潮風の序章 01
港町セレヴィアは、白い石畳の坂道が海へと続いていた。 潮風が吹き抜け、遠くからカモメの声が聞こえる。 彼女は坂の途中で立ち止まり、初めて見る海をじっと見つめていた。
肩の上で丸くなっていた黒猫が、尻尾を揺らしながら言った。
「にゃ!海よ、初めてだわ。潮風が気持ちいいわね。」
彼女は答えない。ただ、潮の匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。 その瞳は、どこか遠くを見ていた。
少年は目を輝かせて港を見渡す。
「船がいっぱい……! いつか、ああいうのに乗って旅するのもいいですね。」
黒猫がくすりと笑った。
「にゃ。あんた、酔わないといいけどね。」
三人は港町の空気を味わいながら、石畳を下っていった。
町の中に入って3人は、港町の雰囲気を味わうため、広場に向かった。
しかし、広場では、港町らしい活気あふれた賑わいではなく、険しい怒号が飛び交っていた。
「まただ!動力核が盗まれた!」
動力核――船の魔力を推進力に変える心臓部。 それがなければ、船はただの浮かぶ箱に過ぎない。
町では、ここ最近この動力核を狙った盗難が相次いでいた。 その日、停泊していた大商船〈アスレイ号〉も被害に遭った。
船主の商人が広場で声を張り上げる。
「犯人を見つけてくれた者には、高額な報酬を約束する! 船が動かせなければ、交易も漁も滞る! 頼む!」
その言葉に、黒猫がぴくりと反応した。
「……漁も滞る?」
肩の上で耳を立て、目を細める。
「にゃー!それは困るわ!魚が食べられなくなるなんて絶対イヤ!」
彼女の肩をぴょんと飛び降り、前足を踏み鳴らす。
「探すのよ、沈黙の魔女!魚のために!」
彼女は何も言わない。 けれど、杖を軽く握り直し、港の方へと歩き出した。
魔力の痕跡を探すのは、彼女にとって造作もないことだった。 動力核が大量に盗まれているということは、魔力が異常に集まっている場所があるということ。 彼女は港の倉庫街を歩きながら、空気の揺らぎを読む。
「……にゃ。見つけた?」
彼女は頷いた。 けれど、魔力の源は――すでに海の上だった。
盗賊団は船に乗り、港を離れようとしていた。
彼女は静かに杖を掲げた。 風が止まり、海面がざわめく。
「……渦?」
黒猫が目を見開く。
海の上に、魔力の渦が発生した。 それは船の周囲を巻き込み、強引に港へと引き戻す力を生み出す。
船は逆らえず、ゆっくりと港へと戻ってきた。
「にゃー……あんた、やるわね。」
そして、マストの上に跳び乗ると、町に向かって大声で叫んだ。
「聞いて! あの船に盗まれた動力核があるわよ! 警備隊、用心棒、誰でもいいから早く来て!」
その声は、静まり返っていた港町に響き渡った。 広場にいた商人たちが顔を上げ、警備隊が一斉に動き出す。
「動力核だって!? 本当か!」
「急げ! 船が戻ってきたぞ!」
数人の用心棒が剣を抜き、港へと駆けていく。 町の警備隊も槍を手に、船へと乗り込んだ。
盗賊団はなすすべなく取り押さえられ、動力核は無事に回収された。
商人が彼女たちのもとを訪れた。 深々と頭を下げる。
「本当に助かりました。動力核がなければ、船も漁も止まっていた。 お礼にここでの滞在費はすべてこちらが持ちます。他に欲しいものがあれば、遠慮なく言ってください。」
黒猫が尻尾を立てて言った。
「にゃー。じゃあ……船旅もいいわね。次の港まで、乗せてくれない?」
商人は笑った。
「もちろんですとも。出港の準備に少々時間がかかりますが、五日後には出航できます。 それまで、港町でゆっくりしていてください。」
少年は目を輝かせる。
「船旅……楽しみです!」
彼女は何も言わない。 けれど、港に停泊する船を見つめる瞳は、どこか遠くを見ていた。
商人の厚意で、一行は港町セレヴィアの高台にある宿に泊まることができた。 白い壁に青い屋根、潮風が吹き抜けるテラス付きの部屋。 黒猫は窓辺で丸くなり、少年は部屋の隅で剣の手入れをしていた。
翌朝、三人は観光に出かけた。 市場は活気に満ち、帆布の屋台が並び、魚や果物の香りが漂っていた。
広場の噴水のそばで、子どもたちが集まっていた。 彼女たちを見つけると、目を輝かせて駆け寄ってくる。
「昨日の魔法使いだ!」
「船を戻した人だよね!」
「ねえ、魔法見せて!お願い!」
彼女は立ち止まり、子どもたちを見つめる。 黒猫が肩の上で耳を動かす。
「にゃー……どうする?」
彼女は静かに杖を掲げた。
空気が揺れ、杖の先から淡い光が広がる。 しょぼん玉のような魔法の泡が、ふわりと宙に浮かび始めた。
その泡の中から、小さな生き物たちが現れる。
光る蝶、羽根の生えた魚、角のある小鳥―― どれも現実には存在しない、幻想の生き物たち。
泡は割れることなく、空を漂いながら、子どもたちの周囲を舞う。
「わあ……!」
「きれい……!」
「これ、ほんとに魔法なの?」
彼女は何も言わない。 ただ、泡のひとつを見つめていた。
それは、彼女が幼い頃、師匠に見せてもらった魔法だった。
師匠が静かに手をかざし、泡の中に光る鳥を浮かべた。
「魔法は、力じゃない。 誰かの心を動かすものだよ。」
その言葉が、彼女の記憶の奥に残っていた。
子どもたちは歓声を上げながら、泡を追いかけ、笑い声を響かせる。 そして、ひとりの少女が、花で編んだ冠を差し出した。
「これ、ありがとうの気持ち。受け取って!」
彼女は少し驚いたように目を見開き、そして静かに受け取った。 花冠は、港町の野花で編まれていた。 白い花、青い花、そして小さな黄色い蕾。
その晩、宿の部屋で彼女はそっと花冠を取り出した。 窓辺に座り、月明かりの下で杖を軽く振る。
魔力が冠に染み込み、花は淡く光る。 枯れることのない魔法――静かな祝福。
彼女は何も言わず、それを鞄の奥にしまった。
ベッドの上で丸くなっていた黒猫が、片目を開けてその様子を見ていた。 けれど、何も言わず、そっと目を閉じる。
その夜、港町は静かに眠っていた。




