砦の街〈バルグレア〉 04
剣を地面に突き立てる音が、戦いの終わりを告げた。
煙と血の匂いが漂う広場に、静寂が戻る。 崩れた障壁の向こう、砦の街は傷つきながらも、まだ息づいていた。
ギルド〈灰の角〉では、負傷者の手当てと戦後処理が始まっていた。 回復班がポーションを配り、記録係が戦闘報告をまとめている。 指揮官は兵士たちに声をかけながら、街の復旧計画を練っていた。
「避難民の確認を急げ。東門の補修班は昼までに配置。 魔力障壁の再展開は、夕方までに完了させる。」
広場では、冒険者たちが静かに剣を拭き、仲間の無事を確かめ合っていた。 誰もが疲れていたが、誰もが生きていた。
彼女は、ギルドの外れに立っていた。 杖を背に、肩の上の黒猫とともに、朝の空を見上げていた。
黒猫がぽつりと呟く。
「……静かね。あれだけ騒がしかったのに、今は風の音しか聞こえない。 あの異常個体、てっきり他の魔物を追いたててたと思ってたけど……あの統率具合、 あれがここら一帯の魔物を支配してたってところかしら。」
彼女は何も言わず、目を細めて空を見ていた。 朝の光が、彼女の背を静かに照らしていた。
戦いの翌日、砦都市〈バルグレア〉の領主館にて。 彼女は招かれていた。 異常個体の撃破者として名が挙がったのは、ギルド登録もない、黒猫を連れた無口な魔法使い――彼女だった。
広間には、領主と数名の側近だけがいた。 彼女は何も言わず、ただ静かに立っていた。 黒猫が肩の上で尻尾を揺らしながら、代わりに口を開く。
「……お礼はありがたいけど、お金じゃ満足しないわよ。この子が欲しいのは、魔法よ。」
領主は微笑み、ゆっくりと頷いた。
「それは承知している。あなたが“魔法”を求めて旅をしていることも、聞き及んでいる。 ならば――我が街の魔術書庫にある、閲覧禁止の書を開放しよう。 本来は王都の許可がなければ触れられぬものだが、あなたにはその資格がある」
黒猫が目を細める。
「禁書庫?……ふふ、苦労した甲斐があったわね。」
彼女は何も言わず、ただ頭を下げた。
案内された魔術書庫は砦の地下にあった。 封印された扉が開かれ、古びた書架が並ぶ空間に、濃密な魔力の気配が漂っていた。 失われた術式、未解読の理論、危険とされた魔力構造―― そのすべてを、彼女は黙々と読み進めた。
黒猫が棚の上から見下ろしながら、ぽつりと呟く。
「にゃー、普通なら、読むだけで頭が焼けるわよ。 この街の魔法使いでも、三頁でギブアップしたって話」
だが、彼女は眉ひとつ動かさず、指先で魔力の軌道をなぞっていく。 魔法陣の構造、詠唱の断片、魔力圧縮の理論―― それらを、まるで既知の言語のように、静かに読み解いていった。
一冊を読み終えると、次の棚へ。 「魂の定着と転写」「空間折りの応用」「魔力共鳴体の生成」―― どれも、王都でも閲覧が禁じられている危険な理論ばかりだった。
黒猫が、彼女の肩に戻りながら小さく笑う。
「……あんた、読むっていうより、吸収してるわね。 まるで魔法そのものが、あんたに語りかけてるみたい」
彼女は何も言わず、ただページをめくり続けた。
五日間、彼女は書庫から一歩も出なかった。 食事も睡眠も最低限。 ただ、魔法の理論を追い、記憶に刻み、理解し、繋げていった。
そして五日目の夜。 最後の一冊を閉じた彼女は、静かに立ち上がった。
魔術書庫の空気がわずかに揺れた。 まるで、彼女の理解を祝福するかのように。
彼女は階段を上がり、地上へと戻っていった。 “まだ知らない魔法”を探す旅は、まだ終わっていない。
砦都市〈バルグレア〉の朝。 戦の傷跡はまだ街のあちこちに残っていたが、人々は少しずつ日常を取り戻し始めていた。 広場では瓦礫の片付けが進み、魔力障壁の再展開を待つ兵士たちが静かに作業を続けている。
彼女は、門の前に立っていた。 手には杖、肩には黒猫。 誰にも告げず、誰にも見送られず、ただ静かに門を見上げていた。
黒猫が肩の上で身じろぎしながら、ぽつりと呟く。
「……結局、誰にも挨拶しなかったわね。 まあ、あんたらしいけど。 あの禁書庫、五日で読み切るなんて、ほんと化け物じみてるわ。」
彼女は何も言わず、門兵の視線を受け流すように一歩踏み出す。 門兵は一瞬迷ったが、静かに敬礼を送った。 その背に、彼女は振り返らない。
砦の外は、霧が薄く漂っていた。 街道は湿った土の匂いがして、遠くで鳥の声が聞こえる。
黒猫が目を細める。
「にゃん。次はどこへ行くの? あんた、まだ知らない魔法を探してるんだものね。 地図も持たず、目的地も言わず、ただ歩く。 ほんと、風みたいな人。」
彼女は杖を軽く突いて、歩き出す。 その足取りは、静かで揺るぎない。
砦都市〈バルグレア〉を離れて数時間。 霧の立ち込める街道を、彼女は歩いていた。 肩の上には黒猫。杖は手に持ち、足取りは静かで揺るぎない。
黒猫が耳を動かしながら、低く呟く。
「にゃにゃ、ついてきてるわね。街を出てからずっと、距離を保って。」
彼女は何も言わず、ただ歩き続ける。 だが、次の丘を越えたところで、ふと足を止めた。
黒猫が肩の上から振り返り、声を上げる。
「そこにいるの、出てきなさい。隠れるのが下手すぎるわよ。」
茂みの向こうから、少年が姿を現した。 まだ幼さの残る顔。 擦り切れた靴、肩にかけた小さな布袋。 怯えたような目で、魔女を見つめていた。
黒猫が目を細める。
「……砦の子ね。孤児院の裏庭で瓦礫を運んでたの、見た気がするわ」
少年は小さく頷いた。
「……孤児院も、魔物に襲われました。 でも、あなたのおかげで、みんな無事でした。 ……お礼を言いたくて、ついてきました。」
黒猫はしっぽを揺らしながら、魔女の肩で身じろぎする。
「ふうん。礼を言うためにここまで? それだけ?」
少年は首を振った。
「……できたら、一緒に旅をしたいです。 魔法も……もし僕にもできるなら、覚えたい。 でも、僕、魔法の才能はないって言われました。 それでも、あなたのそばにいたいんです。」
彼女は、少年を見つめた。 その瞳は、何も語らず、何も拒まず。 ただ、静かに風の音を聞いていた。
黒猫がため息をつく。
「まだ子どもには旅は早いわ。戻るなら今のうちよ。」
彼女は再び歩き出す。 少年は一瞬迷ったが、すぐにその背を追った。 距離を保ちながら、必死に足を動かす。
黒猫が肩の上でつぶやく。
「にゃー...本当に、ついてくる気ね。 まったく、面倒が増えたわ。」
昼の光が、三つの影を街道に落としていた。 “まだ知らない魔法”を探す旅に、もうひとつの足音が加わった。




