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光田と3人は、新宿にあるビルの一室にいた。
「わざわざ来て頂いて、申し訳ありません」
40代後半の太った男が、同年代の女性と一緒に部屋に入って来た。高級そうな背広姿だったが、ネクタイはかなり緩めになっていて、少しだらしなく見えた。エアコンは適温なのに、相当な汗っかきなのか、ハンドタオルで額と首筋をしきりに拭いている。女性の方は高そうなグレーのビジネススーツを着こなしていて、いかにも出来そうな秘書という印象だった。
レイナの顔を見た瞬間、二人の口が「アッ」と開いた。
それを見た光田が、唇だけでニヤリと笑う。
「これは・・・」
驚きを隠せない二人に、光田が3人を紹介する。
「こちらがカリフォルニアから来て貰った斎藤レイナさん。それから、その隣がニューヨークから来て貰った、星野ケント君とシオン君です」
3人は、顔を二人に向けたまま不器用に頭を下げた。
「それから、こちらのお二人は、AFSの導入に協力して下さった、山口エンタープライズの山口社長と秘書の中村さん」
今度は、山口と中村がニコリと微笑みながら頭を下げた。
「3人とも日本に到着したばかりでお疲れでしょうから、さっそくアガサの開発室をご覧頂きましょうね」
中村は、そう言って4人をアガサの執務室に連れて行った。
部屋には20代後半の女性が一人、デスクに向かって何かの作業をしていた。恐らく何かのプログラムを作成しているのだろうとレイナは思った。その女性が皆に気付いて椅子から立ち上がった。
「彼女は、AFSのサポートをしてくれている石黒さんです」
白いブラウスに、グレーのスカートを着た女性が丁寧に頭を下げた。肩くらいまでの長さの髪を、黒いバンドでまとめている。銀縁の眼鏡の所為だけではなく、切れ者感がそこはかとなく漂っていた。
「石黒真由美です・・・」
言おうとして、彼女もまたレイナの顔を見て、アッと声を上げた。
「私の顔に何か付いてます?」
さすがに当のレイナも、皆のリアクションに不愉快そうな口調で聞いた。
言っていいものか判断出来ず、石黒は上司である中村の顔を見た。
「それは、私からお話しましょう」
そう言って、レイナをアガサの使っていた机の前に連れて行った。机の上には3人の親子の写真が飾られてあった。夫婦らしい日本人の男性と西洋人の女性。そしてまだ小さな少年。二人の年齢は恐らく40代後半、そして少年は5~6歳と言ったところだろうか。
「あれっ、この人レイナに似てる」
レイナの後ろで、ケントとシオンが写真に指を指す。
さらに中村は、アルバムを開いてレイナに見せた。
「ポーランド時代のアガサの写真です。17~18歳頃ですね」
アッ、今度はレイナ自身が声を上げた。白黒の写真だったが、レイナにそっくりの顔の少女が写っていた。レイナは日系3世の父親とアメリカ人の母親の間に生まれた。父親もイギリス人とのハーフだったこともあり、日本人の血は薄かった。
「レイナさんのお母さんは、東欧系の方なんですか?」
中村が聞いた。東欧系には黒髪の女性が多い。
「ルーマニアからの移民だと、聞いてます」
レイナは、アルバムの写真を人差し指でなぞりながら答えた。
「なるほど」
中村の後ろで山口社長が大きな声で言った。どうやら、この話はここまでにして、本題に入りたがっているみたいだった。
「それじゃあ、AFS誕生の経緯を、簡単に説明しましょう」
中村がアルバムを閉じて、机の上に置いた。
「あなたたちの様な若い人たちには、少しショッキングな話も出て来ますが、AFS開発にはとても重要なファクターなので、我慢して聞いてください」
中村は諭すような表情で3人の顔を見た。3人は、どう返事していいのか分からずに、ただ黙って頷いた。中村は、特にレイナの顔を見つめていたが、ふと我に返った様に、アシスタントの石黒の方を見て頷いた。
「アガサは1955年、ポーランドのワルシャワに生まれました」
アシスタントの石黒が、パソコンの画面にアガサの若いころの写真を映し出す。
「この写真は、彼女が15歳の時に世界数学コンテストで優勝した時の写真です」
白いワンピースのアガサが、トロフィーを手にして微笑んでいる。
「彼女は、17歳の時に物理学の大会でも優勝して、天才少女として注目されました。その後、アメリカからの強い要請と奨学金を手に、18歳の時にアメリカの大学に留学し、さまざまの学問を習得しました」
パソコンの画面に、日本人男性とオープンカーに乗っている写真。
「35歳の時、アメリカで知り合った橘拓馬と結婚しました。橘琢磨は、アメリカのゲームメーカーでプロデューサーを務めていました。5年後に日本の会社に移りますが、いずれにしてもゲームのプロデュースが専門です」
画面に、橘が関わったゲームのパッケージが現れる。
「あっ、このゲーム知ってる。すっごい面白かった」
ゲーム好きのシオンが興奮して叫ぶ。
「日本に来て、アガサは、夫の仕事を手伝ったり、我社のシステム開発の仕事を手伝ってくれたりしていました」
