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御池の南西に、今は閉ざされた神社があった。
リュージは苔むした階段の前にバイクを停めた。そして、ヘルメットを座席下のホルダーにロックすると、デイパックを抱えてスタスタと階段を上った。
リュージが階段を登り切った先にある鳥居の下を潜り抜けた時、上空にいたドローンが静かに舞い降りてきた。地上2メートルほどの高さでホバーリングするドローンの中から、二匹の赤と黒の斑のクモが、糸を垂らして降りてきた。そして、八本の細長い足をシャカシャカと動かしてリュージの後を追った。
リュージは、空を覆い隠すような深い木々の下をゆっくりと歩いて行った。視線の先には荒縄で飾られた洞窟があった。高さは3メートル程だろうか。入口付近には、人々の祈りを込めた小石が幾本も積み上げられている。その洞窟には特に扉の様なものはない。いや、無いように見えた。
洞窟の前で、リュージは直立し、目をつぶって静かに頭を下げた。
両手を合わせて何か呪文の様な言葉を唱えると、洞窟の前で、何か透明なドアが開く気配がした。リュージがその透明のドアから中に入ると、洞窟の中がボンヤリと明るくなった。洞窟は10メートル以上も続いていた。
洞窟の行き止まりには、新たなガランとした空洞が広がっていた。入口から5メートルほどの幅の平らな石畳がつづき、その先には直径10メートルほどの滝つぼがあった。その滝つぼの中央には2メートル幅くらいの人が立てる石の台があり、ちょうどその真上の天井の割れ目から、清らかな水が滝の様になって流れ落ちていた。天井の高さは8メートル程だろうか、洞窟の中だというのに天井の隙間からは木漏れ日が差し、マリンブルーにライトアップされた滝つぼの水は、神秘な雰囲気で揺らめいていた。
リュージは着ていた服を脱いで、競技用の海水パンツ姿になった。そして、服を丁寧に畳んで濡れない場所に置くと、デイパックの中から白い行衣を取り出して羽織った。滝に打たれる修行僧の様な姿である。
滝つぼの前で直立すると、流れ落ちる水に向かって一礼し、両手を合わせて祈るように静かに目を閉じた。5分が経ち、10分が過ぎても、リュージは身動き一つしなかった。洞窟の中には、ただ石の台を叩く水の音だけが流れていた。
30分ほどが過ぎた時、リュージの切れ長の目がゆっくりと開いた。アガサから引き継がれたその瞳は、アクアブルーに透き通っていた。その美しい瞳で、リュージは左手首の内側を見つめた。そこには、黄色い色のバラの模様が浮き上がっていた。
リュージはゆっくりと滝つぼに足を入れた。それほど冷たいとは感じなかったが、水温は10度を切っていた。腰の深さ程の滝つぼを進むと、石の台の前で立ち止まった。滝を見上げるリュージの顔に、無数の水滴が降り注いでくる。その水滴を口に含むと、身体の内側から無限の力が沸き上がって来るのを感じた。
「もし何かの事故で傷付いた時は、この水を飲み、この水の中に身体を委ねなさい。そうすれば、全てが改善されます」
アガサの言葉がリュージの耳に蘇った。
リュージは石の台に誘う階段を上ると、そのまま滝の真下まで進んだ。滝の神聖な冷たい水が、全身を叩き付ける。洞窟の一番奥の壁には。先ほど見た御池の映像が映し出されていた。リュージは両手を胸の前で合わせると、何か呪文の様な言葉を唱え始めた。
聖なる水が、リュージの183センチの逞しい身体を激しく叩き付ける。その激しい水が、リュージの身体と心にへばり付いた汚れをそぎ落として行く。
リュージの心と身体は、ドームと一体であり、見かけ上は無傷に見えても、無数の邪悪なハーダ(攻撃者)たちに由って少しずつではあるが、傷つけられていた。その傷を癒すためにも、また新たに立ち向かう力を蘇らせる為にも、この儀式は不可欠だったのである。
リュージが洞窟の中に入っていくのを見ていた二匹のクモは、その入り口の前までやって来ていた。一匹が洞窟に入ろうとするのを、もう一匹が止めた。二匹は何かを主張しあっているみたいだった。
やがて一匹が、もう一匹の制止を振り切って洞窟の中に足を踏み入れた。その途端、その細長い足が、透明の粘着物に絡み取られ、その醜い体がジジジッと小さな炎を上げながら消滅した。
もう一匹は驚いた様に後ろに飛び下がった。そして、しばらく何かを考えるようにジッとしていたが、ゆっくりと向きを変えると、元来た道の方にシャカシャカと走り去って行った。
有に30分ほどが経った。リュージの唇は寒さの為か、紫色に変わっていたが、その表情は爽快さに包まれていた。左手首の内側を見ると、黄色だったバラが、水色に変わっている。それは、洗浄が終了した事を示していた。
アガサは、それを洗浄とは呼ばず、バージョンアップと呼んでいた。ハーダ(攻撃者)によって撃ち込まれた矢は、解読され、記録される。さらに、ハーダたちがどんなに迂回処置を取ろうとも、そのIPアドレスは暴かれ、そこにAFSからマルウエアが植え込まれていた。ハーダの情報だけではなく、ハーダを操っている黒幕たちの情報さえもが、AFSに自動的に蓄えられていたのだった。
つまり、リュージが毎月行う儀式とは、単に汚れを落とし、傷を癒すだけではなく、敵の情報を入手しながら最新のシステムに組み替えるための作業だったのである。その意味では、流れ落ち、リュージの身体に取り込まれた水とは、最新のハッカーたちからの情報に他ならなかった。
前の壁面を見ると、御池の水が、エメラルドグリーンからアクアブルーに変わっていた。その画面は直ぐに消え、ただの岩の壁になった
リュージはタオルで身体の水滴を拭うと、水に濡れた行衣を絞ってビニールの袋に詰めた。服を着たリュージは洞窟を出ると、バイクの置いてある場所に向かった。来た時に比べると、足取りが格段に軽くなっている。
リュージはNINJA250のもとにたどり着くと、座席横下に取り付けていたヘルメットを外して被った。バイクに跨ってセルを回そうとした時、首筋にチクリと痛みが走った。
のどに渇きを感じた。瞳孔が開き、崩れるように仰向けに地面に転がった。
ヘルメットの中から一匹のクモが現れた。クモは、リュージの顔を見つめ、勝ち誇ったように倒れたリュージの身体の上に這い上がった。自分の刺した毒薬が、自分よりはるかに巨大な生き物を無力化した。それが嬉しくてならないのだ。
クモはふと、少年の手首にある青いバラの印に気が付いた。もっと近くで見ようと手首のところまで行くと、細長い黒い足で触ろうとした。しかし、今度は薄いバリヤーの様な膜に邪魔されて、直接触ることが出来なかった。折角の勝利感を台無しにされた邪悪な姿のクモは、苛立ったようにその幕を口で剥がそうとした。
ジュッ、その瞬間、クモはオレンジ色の炎に包まれて消え去った。
リュージは息が苦しくなり、ただ呆然と上空を見つめる。
次第に薄れゆく意識のなかで、何か黒いものが舞い降りて来るのが見えた。それが無人のドローンだと気付くと同時に、記憶が遠ざかって行った。