リュミエールの朝
亡霊との戦いから一夜が明けた。 〈アスレイ号〉は穏やかな海を進み、次の寄港地〈リュミエール〉へと向かっていた。 船内は落ち着きを取り戻し、乗客たちは甲板で風を浴びたり、船室で読書にふけったりしていた。
彼女は船尾の静かな場所に立っていた。 杖を手に、海を見つめている。黒猫は足元で丸くなっていた。
そこへ、ひとりの乗客が近づいてきた。 灰色のローブをまとった中年の男。亡霊との戦いで光の矢を放っていた魔法使いだった。
「亡霊との戦い、見ていました。あなたの魔法……あれは本当に素晴らしかった。 今も常に数センチだけ宙に浮くほど魔力の安定、滑らかで精密な術は、私の故郷でも滅多に見られません。」
彼女は何も言わず、軽く頷いた。
黒猫が小声で囁く。
「当たり前よ。この子は天才なんだから。無口が玉に瑕だけど。」
魔法使いは微笑みながら続けた。
「私は〈ミルディア〉という街に戻る途中です。魔法使いたちが集う場所で、研究と交流が盛んな土地です。 あなたのような方には、ぜひ一度訪れていただきたい。きっと、得るものがあるはずです。」
彼女は静かに杖を握り直した。
魔法使いの視線が、彼女の懐にある首飾りに向く。
「その妖精の首飾り。もしかして、“エルフィン・グレイド”に向かうおつもりですか?」
黒猫が尻尾を揺らす。
「“エルフィン・グレイド”?そこに妖精がいるの?」
魔法使いは頷いた。
「ええ。“エルフィン・グレイド”は、妖精たちが暮らすとされる森です。 ただし、誰もが入れるわけではありません。森は、外界から隠されていて、道すら見えないこともある。 妖精たちは気まぐれで、訪れる者に“条件”を課すのです。」
黒猫が首をかしげる。
「条件って……どんな?」
魔法使いは肩をすくめた。
「それが分かれば、私もとっくに訪れていたでしょう。 ある者は“贈り物”を捧げたと言い、ある者は“心を試された”と言う。 中には、森の入り口で“記憶”を失った者もいるとか……」
少年が息を呑む。
「そんな場所に、行くんですか?」
黒猫が彼女を見上げる。
「にゃー……あんた、行く気なの?」
彼女は何も言わず、懐の首飾りにそっと触れた。 その指先に、微かな魔力の震えがあった。
魔法使いは静かに言った。
「その首飾りが、道を開く鍵になるかもしれません。 妖精のものを持つ者には、森が応えることがあると聞いています」
風が帆を揺らし、船は港へと近づいていく。 彼女の瞳は、遠くの水平線を見つめていた。 その先に、“エルフィン・グレイド”があると信じて。
それから数日後―
〈アスレイ号〉は、朝霧の中を進み、ゆっくりと港へと滑り込んだ。 寄港地〈リュミエール〉――石造りの街並みに、白い帆が映える。 潮の香りに混じって、果物と香辛料の匂いが風に乗って漂ってくる。
船員たちは甲板で忙しく動き、乗客たちは荷をまとめていた。 少年は剣を背負い、黒猫は肩に乗り、彼女は杖を握って静かに立っていた。
魔法使いの男――エルド・ファレンが近づいてきた。
「ここが〈リュミエール〉です。魔法使いの街〈ミルディア〉へは、ここから陸路で向かえます。 もし立ち寄るなら、魔法の図書館で“エルド・ファレン”の名を出してください。歓迎しますよ。」
彼女は軽く頷いた。
エルドは満足げに微笑むと、ローブの裾を揺らして静かにその場を離れた。 朝霧の中に溶けるように、彼の姿は港の雑踏へと消えていった。
少年が拳を握る。
「よし、情報集めですね! 妖精の森に入る“条件”、絶対見つけましょう!」
黒猫が肩で丸くなりながら、尻尾を揺らす。
「にゃー……古書店、魔具屋、あと噂話。この街で、見つかるかしら。」
彼女は静かに歩き出した。 石畳の道が、港から街の中心へと続いている。 朝霧は少しずつ晴れ、白い塔の尖端が空に浮かび上がる。
街はまだ目覚めたばかりだった。 露店の準備をする商人、魔具を磨く職人、そして路地裏で囁かれる古い噂。
彼女の杖が、コツリと石を打つたびに、魔力が微かに揺れる。 その震えは、何かを呼んでいるようだった。
黒猫がぽつりと呟く。
「にゃー……この街、何かが隠れてる気がする。」
彼女は答えず、ただ前を見つめていた。




