狂乱女公フォルテ
「フォルテよ。国王陛下は、おまえとの婚約を破棄されるそうだ」
父に呼び出されてやってきたフォルテは、そう告げられた。
ついさっき王の使者がやって来て、婚約破棄を宣告していったそうである。
(何を勝手なことを!)
はいそうですか、と納得できる話ではない。
「それはレグゼイン陛下が自ら決められたことなのですか? そんな重要なことは使者など介さず、直接私に会いに来て弁解するべきだと思いますが」
「合わせる顔がなかったんだろう。もう決まったことだ、諦めろ」
「ずいぶん淡々とおっしゃるのですね。お父様も私が王妃になることを喜んでいたじゃありませんか。『これで我がワルブランド家と王家との絆は、固く結ばれるだろう』なんて言ってらしたのに」
フォルテの父親のワルブランド公は、ウェントリー王国の諸侯である。
諸侯とは王から与えられた領地を自分の裁量で支配している者であり、名前だけの貴族よりもはるかに格上の存在だ。
国王のレグゼインは現在三十六歳で、二年前に妻を亡くしている。その後妻として十七歳のフォルテを娶るように王に勧めたのは、ワルブランド公である。
もちろん政略結婚ではあるが、フォルテも不満はなかった。
フォルテは人質として王都で暮らしていた時期があり、王の人柄についてよく知っている。
優柔不断で頼りなく、威厳もない。
その代わり庇護欲をかきたてるところがあり、フォルテは王妃として、頼りない王を支える覚悟だった。
「まあ、王家とワルブランド家の絆が深まることには変わらんからな」
「どういう意味でしょうか?」
「それは陛下がお姉様ではなく、私を伴侶にしたいとおっしゃっているからです」
この部屋にいたもう一人の人物が発言した。
「ピアニー、何を言っているの? 姉である私を差し置いて、なぜあなたが?」」
「どうやら陛下はおまえではなく、ピアニーの方に心を奪われてしまったようだ。生涯を共に過ごす相手として、ピアニーを選ばれたのだ」
ワルブランド公は、何とも言えない表情で言った。
(なんてこと……)
フォルテは呆然となった。
そして勝ち誇ったように微笑んでいるピアニーに顔を向けた。
(悔しいけど、確かにこの子は外見だけはいいのよね)
透き通るような白い肌に、パッチリと開いた大きな目。金色の髪はサラサラと流れるように肩にかかっている。表情も豊かで、その愛らしい笑顔にはフォルテでもドキッとすることがある。
それに対してフォルテの肌は浅黒く焼け、目はつり目だ。笑うことはあまりないので、男からは怖がられることが多い。
髪は、切るのが面倒なのでなんとなく伸ばしているが、それを高い位置で結い上げただけで済ませている。
服装はチュニックとズボンを合わせたものを着ることが多い。まるで男のような恰好だが、その方が動きやすいからだ。
フォルテとて、見た目はそれほど悪くないと自分では思っているが、ピアニーと並べられると分が悪い。
フォルテの方が頭がいいし体力もあるのだが、何もできないくせに愛嬌だけはあるピアニーの方が、誰からも好かれるのだ。幼いころからずっとそうだ。
「まあ、豚のような男でも、王には違いない。せいぜい機嫌を取っておこう」
ワルブランド公は投げやりな口調で言った。
「豚」というのは、王家の者に対する侮蔑語である。王族には肥満体の者が多いため、そう呼ばれるようになった。レグゼイン王も太っている。
「お父様!」
フォルテは怒って言った。「いくらなんでも、私たちの主君に対して失礼です!」
「お姉様は、婚約を破棄した陛下のことを恨んでいないのですか?」
ピアニーが不思議そうに聞いてきた。
「陛下があなたを選んだというなら仕方ないわ」
(私ではなくピアニーを選ぶなんて、陛下にしてはずいぶんと思い切ったことをしたものね。どうなることかしら)
「どうか陛下に伝えておいて。『これから私は、あなたには愛の代わりに忠誠を捧げます』と」
フォルテは父の部屋を辞去し、自室に戻ってくつろいでいる。
