三つの影
街道を進む三つの影は、昼の光の中に溶けていった。 彼女は黙って歩き、黒猫は肩の上で時折耳を動かし、少年は少し離れてその背を追っていた。
道端に咲く野花に目を向ける余裕もなく、少年はただ黙々と歩いていた。 彼女の歩調は一定で、休む気配もない。 それでも、少年は一言も弱音を吐かなかった。
黒猫がちらりと後ろを振り返る。
「にゃん。あの子、意外と根性あるわね。 ずっとついてくる気よ。」
彼女は何も言わず、前を向いたまま杖を突いて歩く。
やがて、小さな川沿いの木陰に差しかかる。 彼女はふと足を止め、川のほとりに腰を下ろした。 黒猫が驚いたように目を丸くする。
「にゃにゃ。珍しいわね。休憩?」
彼女は答えず、ただ水面を見つめていた。
少年は少し遅れて追いつき、息を整えながら立ち止まった。 彼女の隣に座ることはせず、少し離れた岩に腰を下ろす。
しばらく沈黙が続いた。 風が草を揺らし、川のせせらぎが静かに響いていた。
黒猫がぽつりと呟く。
「魔法の才能がないって言ってたけど、あんた、何かを諦める顔はしてないわね。 それだけで、案外生き残れるものよ。」
少年は驚いたように黒猫を見たが、すぐに小さく笑った。
「……諦めたら、誰も守れない気がして。 あの夜、あなたが魔物を吹き飛ばしたのを見て、そう思ったんです。」
彼女は水面から目を離し、少年の方をちらりと見た。 その瞳は、何も言わず、何も拒まず。 ただ、ほんの少しだけ、柔らかく揺れていた。
黒猫が肩の上でしっぽを揺らす。
「にゃー...あんた、沈黙の魔女なんて呼ばれてるけど、 黙ってるだけで、いろんなものを拾っていくのね。」
しばらくして、彼女は立ち上がり、杖を手に再び歩き出す。 少年も立ち上がり、何も言わずにその背を追った。
川の音が遠ざかり、街道は再び静けさに包まれる。
午後の陽射しが傾き始める頃、三人は小さな峠を越えていた。 道は細く、両脇には背の高い草が揺れている。 彼女はふと立ち止まり、視線を斜面の茂みに向けた。
黒猫が肩の上で耳を動かす。
「にゃ。見つけたわね。あれ、〈銀露草〉よ。乾かせば解熱薬になる。」
彼女は黙って杖を地面に立てかけ、しゃがみ込んで薬草を摘み始めた。 手際は慣れていて、根を傷つけず、必要な分だけを選んでいる。
少年は少し離れた場所で立ち止まり、彼女の動きを見つめていた。 黒猫がちらりと彼を見て、しっぽを揺らす。
「あんた、薬草くらいは見分けられる? まあ、魔法は無理でも、こういうのは覚えれば誰でもできるわよ。」
少年は慌てて近づき、彼女の隣にしゃがみ込んだ。 「これ……似てるけど、違いますか?」と指差した草は、毒性のある〈灰針草〉だった。
黒猫が鼻を鳴らす。
「惜しいけど、違う。それは煎じると吐き気が止まらなくなるやつ。 でも、見分けようとしただけマシね。最初はみんなそんなもんよ」
彼女は何も言わず、少年の指差した草を避けて、正しい薬草を摘み続けた。
黒猫が、彼女の肩の上で語り始める。
「旅をするならお金を工面しなきゃよ。あんたみたいに魔法が使えない子には重い話かもしれないけど。 この人は、魔物退治の依頼を受けたり、壊れた魔道具を直したり、 ときどき古文書の解読なんかもやってるのよ。 でも、それだけじゃない。こういう薬草を集めて、村の薬師に売ることもあるの」
少年は目を丸くした。
「……それだけで旅ができるんですか?」
黒猫は肩をすくめるように身じろぎした。
「最低限ならね。あんたみたいな子ができることって、まずはこういうの。 魔法がなくても、役に立つことはあるのよ。 ……まあ、この人が教えるかどうかは別だけど。」
彼女は摘み終えた薬草を布に包み、立ち上がった。 少年も慌てて荷を背負い、彼女の背を追う。
黒猫が肩の上でつぶやく。
「さて、次の村まであと半日。 あんた、歩きながら草の見分けでも覚えなさい。 黙ってても、見てればわかることもあるわよ」
三つの影が、夕暮れに向かって伸びていく。ひとつの足音が、少しだけ近づいた。
