第五話 陰キャの勘違い
「こんばんは」
その透明感のある美しさはまるでガラス細工のようで、脆く壊れてしまいそうな、そんな儚い印象さえ受ける天使の微笑みだった。
確かに望んだ邂逅ではあった。でも、そもそもは駄目元。
文字通り淡い期待しか持っていなかったからこそ、唐突に訪れたこの展開がどうしようもなく嬉しい。
でも、
「あぁ。うん……こ、こんばんは……」
平静を装うにも上手くいかず、どうしても動揺が前に出てしまう。
「今日も奏君居るかなー?と思って覗いてみたら、やっぱりいた。もしかて、いつもこの時間になったらベランダ出てるのかな?」
(え?佐々木さんも僕の事を……?)
その言い草から、まさか僕と同じように時刻を見てベランダへ出てきてのだろうか?と、そんな期待から舞い上がるも、悲しいかな。
それを表面には出すまいと必死に平静を装うのが陰キャの習性というものだ。
「え、まぁ……うん。最近一人で星を見るのにハマってて……」
「黄昏れ?ってやつ? なんか、渋い趣味してるね」
そう返してきた佐々木結衣の顔には揶揄うような笑みが浮かんでいる。
そんな風に言われると何だか気恥ずかしい。
「……いや、別にそういう訳じゃ……」
「ごめんね。折角のところ邪魔しちゃったみたいで」
僕が言った言葉の中の〝一人で〟という部分に反応したらしい彼女は揶揄いの表情から困ったような笑みへと変えると「――よいしょ」と、もたれ掛かっていたベランダフェンスから身を剥がした。
「……それじゃ私、中(部屋の中)入るね。おやすみ奏君」
そう言いながらこちらへ向けた彼女の微笑みの中に、心なしか残念そうな色を見たような気がした。
「――ちょっと待って!」
そう思った瞬間、咄嗟にその声は出てしまっていた。
「ん?何?どうかした?」
呼び止めてしまった瞬間、『しまった』と思った。
しかし、呼び止められた側の彼女の表情は心なしか明るい。
そんな様子に勇気を貰い、僕は口を開く。
「……い、いつもは一人なんだけどさ……えっと……その……」
絞り出すように、辿々しい口調でなんとか言葉を紡ぎ出そうとするも、羞恥心が先行してその先がどうしても出てこない。
そんな様子に彼女は何かを察したのか、再びフェンス上に両腕を乗せると元の体勢に戻し、こちらを向いた。その顔には嬉しそうな悪戯的な笑みが張り付いている。
「……えっと、それは何?――つまり、私と一緒に星空を眺めたいって、そういう事でいいのかな?」
そう問われ、ここで僕はふと我に帰る。
「…………」
一体僕は誰に向かって何を言っているのか……と。
勢いで出た声とはいえ、相手はあの〝佐々木結衣〟だ。間違っても僕みたいな陰キャが『もう少し一緒にいたい』だなんて口走るどころか、思う事すらしてはいけないような、雲の上の存在だ。
しかし、そんな劣等感からくる悲観とは裏腹に、今目の前でこちらを向く彼女のその表情はどこか嬉しそうにも見えなくもない……。
そして僕はそんな彼女の揶揄うような微笑みにいつものようにあわあわするだけで言葉が出ない。
すると彼女は、そんな無言の僕に対して、
「――うん!いいよ!」
と、〝そう勝手に解釈します〟の体で今度はニコッと、小悪魔から天使の笑みへと切り替えた。
その笑顔はまるで、彼女もまた僕とこうやって同じ時間を共有する事が嬉しいかのような……そんな、勘違いを引き起こさせるような笑顔だった。
――これは自分へ対する忠告だ。
間違っても変な気は起こすな。
それは完全なる勘違いだ。
それを認めてしまえば自分が傷付くだけ、虚しいだけだ。と、
そう己に強く言い聞かせる。
そもそも考えてもみろ。
相手はつい最近まで国民的トップアイドルだった人間だ。
言わば、世の男を魅了する天才。プロだ。
だから、今こうして向けられている笑顔もきっと、営業スマイルというやつだ。
確かに、芸能界を引退した今や、意図的にその表情を作る事はしないだろう。
しかし、染み付いてしまったその癖は無意識にも出てしまっていて、例え佐々木結衣本人にそのつもりが無くとも関わる者全てを無差別に魅了してしまう。
ゆえに今の彼女の振る舞いに何ら深い意味は無く、その気は一切無い。
だから僕――勘違いするな、と。
遠目から憧れるだけ、むしろ隣人として接点が持てただけでも千載一遇の幸福を得たと言える。
それで手を打っておけ、と。変な欲を出すな、と……そう己に言い聞かせる。
(まったく罪深い女だ……)
そうだ。今のこの関係性を大事にしよう。……あくまで隣人として――。
そう思うようにと、心に決めるのだった。
ただ、そんな長々とした決意を固めている間にも彼女の『うん!いいよ!』の発言は置き去りとなっていて、
「「………………」」
気付けば心地の悪い沈黙がか落ち始めていた。(またやってしまった……)
そして、
「……あれ?違った?もしかして私の早とちり?……やだっ!めっちゃ恥ずかしいやつ!……ごめんなさい。私、帰るね。おやすみ!」
そう言って彼女はキラキラとした笑顔から一転、苦笑いへと作り変えると、逃げるようにして部屋の中へと入ろうとした。
僕は再び声を上げた。
「――違わないよ!」
「え?」
突然の、僕らしくない張った声音に、彼女は驚いた顔でこちらを向くと、僕は絞り出すように言葉を紡ぎ出す。
「……良かったら、い、一緒に観よ? ほら、綺麗だよ?」
緊張に震える声でそう言って、僕は夜空を指差した。
