静寂のキャンバス
街に入ると、そこはどこにでもあるような穏やかな町並みだった。 石畳の道、商人の声、子どもたちの笑い声。 市場には果物や布が並び、鍛冶場からは鉄を打つ音が響いていた。
ただ一つ、他の街と違うものがあった。 家々の壁や広場の片隅に、数え切れないほどの絵が飾られている。 肖像画、家族の絵、仕事をする姿。どれも人々の日常を切り取ったものだった。
黒猫が尻尾を揺らしながら言う。
「にゃー……普通の街に見えるけど、絵がやけに多いわね」
近くにいた男が振り返り、当然のように答えた。
「旅人かい?死んだら絵の中に入るんだ。ここではそれが常識さ」
少年が目を丸くする。
「えっ……じゃあ、この絵の中にいる人たちは、みんな亡くなった人なんですか?」
男は頷いた。
「そうだ。絵は墓石みたいなものだよ。 でも、ただの記録じゃない。絵の中では、彼らは生き続けているんだ」
黒猫が小さくため息をつく。
「にゃー……絵の中で暮らしてるってこと?妙な話だわ」
彼女は黙って絵を見つめていた。
そこには笑顔の人々が描かれている。穏やかに暮らす姿。 住人たちはそれを「永遠の幸せ」と信じていた。
やがて、別の住人が口にした。
「この街を支えているのは絵描きの魔法使いだ。 人々を描き、死の間際に絵へと送り届ける役目を担っている」
黒猫が耳をぴくりと動かす。
「にゃー……その魔法使いに会ってみる?」
少年は興奮気味に頷いた。
「ぜひ!だって、こんな不思議な仕組みを作った人なんですよね」
彼女は静かに頷いた。
そして三人は、街の奥にある古いアトリエへと向かった。
――そこに、絵描きの魔法使いがいた。 彼は彼女を見た瞬間、目を見開いた。
「……魔法使いか、この街に来る者は、たいてい自分を描いてほしいと願う。 だが、あなたは違うようだな」
黒猫が肩をすくめる。
「にゃー、依頼人じゃないのよ。ただ話を聞きたくて」
魔法使いはしばらく彼女を見つめていた。
その沈黙、その眼差しに、何かを感じ取ったようだった。
「……試しに、絵に触れてみなさい」
促されるまま、彼女は壁に掛けられた一枚の絵に手を伸ばした。 指先がキャンバスに触れた瞬間、空気が震え、視界が揺らいだ。
絵の中の人々が動き出す。市場で果物を選ぶ者、子どもを抱く母、鍛冶場で鉄を打つ職人。 その仕草は生きているように鮮やかだったが、表情には温度がなかった。 笑顔は笑顔の形をしているだけで、そこに感情は宿っていない。
黒猫が低く呟く。
「にゃー……本当に絵の中で生きてるみたい。でも、ただ生きてるだけって感じね。」
少年は息を呑む。
「絵の中で生きているんですか?僕にはただの幸せそうな絵にしか見えない。」
彼女が手を離すと、絵は再び静止した。
外から見れば、ただ穏やかな肖像画のままだった。
魔法使いは静かに頷いた。
「そうだ。魔法使いだけが、この真実を覗ける。 私は長年、人々を描き続けてきた。 その中で知ったのだ――絵の中には感情がないと。」
そして、長い沈黙の後、魔法使いは言った。
「私は疲れた。人々を送り続けることに。 だから……私も、絵の中に入りたいのです」
その言葉に、空気が張り詰めた。
黒猫は目を細め、少年は息を止める。 そして彼女は、ただ静かに魔法使いを見つめていた。
アトリエの空気は重かった。 主人公が絵に触れ、感情のない永遠を覗いた瞬間から、沈黙が続いていた。
魔法使いはゆっくりと口を開いた。 「私は長い間、人々を描き続けてきた。 死の間際に頼まれ、彼らを絵へと送り届ける。 街の人々はそれを“永遠の幸せ”と信じている。だが……」
彼は視線を落とし、筆を握る手を震わせた。
「私は知っている。絵の中には感情がないことを。 笑顔は笑顔の形をしているだけで、心は描くことは出来ない。空っぽだ。 それでも人々は満足している。彼らは“穏やかに暮らしている”と信じているからな」
黒猫が尻尾を揺らし、低く呟いた。