森を抜けた先に、小さな村が広がっていた。 木造の家々が並び、煙突からは夕餉の煙が立ち上っている。 畑には人影があり、家畜の鳴き声が遠くで響いていた。
彼女は村の入口で足を止めた。 黒猫が肩の上で身じろぎしながら、低く呟く。
「……静かね。砦とは違って、魔力の匂いも薄い。 まあ、こういう場所のほうが、あんたは落ち着くんでしょうけど。」
少年は少し遅れて追いつき、息を整えながら村の景色を見渡した。 初めての土地。初めての旅の終着点。 彼女の背を追ってきたはずなのに、ここに立っていることが不思議だった。
彼女は何も言わず、村の奥へと歩き出す。 黒猫が肩の上でしっぽを揺らす。
「さて、今夜はどこで寝るのかしらね。 宿屋に泊まるには、路銀がいる。どうするの?」
彼女は答えず、ただ村の広場に向かって歩いていく。 広場の端には、古びた掲示板があり、いくつかの依頼札が貼られていた。
黒猫が目を細める。
「にゃ。魔物の痕跡調査、井戸の結界修復、薬草の納品。 ふふ、あんたならどれでも片づけられるわね。」
少年は掲示板を見上げていた。 文字は読める。意味もわかる。 けれど、自分にできることがあるのかは、まだ分からなかった。
黒猫が、彼女の肩から少年に向かって声を投げる。
「薬草の納品なら、あんたでも手伝えるわよ。 さっきの〈銀露草〉、ちゃんと乾かして渡せば、村の薬師が買ってくれる。 ……まあ、値段交渉はこの人がしないから、私がやるけどね。」
少年は小さく頷いた。
「……やってみます。僕、少しずつでも覚えたいです。」
彼女は一度だけ少年を見た。 その瞳は、何も語らず、何も拒まず。 ただ、ほんの少しだけ、歩調を緩めた。
夕暮れの光が、三人の影を村の広場に落としていた。
村の夜は静かだった。 遠くで犬が一度だけ吠え、あとは風の音と虫の声だけが響いている。 彼女は村外れの小さな納屋の軒先に腰を下ろしていた。 宿には泊まらず、路銀を節約するために、納屋の持ち主に頼んで一晩だけ場所を借りたのだ。
黒猫が彼女の膝の上で丸くなりながら、低く呟く。
「……静かね。この村はいい村ね。魔力も穏やかで、空気も澄んでる。」
彼女は何も言わず、夜空を見上げていた。 星が、雲の切れ間からぽつりぽつりと顔を出している。
納屋の隅では、少年が干し草を整えていた。 彼女の近くに座ることはせず、少し離れた場所で、静かに荷物をほどいている。
黒猫がちらりと彼を見て、しっぽを揺らす。
「……あの子、気を遣ってるわね。 あんたが喋らないから、どう距離を取ればいいか分からないんでしょうね。 でも、黙ってるだけで、ちゃんと見てる。 薬草の包み、崩れないように荷の底に入れてたわよ。」
彼女は星から目を離し、ほんの一瞬だけ少年の方を見た。 その瞳は、何も語らず、何も拒まず。 ただ、静かに、夜の空気を受け止めていた。
少年は気づいていないふりをしながら、干し草の上にそっと座った。 そして、ぽつりと呟いた。
「……孤児院って、いつも誰かが騒いでて、静かな時間なんてなかったんです。 だから、旅ってもっと賑やかなものだと思ってました。 でも……こういう夜も、悪くないです。」
黒猫は目を細めて、ふふっと笑った。
「騒がしい旅は、騒がしい人がするものよ。 この人は、“静かに探す”のが旅だから。 魔法も、人も、言葉も――必要なものだけ拾っていくの。 ……まあ、私は騒がしいのも好きなんだけどね。 最近はずっと一人語りだったから、正直ちょっと飽きてたのよ。 あんたが来てくれて、ちょっと助かってるの。ほんとに」
少年は驚いたように黒猫を見て、少しだけ笑った。
彼女は目を閉じた。 風が頬を撫で、黒猫が膝の上で小さく丸くなる。
少年は、彼女の背に向かって小さく言った。
「……おやすみなさい」
彼女は何も言わなかった。 けれど、黒猫が代わりに、ふわりと声を返した。
「……おやすみ。明日は、少し早く出るわよ」
夜は深まり、静けさが三人を包み込んでいく。




