揺れる航路
港町セレヴィアの早朝は、いつも潮の匂いがする。 けれど、この日の空気は少しだけ違っていた。 風が東へと流れ、帆船の帆が静かに揺れていた。
港では、〈アスレイ号〉が出航の準備を整えていた。 船員たちがロープを巻き、魔力炉の調整を終え、乗客たちが次々と乗り込んでいく。
商人が彼女たちを見つけて手を振った。
「お待ちしていました。船室は用意してあります。 出航は、あと一刻ほどです。」
黒猫が船の甲板を見上げて言った。
「にゃあ、初めての船よ!楽しみね。」
少年は笑いながら言った。
「はい!楽しみです!」
彼女は空を見上げた。 雲が流れ、風が帆を膨らませる。
そして、三人は船に乗り込んだ。
〈アスレイ号〉が港を離れたのは、太陽の光が海を染める頃だった。 帆が風を受け、魔力炉が低く唸り、船はゆっくりと外洋へと滑り出す。
少年は甲板の先端に立ち、潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「うわあ……! 海って、こんなに広いんですね!」
その声に、黒猫がぐらりと揺れながら応える。
「にゃ……うえっ……ちょっと待って……あたし、使い魔なのに……船酔いしてる……」
「えっ!? 黒猫さん、船に酔うんですか?」
「うえっ、気持ち悪……」
黒猫は少年の肩からずるりと滑り落ち、甲板の隅で丸くなった。 耳がぴくぴくと震え、尻尾がぐったりしている。
一方、彼女は船室の壁にもたれ、目を閉じていた。 無口な彼女が、いつも以上に静かだ。
少年が心配そうに声をかける。
「……大丈夫ですか?」
彼女は小さく頷き、杖を手に取った。 魔力で酔いを抑えようとしたのだろう。杖の先が淡く光る。
その瞬間、ふわりと小さな光の粒が空中に浮かび上がった。 それは泡のように揺れながら、ゆっくりと消えていく。
「……あれ?」
少年が見上げると、彼の肩に小さな光の蝶が止まっていた。 すぐに羽ばたいて、空へと消えていく。
黒猫が片目を開けて言った。
「にゃー……あんたも、ちょっと酔ってるわね。魔力が定まってない感じ」
彼女はそっと杖を下ろし、何も言わずに船室へ戻っていった。
その日の午後、少年は元気いっぱいに船員たちとロープの結び方を学び、 黒猫は日陰でぐったりとしながらも、時折「にゃー……肉が恋しい……」と呟き、 彼女は静かに横になりながら、魔力の揺れを整えるように深く呼吸を繰り返していた。
船旅は始まったばかり。 海は広く、風は気まぐれで、魔法もまだ波に慣れていなかった。
三日目には、黒猫はすっかり回復していた。 少年と一緒に甲板を駆け回り、船員たちとじゃれ合う。
「にゃー! あんた、剣の振り方、ちょっと様になってきたじゃない。」
「ほんとですか!? やった!」
彼女は船室の隅で静かに座っていた。 魔力はまだ揺れている。魔法は使えるが、狙いが定まらない。
四日目の午後、海面が泡立った。 複数の小型海魔が跳ね上がり、船に向かって群れで襲いかかってくる。
「海魔だ! 群れだぞ!」
船員たちが武器を手に取り、甲板が一気に騒がしくなる。
少年は剣を握りしめて前に出る。
「僕も戦います!」
黒猫が跳ねて言う。
「にゃ! あたしも援護するわよ!」
海魔たちはぬるりとした体で甲板に飛び乗り、鋭い牙をむいて襲いかかる。 少年は一体に向かって剣を振るい、黒猫は爪を立てて飛びかかる。
船室の扉の前では、彼女が杖を握って立っていた。 魔力はまだ不安定。だが、杖の先からふわりと泡が飛び出し、海魔の足元に広がる。
その泡に足を取られた海魔が滑って転倒。 少年の剣がその隙を逃さず振り下ろされ、黒猫が追撃する。
海魔たちは次々と海へ逃げていった。
船員たちが歓声を上げる中、黒猫が尻尾を立てて言った。
「にゃー……狙ってたかは怪しいけど、結果オーライね。」
彼女は何も言わず、杖を下ろした。
海魔の群れを退けたその夜、〈アスレイ号〉の甲板には灯りがともり、船員たちの笑い声が響いていた。 樽が開かれ、魚の香ばしい匂いが漂い、乗客も交えてささやかな祝宴が始まっていた。
少年は船員たちに囲まれ、剣の構えを褒められて照れ笑いを浮かべていた。 黒猫は魚の切り身をくわえたまま、甲板の隅で尻尾を揺らしている。
彼女は少し離れた場所で、静かに椅子に座っていた。 杯には手をつけず、海を見つめている。杖は膝の上に置かれていた。
やがて、船長が彼女たちのもとにやってきた。 白髪混じりの髭を撫でながら、酒の入った木杯を掲げる。
「見事だったな。あの泡の魔法、効いていたぞ。」
彼女は視線を向けるだけで、何も言わなかった。 船長は笑いながら腰を下ろす。
「偶然でも、命が助かれば十分だ。……そういえばな、思い出したことがある。」
彼は懐から一枚の古びた地図を取り出した。 紙は黄ばんでおり、何の変哲もない航海図に見える。
「昔、海賊船を拿捕したときに見つけたものだ。 ただの地図にしか見えんが、あいつら、これを宝物のように大事に仕舞っていた。……どうにも腑に落ちなくてな。」
黒猫がぴくりと耳を動かした。
「にゃん?ちょっと貸して。」
船長が差し出した地図に、黒猫が鼻を近づける。
「にゃにゃ、ただの紙じゃないわね。魔力の匂いがする。」
彼女が地図を手に取る。 何も言わず、指先でそっと触れる。
淡い光が地図に流れ込む。 次の瞬間、地図の表面に青白い光が走り、隠されていた航路が浮かび上がった。 それは、今の航路から少し外れた場所――小さな島の影を指していた。
船長が目を見開く。
「……これは……!」
少年が身を乗り出す。
「行ってみましょうよ! もしかして、宝の地図かも!」
船長はしばし黙ってから、立ち上がった。
「まずは商人に話を通そう。この島は航路から少し外れるが、日数は大して変わらん。」
商人は最初こそ渋ったが、「もし危険だと分かったらすぐに退却すること」と条件付きで了承した。 乗客たちも、興味津々で頷いた。
「寄り道も旅の醍醐味だろう」
「宝探しなんて、面白そうじゃないか」
こうして、〈アスレイ号〉は新たな目的地へと舵を切ることになった。 祝宴の余韻が残る夜の海に、静かに帆が広がっていく。




