ、沈黙の魔女!」
峠の入り口に立つ彼女の視線は、霧の奥へと向けられていた。
昼の光が差しているのに、霧は晴れず、空気はどこか重たい。
黒猫は、肩の上でしっぽを揺らしながら鼻をひくつかせる。
「にゃ...あんたがそっちを見るってことは、何か感じたのね。魔法の匂い、間違いないわ。」
彼女は答えない。けれど、杖を握る手にわずかに力が込められていた。
霧の奥から、微かな魔力の波が漂ってくる。 それは、封じられたまま忘れられた魔法の残滓。 彼女は、静かに一歩を踏み出した。
黒猫が、肩の上で息を呑む。
「...にー、今回はどんな魔法が眠ってるのかしら。」
霧の中へ、彼女の姿がゆっくりと消えていく。昼の光は、峠の外にだけ残されていた。
霧の中は、昼間だというのに薄暗かった。光は届いているはずなのに、すべてが白く、輪郭が曖昧になる。足元の草の音さえ、どこか遠くに聞こえるようだった。
彼女は、迷いなく進んでいく。霧の中に漂う魔力の流れを、肌で感じ取っていた。
黒猫は、肩の上で耳をぴくりと動かす。
「...音がしない。風もない。まるで、世界が止まってるみたい」
彼女は立ち止まり、目を閉じた。霧の奥から、かすかな“揺らぎ”が伝わってくる。 それは、魔法の残響。けれど、どこか歪んでいた。
「...魔法式が壊れてる?」
黒猫がぽつりと呟く。
彼女は杖を掲げ、空間に魔力を流し込む。すると、霧の一部が渦を巻くように動き、地面に埋もれていた石の輪郭が浮かび上がった。
それは、古い魔法陣だった。苔に覆われ、ところどころ欠けている。中心には、割れた石碑のようなものが立っていた。
黒猫が目を細める。
「これは、“風の封印式”ね。でも、壊れてる。封じたはずの何かが、内側から逃げ出そうとしてる」
彼女は、魔法陣の縁に手をかざした。冷たい空気が指先を撫で、魔力が逆流するような感覚が走る。
「これは、ただの封印じゃない」
黒猫の声が低くなる。
「誰かが、これを“壊そうとした”痕跡がある。意図的に、ね」
霧の中で、何かが動いた。風のないはずの空間で、草がざわりと揺れる。
彼女は、杖を構えた。霧の奥から、何かがこちらを見ている。
****
——風が吹いていた。
峠の上には、数人の魔法使いたちが立っていた。
彼らは、何かを封じようとしていた。
地面には、魔法陣。
その中心に、黒い霧の塊が渦巻いていた。
「このままでは、魔力が暴走するぞ!」
「急げ、封印式を完成させろ!」
叫び声。杖の音。魔力の衝突。
そして——
黒い霧が、ひとりの魔法使いに襲いかかる。
彼は、最後の力で魔法陣を閉じた。
霧は封じられた。
だが、彼自身もその中に取り込まれてしまった。
****
黒猫が、肩の上で耳を伏せる。
「見られてる。霧の中に、何かがいる。魔力の残滓じゃない。これは、意志のある“何か”よ」
彼女は、杖を構えたまま動かない。
霧が、ゆっくりと渦を巻くように広がっていく。その中心に、ぼんやりと人影のようなものが浮かび上がった。
それは、霧でできた人の形。
輪郭は曖昧で、顔もない。けれど、彼女の魔力に反応するように、霧の人影が近づいてくる。
黒猫が、低く呟いた。
「にゃ!?...にゃんにゃのこいつ!」
霧の人影は、彼女の前で立ち止まった。そして、声もないのに、言葉が響いた。
——風が狂う。
——封印は、まだ終わっていない。
——誰かが、続きを編まねばならない。
彼女は、静かに目を閉じた。霧の人影の記憶が、彼女の中に流れ込んでくる。
記憶の中にある、未完成の魔法式。封印の途中で途切れた術式の断片。
黒猫が、肩の上で息を呑む。
「……あんたに、続きを編めって言っての?この霧の魔法、まだ終わってないってこと?」
霧の人影は、ふっと風に溶けるように消えた。
だが、魔法陣の中心に刻まれた式が、微かに光を帯びていた。
彼女は、杖をゆっくりと地面に突き立てる。魔力が、霧の中に広がっていく。
封印の続きを編むための、静かな魔法が始まろうとしていた。
彼女の魔力が、霧の中に広がっていく。空気がわずかに震え、魔法陣の欠けた輪郭が光の筋でなぞられていく。過去の術式が、彼女の力に応じて応答していた。
黒猫は、肩の上でじっと見守っていた。その瞳には、霧の奥で揺れる魔法の残響が映っている。
「...式が応えてる。あんたの魔力、過去の記憶と共鳴してるのね」
彼女は、割れた石碑の前に立つ。その表面に刻まれた古い文字が、彼女の魔力に触れて淡く輝き始める。
風の封印式——それは、風の流れを止めるだけでなく、風に宿る“感情”をも封じる術だった。怒り、悲しみ、焦り。この峠に吹いていた風は、かつて誰かの感情を吸い込み、暴走した。
彼女は、杖を掲げる。その先から、静かな魔力が編まれていく。断片だった術式が、彼女の手によって繋がれ、補われていく。
黒猫が、ぽつりと呟く。
「にゃー...風の感情まで魔力で受け止めるなんて、沈黙の魔女ってほんと天才よね」
霧が、彼女の周囲で渦を巻く。風が、再び流れ始める。それは、怒りでも悲しみでもない。ただ、峠を越えていく風だった。
魔法陣が、完全な形を取り戻す。石碑の光が収まり、霧が晴れていく。
彼女は、杖を下ろした。黒猫が、肩の上でしっぽを揺らす。
「風が戻った。魔法も、記憶も、ちゃんと眠れる場所に帰ったのね」
彼女は一歩、峠の先へと踏み出す。 霧はすっかり晴れ、遠くの山並みが姿を現していた。
その先に、次の魔法が待っている。まだ誰も知らない、封じられた記憶の残る場所。 彼女は、静かに歩き出した。
黒猫が、肩の上で小さく笑う。
「にゃっ、次はどんな魔法に出会うのかしら。あんたといると、ほんと退屈しないわね」
風が吹く。 峠の魔法は、静かに幕を閉じた。