「私の父親と橘さんが大学の同期だった関係からです。アガサの設計したシステムは本当に評判が良くて、この会社がここまでになったのも、アガサのお陰だといっても過言ではありません」
山口がちょっとだけ、口をはさんだ。
病室で、生まれたての赤ちゃんを抱えるアガサの写真。
「43歳の時、竜司君が生まれました。高齢出産で危険だと言われたそうですが、この子を産むためなら死んでもいいと医者の意見を突っぱねたそうです。望みながらも、長い間授からなかった子供だったので、ことのほか嬉しくてたまらなかったそうです」
ここで、中村は目を閉じて、しばらくの間、口を閉ざした。そして、何かを決心した様に大きく深呼吸すると、目を開けてレイナの瞳を覗き込んだ。一旦目を閉じると、石黒に向かって頷いて見せた。
ダンプカーにぶつかって大破した車。
レイナの顔が強張り、口に右手を添えて後ずさりした。ケントとシオンは、「オーマイガッ!」と首を振って下を向いた。
「竜司君が10歳の時、父親の運転する車が事故に会い、二人は帰らぬ人となりました」
中村は、抑揚を付けずに淡々と言った。
「アガサは、愛する人を二人同時に失いました。その悲しみはあまりに深く、その後5年間、一切の仕事を放棄し、海辺の別荘に閉じこもってしまいました」
「私と中村君は、心配で、時折別荘を訪問しました。しかし、玄関越しに一言二言声を聴くだけで、顔を見て話すことは出来ませんでした」
ここでもまた、山口が口を挟んだ。中村に目配せすると、中村は後ろに下がり、山口が前に出る形で話を続けた。
「事故からちょうど5年目の命日の日、私と中村君が橘さんと竜司君のお墓にお参りに行くと、そこにアガサが待っていました。一緒にお参りした後、アガサは新しいタイプのファイアーウォール・システムを開発したので、どこかの企業に推薦して欲しいと頼んで来ました」
山口はそこでまた額の汗を拭った。
「アガサがまた仕事に復帰するという話は本当に嬉しかった。その目にも、何か闘志というか、希望の様なものが戻っていて、中村君と二人で小躍りしたくらいです。でも、ひとつ問題がありました」
「どんな?」
レイナが聞いた。ケントとシオンも、理由を知りたがっている。
「我社では、ファイアーウォール・システムの開発はやっていませんでした。専門のスタッフもいません。さらに、アガサにもその実績がなかったのです。実績のない会社に、それを依頼する企業はありません」
3人の熱い視線を感じて、山口はまたハンドタオルで汗を拭った。
「すると、実績はもうありますよって、アガサが自信たっぷりに言ったんです。我社で3年間の実績が・・・」
山口の後ろで中村が言った。その顔には笑みがこぼれている。
意味が分からず、レイナも他の二人も口は挟まなかった。
「我社は、T社にファイアーウォール関連のシステムを一括でお願いしていました。しかし、実際にはT社のシステムは破綻して居たんです。その事は、会社でアガサの説明を聞いて納得しました」
中村の話を、また山口が引き継ぐ。
「T社のファイアーウォールシステムが破綻して居た事に気が付いたアガサは、別荘でその為のシステムを開発してくれていたんです」
「それって、アガサがこの会社をハッキングしていたってこと?」
レイナが、首を傾げながら言った。何のために?
「彼女のデータベースに保存していた資料を入手したいと思ったらしいの。最初は私に連絡して送って貰おうとしたんだけど、そのころのアガサの生活は昼と夜が逆転していて、私が出社するまで待てなかった・・」
「それで、ハッキングで手に入れようとした訳ね。アガサにとっては簡単なことよね」
レイナは、少しアガサに共感出来た。自分が同じ状況なら、きっとそうするだろう。
「本来、アガサは我社の社員ですから、外から彼女のデータベースに接触することは自由でした。しかし、別荘で暮らし始めて2年近くが経っていたので、T社に依ってパスワードが変更されていました。その新しいパスワードを掻い潜ろうとしている時に、アガサはT社のファイアーウォール・システムに幾つかの弱点を発見したのです。大手にしてはズサン過ぎるやつを・・。その穴を突かれて、既にマルウエアが埋め込まれていたそうです」
「なぜすぐに中村さんに連絡しなかったの?」
「私に連絡すれば、自分がハッキングした事を話さなければならなくなる。長い付き合いと言っても、私や山口がどう反応するか分からなかったらしい。それにT社まで巻き込むとなると、さらに事が大きくなってしまうと考えたのね」
「それで、アガサはどうしたの?」
「T社のファイアーウォールの研究を始めたの。さらに、他社のシステムや、世界中のサイバー攻撃の方法についてもね」
「コホン」
ずっと黙って話を聞いていた光田が、咳払いをした。
「アガサがファイアーウォールに興味を持つ様になった経緯は、分かって貰らえたと思う。詳細が知りたいなら、また別の機会に聞けばいい。中村さん、先を進めて貰えますか?」
中村は、山口と石黒の顔を見て頷いた。