「愛の代わりに忠誠を捧げる、なんて言ったそうですね。フォルテ様の殊勝な発言には感服いたしました。ですが、それは本心から言っておられるのですか?」
フォルテの従者のロマーノが、そんなことを問いかけてきた。
メガネのブリッジに中指をあて、クイッと持ち上げる動作がキザったらしい。
ロマーノは十八歳で、フォルテよりも一つ年上だ。
男なのにフォルテよりも色白で、線も細い。
常に沈着冷静で、フォルテに対しても遠慮なく物を言う男だ。
「もちろんよ。私はワルブランド家の領主として、国王陛下に忠誠を尽くすつもりよ」
「領主なのはお父上でしょう」
「いずれ私が継ぐことになるわ」
ピアニーが家を出るので、ワルブランド公の子供はフォルテしか残っていない。
「ワルブランド公が認めるでしょうか? 女性が領主になるなんて、ワルブランド家では前例がありません」
(くだらないわね、前例なんて)
「だったら私が前例になるわ。今後のワルブランド家のためにもね。父上には早めに引退してもらうつもりよ。あの人は王家に対する忠誠心が低すぎます」
「私以外の者の前で、そのような発言はなさらないでください。ワルブランド公の耳に入ったら、どうなるかわかりませんから」
「はいはい。そんなことより出かけるわよ。ついてきなさい」
「また調練の見学ですか?」
フォルテは兵士たちの調練を見学するのが好きなのである。
「今日は見学じゃなく、私も調練に参加しようと思うの。なんだか体を動かしたい気分だから」
「御冗談を」
「本気よ。ガードナー将軍に頼めばきっと受け入れてくれるわ。兵士たちも嫌がりはしないでしょう」
「フォルテ様は軍では人気がありますからね」
ロマーノはやれやれ、といった表情で言った。「そんな勇ましい性格だから、陛下に敬遠されたんじゃないですか?」
(この男は相変わらずズケズケと言ってくれるわね)
しかし腹は立たない。むしろ愉快である。
「さあ、行くわよ」
調練に参加することを許されたフォルテは、クロスボウを撃つ練習をした。
フォルテの射撃は誰よりも正確で、三十メートル離れた的に十回連続で的中させた時は、兵士たちの間から大歓声があがった。
「フォルテ様が男に生まれていれば、戦場で活躍できたでしょうね」
「何を言ってるの? 女だって戦うことはできるのよ」
「本気で言ってるんですか?」
「ロマーノ、よく聞きなさい。私は酔狂で軍に入り浸ってるわけじゃないの。ワルブランド家のことを考えてのことよ」
「どういう意味ですか?」
「軍は力そのものよ。軍を味方につけた者こそが、力を得ることができるの。それが世の道理よ」
―――
――それから一年後、
諸侯であるランサール家が、王家に対して謀反を起こした。
ランサール家の領地は、ワルブランド家の領地と隣接している。
ワルブランド公は対応を協議するため、広間に家臣たちを集めた。
「ランサール公は三万の軍勢を率いて王都へ進軍中だ。そして我が領地はその進路上にある」
ワルブランド公が状況を説明した。「ランサール公は書状で、我らにも謀反に参加するよう求めてきている」
「閣下の考えを、お聞かせください」
家臣の一人がたずねた。
「ランサール家が王家に勝てるかどうかはわからん。謀反に参加するのは危険だ」
「では、ランサール家と戦いますか?」
「いや、我らがすぐに集められる兵はせいぜい五千なので、勝ち目はない。私は中立を宣言しようと思う。それならばランサール家は、ワルブランド家の領地を素通りするだろう」
「中立といえば聞こえはいいですが、要するに日和見ですね」
そう発言したのはフォルテである。
ワルブランド公はイライラした口調で言い返す。
「やかましい! そもそもなぜおまえがここにいる? 呼んでおらんぞ!」
「私はワルブランド家の跡継ぎですよ? ここにいて当然でしょう」
「女のおまえが領主になるわけがないだろう。いずれ王家からおまえに婿養子をもらい、その者に領主の座を継がせるつもりだ」
(冗談じゃないわ)
