第十話 元アイドルの部屋で食べる家庭的なカレー
「――とまぁ、感想戦はこんなところかな?」
「うん、そうだね。ありがとう!すごく勉強になったよ」
「こちらこそ」
感想戦と呼ばれる対局後の意見交換を済ませたところで、結衣はおもむろに立ち上がり言う。
「ところで奏君。夕飯まだだよね?」
「あぁ、うん。まだだけど。」
――っと!?まさか、この流れは!?
「昨日の残りで良ければ食べてかない?」
やった!
結衣の手料理にありつけるなんて思ってもみなかった。
「喜んでッ!!」
と、思わず力の入った返事になってしまうと結衣が嬉しそうに「ふふ」と笑う。
「でも、あんまり期待されちゃうと、困っちゃうかなぁ〜?」
そう言って、今度は少し困ったような笑顔に切り替わった。
リビング中央の小さな食卓机に場所を移し、待つ事10分。
「お待たせ」
卓上に結衣のお手製が並んだ。
献立はカレーと野菜サラダだ。
「――わぁ。美味しそう!ありがとう」
「はい。召し上がれ」
と、対面側に結衣が座る。僕は「いただきます」と、早速カレーを一口。
「うん。美味しい」
「そりゃ美味しいよ。だって野菜切って煮込んで市販のルウを入れただけの失敗しようの無い料理だもん」
と結衣はそう微笑むと、自分も「いただきます」と手を合わせ食べ始める。
確かに結衣の言う通り、素朴で何の変哲もないカレーだと思う。
でも、それが良い。
変に『スパイスから拘って一から作りました!市販のルウを使うなんてあり得ません』的な、本格カレーが出てこられても正直一歩引いてしまう。
個人的にはこういった家庭的なカレーが好みだし、何より、ホッとする。
「ううん。僕は結衣の作ったこのカレー、すごく好きだよ!」
そう正直な感想を告げると、結衣は軽く目を見開き、その瞳は少し潤んでいて「え……嬉しい」と漏らすように呟いた。
(何だコレ。めちゃくちゃ可愛いんですけど!)
その可愛過ぎる表情に思わず惚れそうになるが、そこはプロの陰キャ。
その心をグッと抑え、紛らわす為にも将棋の話へと切り替える。
「ところで、さっきの対局の中で感じた、感想戦でも言えてない事を伝えていいかな?」
「うん!もちろんだよ!むしろ何でも言って!今日から私達はペアだし、お互い気付いた点はなんでも共有し合おうよ」
との事なので僕は結衣のその言葉に頷き、口を開く。
「結衣はもっと自分の直感を信じて指すべきだと思うんだ」
「それって、どういう事?」
「つまり、結衣は〝定跡〟に囚われ過ぎてるんだよ」
ここで結衣はハッとしたように見開いた。それを見て僕は続けて問う。
「その反応は自覚があるって事だね?」
結衣はこくりと頷くとおずおずとした口調で答え始めた。
「――ある。……実は、自信を持って指せる時と指せない時があって、その分岐点はズバリ〝定跡〟に沿ってるかどうか……。悪手(状況を悪くする手)は絶対に避けたい――その弱さゆえに〝定跡〟ばかり追ってしまう。それが私の将棋……。さすがだね、奏君。たった二局でそれを見破るなんて……」
実は一局目から分かっていた事だが、わざわざ訂正するのも野暮なのでそういう事にしておく。
と、ここで〝定跡〟について触れようと思う。
定跡とは、プロ棋士達による日々の研究によって発見された、その場面展開での最善手をパターン化したもので、それを多く知っている事は棋士として大きな強味となる。
そう。言ってしまえば、定跡を覚えれば誰でもある程度までなら強くなれる。
だが一方で将棋界にはこんなことわざがある。
――『名人に定跡なし』。
本当に強い人は定跡に囚われない最善手を指すもの――という意味だ。
とはいえ、定跡の知見が有る無しではその者の棋力に天と地の差が出る事は事実。そして、レベルの高い将棋になればなる程〝定跡〟と〝定跡〟の応酬となる。
但し、どんなに高次元の対局でも定跡から外れる場面は必ず出てくる。
――定跡にない場面。
そう。ここで困るのだ。
特に、定跡を知り尽くし、まるで定跡で武装するかのような、結衣のような者が。
この〝定跡にない場面〟。
ここで最善手が指せるか否かが、その者の棋士としての資質を決定付けると言っても過言ではないだろう。先に言った『名人に定跡なし』ということわざにも繋がるわけだ。
「定跡を知る事はもちろん大切な事だ。でも、定跡に頼り過ぎるとその人本来の持ち味が死んでしまう事にも繋がる」
「奏君が言わんとする事は分かる。でも、じゃあ、どうすればいいの?定跡は大事。でも、定跡に頼り過ぎてはダメ。幾ら頭では分かっても、イメージができない」
何事もバランス……と、言いたいところだが、そんな抽象的な事を言ったってしょうがない。もっと具体的にアドバイスする。
「とにかく読むんだ。読んだ上で最善手を探す。このサイクルで指すのを心掛けて欲しい」
「それはやってるよ?そもそも〝読み〟だって定跡を元した行為だよね?」
彼女の言う事も一理あるが、それこそが彼女の弱さだ。
「じゃあ、一つ質問するね? もしも相手が定跡を知らない。 いや、敢えて定跡で打ってこないような場合……どうする?」
「…………」
問いに押し黙る結衣。
「困るよね?」
続けて問うと結衣は無言のまま頷いてから口を開いた。
「……だからさっきの対局の時も……」
「そう。敢えて定跡から外して打ってたんだ。でも逆を言えばあの指し筋は最善手を避けたもの。当然、つけ入る隙はあったはずだ。その勝ち筋を見出せず、むしろ結衣の方から自滅していったのが、さっきの対局の真相だ」
「……そう。全然読めなかった。次奏君はこう打ってくるだろうと思ってても全然それをしてこない。まるで、何も見えない真っ暗な世界で闇雲に指してたような感覚だった……ってアレ?って事は奏君はまた手加減してたって事?」
〝定跡〟を敢えて使わなかった事を手加減と思ったらしい。
しかし、僕にはそんなつもりは無かったし、間違いなく全力で叩き潰しにいった。
「いや。それは誤解だよ。僕は間違いなく、結衣に対しての最善手を指したつもりだよ」
「……私に対しての最善手……?つまり、私の弱点を突いた、って事?」
「その通り。『名人に定跡なし』――なんちゃってね」
必ずしも定跡=最善手とは限らない。それを伝えたかったわけだが、ただ……勢い余ったせいとはいえ、畏れ多くも自分を名人呼びしてしまった事に恐々として、慌ててそれをおちゃらけた風に誤魔化した。
でも、結衣は……
「いや、なれるよ。きっと。奏君なら――」
と、真面目な表情で僕を見る。その目はまるで、確信を得たかのような目……。
どうやら、結衣は冗談抜きで、本気で思っているらしい。
――いつの日か僕が、〝名人〟になれる日が来ると。
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