第二十二話 矢田美織
[美織視点]
『指す手が無い時は無理しないでできるだけ戦場から遠い駒を動かすといいわ。膠着状態の時に無理して戦局を動かそうとしても、そういった一手は大体が悪手。こういう時は一手休んで相手に委ねるのよ』
師匠の教え方は分かりやすく丁寧で、とても優しかった。
そんな師匠の事をあたしはとても尊敬していたし、大好きだった。
『はい! 師匠!』
元気よく返事をするあたしに師匠は困ったように笑う。
『だから師匠はよして?私はそんな大層な棋士じゃないから』
『いえ!師匠は凄い棋士です!いつか清麗棋士になる人だって、あたしはそう信じてます!』
『ふふ、お世辞でもそう言ってもらえると嬉しいわ。そうね。そうなれるように頑張るわね』
優しく微笑みながら師匠はあたしの頭をポンポンと軽く触れると、おもむろに時計を見た。
『もうこんな時間かぁ。 美織ちゃん、お腹空いたでしょ?お昼ご飯にしましょうか』
『え?ご馳走になっていいんですか?』
『もちろん!有り合せで良ければね』
『やった!』
喜ぶあたしに師匠は優しく微笑んだ。
――トントントン。
あたしがダイニングテーブルに腰掛けながら台所へ向う師匠の背中を眺めていると、隣りの部屋から同い年くらいの男の子が出てきた。
『お母さん、お腹空いたー』
吉本奏――師匠の一人息子だ。
『今チャーハン作ってるから、そこに座って待ってて』
『はーい』
返事しながら何気なくあたしの隣りに腰掛ける奏。あたしが居る事にさも当たり前のように何の反応も示さないのは、所謂あたし達の関係性が幼馴染というやつだからだ。もっと言えば兄妹といっていいくらいに身近な間柄だ。
『部屋で何してたの?』
『ゲーム』
素っ気ない返答。あたしとの会話はいつもこんな感じだ。
『奏も将棋やればいいのに。楽しいよ?』
『えー、やだよ。つまんなそうだし』
心底嫌そうに言う奏。あたしが誘ってもいつもこの反応。
そう、何を隠そうこの男。元々は将棋にまったくといっていいほど関心がなかったのだ。こんな素敵な女流棋士を母に持ちながらだ。
しかしその後、ある日の事――
『こんにちはー!!』
その日もあたしは師匠に将棋を習おうと元気良く吉本家を訪ねると、そこには今までではあり得なかった光景があたしの目に入ってきた。
玄関扉を開けてすぐ視界に入る畳の間。いつもなら師匠が一人で将棋盤に向かっている光景なのだが、その日は違っていた。
師匠の対面側に座る少年――奏の姿がそこにあったのだ。
『あら、いらっしゃい。美織ちゃん』
師匠は立ち上がるとあたしを出迎えにこちらへ歩み寄って来る。
『どうぞ上がって』
『お邪魔しまーす』
難しい表情で盤上を睨む奏。側まで行って声をかける。
『将棋、始めたの?』
『うん』
盤面を睨んだまま一言、簡素な返事が返ってきた。
『奏もやっと将棋の楽しさに気が付いたのね?』
『いや。約束したから』
『え?約束?誰と?』
『……何でもない』
一体なんだっていうの?
あたしがいくら誘ったって興味を示さなかったくせに。
師匠と、どんな約束をしたのだろうか?
当然だけど。あたしはこの時、その約束の相手を師匠の事だと思い込んでいた。
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