すると彼女は嬉しそうに微笑んで、
「うん。本当だね!綺麗……」
と、再びベランダフェンス際へと歩み寄ると静かに僕の指差す先を見上げた。
その表情にさっきのような揶揄うような色は窺えない。
穏やかで、優しく、それでいてどこか幸福感を滲ませたような横顔が、月夜の下、美しく照らされていた。
実のところ、僕はそもそも星が見たくてこうして毎夜ベランダへ出ていたわけではなかった。……いや。確かに星は眺めていた。でもそこには何の想いも無かった。
言うなれば、無機質な一日の清算。それが昨日までの行動原理だった。
でも今日は違う。
彼女――佐々木結衣との邂逅を望んだがゆえの行動であり、そして今、彼女と同じ夜空を見上げて思う事がある。
――今日は星が綺麗だ。物凄く。
互いの部屋を区切るフェンス際の最も近い距離感にて彼女の存在を感じながら――沈黙が落ちる。
でも、この沈黙はどこか心地良い。
ほんわかとした、まるで癒しのような沈黙が高鳴る僕の鼓動を優しく鎮めていく。
「……私さ、学校じゃあんな感じだから。中々奏君と話せないなーって、思ってたんだよね。……だから今この瞬間、結構嬉しいっていうか、幸せだなーって、そう思うんだよね」
(それはこっちの台詞だよ……)
再び彼女の方を振り向くと、
そこには幸せそうに微笑んだ横顔があって。
思わずとも惚れてしまいそうになる……いや、でもダメだ。
こんな僕が、そんな夢のような事を考えてはいけない。
それに、今の彼女の言葉だってきっと深い意味は込められていないはず。と、いつものように自制を効かせ、我に帰る。
まったく。
僕だから良かったものを、他の陰キャならきっとここで大きな勘違いを引き起こしていた事だろう。
ふと彼女がこちらを振り向いた。
「――ねぇ、奏君……」
僕は咄嗟に視線を外してしまう。
理由は自分でも分からない。
そんな僕に彼女は、
「ねぇ、こっち見てよ?」
と、そう言われて僕は彼女の方へと視線を戻す。すると彼女は、
「私、もっと奏君の事知りたい。もっと奏君と仲良くなりたい」
と、真っ直ぐに僕の目を見つめてそう口にした。
「……なんで、僕なんかと……?」
「う〜ん……それは……」
僕の問いに少し困ったような笑みを浮かべた佐々木結衣は、少し考える間をあけて、
「……隣人、だからかな……?」
と、歯切れ悪そうにそう言った。
その言葉は僕の心をチクリと痛くした。
――隣人として……か。
そうだ。
その通り。
僕だってそのつもりだ。
期待なんて、これっぽっちもして無い。
だから大丈夫だ。
……でもやっぱり、ちょっとだけ痛い。
「そ、そうだよね! うん!隣人同士、仲良くしよう!」
出来るだけ明るく振る舞うよう努める。もちろん落胆を隠す為の空元気だ。
ただ、当たり前だけど自分では自分の事を客観的に見れやしない。
大丈夫だろうか。
ちゃんと、中で起きた落胆は隠せているだろうか?
哀愁は漂っていないだろうか?
「――ところでさ。私の名前は下で呼べるようになったの?」
胸中騒がしくしているところへ、そんな言葉が飛んでくる。
「……え?」
ピタリと固まる。
まったく、『宿題はちゃんとやったの?』みたいに言わないで欲しい。(確かに昨夜そんな事を言ってはいたけど……)
「無理だよ。そんなの……」
「何で?名前で呼ぶだけだよ?そんなに私って、寄り付き難いかな?」
そんな悲しみが籠った声で言われても無理なものは無理だ。
正直なところ、彼女の言った『寄り付き難い』という表現はその通りで、〝佐々木結衣〟とこうして会話していている現状、僕はとても畏縮している。
彼女は普通の女の子として接して欲しいと、そう言った。
でも、例え意識したとしても彼女へ対する特別視はそう簡単にやめられるものではない。
こうやって彼女と関わる中、どうしても、『僕なんかでごめん』という謎の謝罪の念に駆られてしまう。
でも、彼女は彼女で常に周囲から向けられる特別視を心苦しく思っている事を僕は知っている。
ならば……
「……結衣……さん」
彼女がそう願うならばと、遠慮がちな声で辿々しく彼女の名前を口にするが、でもやはり呼び捨てはさすがに耐えきれず後付けで〝さん〟を付け足す。
すると彼女は「……あ、言えたね」と少し驚いたように目を見張って嬉しそうに言った直後、今度は悪戯的な笑みを作ると、
「でも〝さん〟は要らないかな。〝結衣〟って呼び捨てで呼んでみて」
と、潤んだ瞳で懇願するような視線を向けてくる。
(だからその上目遣い、反則だから……)
耐えきれず、
「……結衣……」
ついに言ってしまった……。
「うん!合格!じゃあ、これからはそれで呼んでね!」
と、満足そうな笑みを浮かべながらそう言われれば、僕は「……うん」と頷くしかなかった。
今後は呼び捨て……かぁ。
ただただ恐縮。
そう思いながらも、佐々木――いや、結衣、が浮かべるその笑顔のキラキラとした輝きはまさに宝石そのもので、僕一人に向けるにはあまりにも贅沢な笑顔だった。
「……どうして、そんな笑顔を僕なんかに向けるの?」
結衣の満面の笑みが微笑みへトーンダウンする。
「不思議?」
その聞き返しに僕はコクリと頷く。
「そう。じゃあ教えてあげるね。何故私が奏君にだけ付き纏うのか、その理由を――」
続きが気になる。面白いと思われましたらブックマークと⭐︎評価の方をしてもらえると幸いです。