「にゃー……真実を知っているのは、あんただけ」
魔法使いは頷いた。
「そうだ。だから私は孤独だった。 誰にも言えず、ただ描き続けるしかなかった。 だが、もう疲れた。私はこの仕組みを始めた者だ。 ならば最後は、自分自身を絵に送りたい」
少年は困惑したように声を上げる。
「でも……絵の中では幸せに見えるんですよね? だったら、いいことじゃないですか」
魔法使いは静かに首を振った。
「見えるだけだ。だが、それで十分なのかもしれない。 人は“幸せそうに見える”ことを望むのだろう。 私も、そうなりたい。感情を捨て、永遠の姿で生き続けたい」
彼女は黙って魔法使いを見つめていた。
その言葉の重さが胸に沈み込む。 魔法使いの願いは、死への逃避ではなく、 自分が始めた仕組みを自分で完結させたいという決意だった。
黒猫が尻尾を揺らし、彼女の足元に座り込む。
「にゃー……どうするの?あんたが描けば、この人は永遠に“絵”になる」
少年は慌てて声を上げた。
「でも、絵の中では幸せそうに見えるんですよ! 街のみんなもそう信じてる。だったら、この人の願いを叶えてあげてもいいんじゃないですか?」
黒猫は鋭い目を向ける。 「見えるだけよ。心は空っぽ。 絵の中を覗いたけど、笑っているように見えても、そこに感情はなかった」
少年は困惑したように絵を見つめる。
「……僕にはただ、穏やかに暮らしているようにしか見えません」
彼女は黙って絵を見つめていた。 キャンバスの中の人々は穏やかに暮らしているように見える。 だが、触れたときに感じた“空虚”が胸に重く沈んでいた。
男は静かに口を開いた。
「私はこの仕組みを作った者だ。 人々を送り続け、街を支えてきた。 ならば最後は、自分自身を送りたい。 それが私の責任であり、願いでもある」
黒猫が彼女を見上げる。
「にゃー……決めるのはあんたよ。描くか、描かないか」
彼女は筆を握りしめた。 その重みは、ただの道具ではなく、目の前の人の運命そのものだった。
彼女は目を瞑りしばらく筆を握ったまま動かなかった。
やがてゆっくりと目を開け、彼女は筆をキャンバスに走らせた。 一筆、また一筆。 男の姿が浮かび上がっていく。 長い年月を背負った顔、疲れた瞳、そして穏やかな微笑み。
黒猫は黙って見守り、少年は息を呑んだ。
やがて絵が完成すると、男は静かに立ち上がった。
「……ありがとう」
その声は安らぎに満ちていた。 彼は絵へと歩み寄り、キャンバスに触れる。 次の瞬間、姿は絵の中へと溶けていった。
そこには、穏やかに微笑む彼の姿があった。 動いているように見えるが、感情はない。 ただ、永遠に続く静かな微笑みだけが残された。
彼女は筆を置いた。
黒猫が小さく呟く。
「にゃ…これで、この人の絵は完成したってわけね」
少年は絵を見つめ、複雑な表情を浮かべていた。
「……幸せそうに見える。でも、本当に良かったのかな」
彼女は答えなかった。 ただ静かに、絵の中の男を見つめていた。
アトリエの中は、しんと静まり返っていた。 完成した絵だけが、淡い光を帯びて壁際に置かれている。
黒猫は尻尾を揺らし、彼女の足元に寄り添った。
「にゃー……これで終わりね」
少年はまだ絵から目を離せずにいた。 その微笑みは穏やかに見える。
だが、彼女と黒猫には、その奥にある空虚さが分かっていた。
彼女はゆっくりと立ち上がり、アトリエの扉へと歩み出す。
振り返れば、そこには静かに微笑む男の姿が永遠に残されている。
だが、その微笑みが本当の幸せを語ることはない。
扉を開けると、冷たい風が差し込んだ。
彼女は一歩外へ踏み出し、黒猫と少年も後に続いた。
三人の影は石畳に伸び、やがて街の外へと向かっていった。
アトリエの中には、ただ一枚の絵が残されていた。 それは静かに、誰も知らぬ未来を待っていた。
門を抜けると、広がるのは果てしない道。 風が頬を撫で、遠くで鳥の声が響いた。 彼女は静かに息を吸い込み、歩みを進めた。




