旅の始まり
連載始めました。
プロローグ短めです。
霧が、森を包んでいた。
早朝の空気は冷たく、湿っていて、吐く息が白くなるほどだった。木々の間を漂う霧は、音を吸い込んで、世界を静寂で満たしていた。
彼女の日課の水くみを終え、小屋の外で師匠が出てくるのを待っていた。
彼女は黒いローブを頭からすっぽりと被り、背中には小さな鞄ひとつ。そして、肩には黒猫が乗っている。金色の瞳だけが、霧の中で微かに光っていた。
彼女の見た目は、10代に入ったばかりに見えるが、すでに成人して幾日も経っている。表情はない。目の奥に光もない。ただ、そこに“いる”だけだった。
小屋の扉が軋む音を立てて開いた。
師匠が現れた。黒髪の長髪を無造作に束ね、深紅のローブを羽織っている。見た目は四十代後半だが、彼女同様に実際の年齢はもっと上だ。 片眼鏡の奥で鋭い目を細めながら、彼女を見下ろす。
「……魔法は、好きか。」
その声には、長い年月を生きてきた者の重みがあった。
彼女は、ほんのわずかに頷いた。
彼女は、話さない。話せないのではなく、話したくないのだ。
彼女の頭の中はいつも魔法のことばかり考えていた。魔法の構造、魔力の流れ、詠唱の省略――
師匠は、目を細めた。
「そうか。なら、もう私が教えられることはない。旅に出ろ。人々の間でしか使えぬ魔法は、まだある。探してこい。」
肩の黒猫が、ぴくりと耳を動かした。
「……え? 今日? いきなり?」
金色の瞳が、師匠と少女を交互に見ている。
さらに彼は、玄関脇に立てかけてあった、彼女の身長ほどの長さの杖を手に取った。黒檀の芯に銀の装飾が施された、重厚な造りの杖だった。
「お前には必要ないものだが、お前が魔法使いだと誰かに伝えるために必要だ。これを持って行け。」
少女は、杖を受け取った。動きに迷いはない。だが、そこに意志は見えなかった。
「ちょっと待ってよ。準備とか心の整理とか、そういうのは? あたし、まだ寝起きなんだけど。」
黒猫は、しっぽを揺らしながらため息をついた。
「...まあ、いいけど。あんたが行くなら、あたしも行くよ。だって、あたしは“あんたの使い魔”だもんね。」
師匠は、背を向けながらぽつりと呟いた。
「それから弟子を見つけてこい。……そいつがどんな顔してるか、見てみたい。」
少女は、何も言わずに歩き出した。
肩の黒猫が、霧の中を見つめながらぽつりと呟いた。
「ほんと、あんたたちってば、いつも急なんだから。」
こうして、沈黙の魔女と肩乗りの使い魔の旅が始まった。