「いいえ、領主になるのは私です。私がワルブランド女公となって家を守ります」
「勝手なことを言うな! 跡継ぎを決めるのは私だ!」
「いいえ、お父様にそんな資格はありません。この大事な時に日和見を決め込む者に、ワルブランド家の領主は務まりません」
家臣たちは、二人の言い争いをハラハラしながら見守っている。
「おい、衛兵! フォルテをこの広間から追い出せ!」
娘の暴言に我慢がならなくなったワルブランド公が、衛兵に命じた。
衛兵たちがそれに応えて、フォルテに近寄ってきた。
「下がりなさい!!」
フォルテの一喝はあまりにも迫力があったため、衛兵たちは動きを止めた。
フォルテは、さらに大声を張り上げて言った。
「ワルブランド家は盾なり! 千の敵から王家を守る盾なり!」
これはワルブランド家の標語である。
初代のワルブランド公は、隣国のオルダ王国が侵攻してきた際、一年にも及ぶ籠城戦を耐え抜いて、ウェントリー王国に勝利をもたらした。
その後、当時の王から「おぬしの働きは、王家の盾と呼ぶにふさわしい」と称えられ、領地と諸侯の地位を与えられた。
それがこの標語の由来である。
フォルテは幼いころからこの話を聞かされ、偉大な先祖の血が自分にも流れていることに誇りを持っていた。
だからこそ、父が許せない。
「王家の盾となることが、ワルブランド家の務めなのです! それをしないお父様に、ワルブランド公を名乗る資格はありません!」
「フォルテ様は、婚約を破棄した国王陛下を恨んでおられないのですか?」
家臣の一人が問いかけた。
「まったく恨んではいません。それにたとえ恨んでいたとしても、男女の愛と忠誠心を混同するほど、私は愚かではありません」
「敵は三万で我らは五千。勝ち目はないのではありませんか?」
別の家臣が言った。
「勝敗は数だけでは決まりません。
三万のうちの約半数は、金で雇われた傭兵です。傭兵は忠誠心がないからランサール家のために必死に戦うことはないし、形勢が不利になれば逃げ出します。
ランサール家の兵士にしても、士気は低いはずです。王家への反逆は、誰にとっても後ろめたいこと。その後ろめたさのために、兵士の士気は上がりません。
それに対し、ワルブランド家の兵士は大義のために戦えるのだから、高い士気を保って戦うことができます。
勝敗を決定づけるのは、兵の数ではなく士気です。だから数で劣っていても、必ず勝てます。」
フォルテの言うことは、確かに筋が通っていた。
家臣たちはフォルテが意外な見識を持っていることに驚き、彼女が女性だからといって侮れない人物であることを認識した。
「黙れ! 女のくせにつまらぬ妄言を吐いて家を滅ぼそうとするな!」
(女のくせにですって!? 妄言ですって!? せっかく理路整然と説明してあげたというのに!)
父親の暴言に、フォルテはキレた。
「黙るのはあなたのほうよ! 男のくせに戦う勇気もないの!? だったら、股の間にぶら下がっているその腐ったサクランボを、ちぎって捨ててしまいなさい!!」
そのあまりの荒々しさと下品さに、家臣たちは鼻白んでいる。せっかくフォルテを見直した者も、果たして彼女に領主が務まるのかと危ぶみだした。
その時、広間の大扉が開かれ、ロマーノが入ってきた。
「フォルテ様、連れてきました!」
そしてロマーノの後ろから、兵士たちがゾロゾロと広間に入ってきた。
兵士を連れてくるように命令したのは、もちろんフォルテだ。
(いいタイミングよ、ロマーノ)
突然武器を持った兵士が入ってきたことで、家臣たちがどよめいている。
フォルテは一同を見渡して大声を上げた。
「さあ、決めなさい! ワルブランド家の領主にふさわしいのはその腑抜けた男か、――それとも、この私か!!」
「我々はフォルテ様に忠誠を誓います!!」
兵士たちはそう言うと一斉に剣を抜き、頭上に掲げた。
この状況で、ワルブランド公を支持すると声をあげる家臣はいなかった。
フォルテは父親をにらみつけた。
(軍を掌握していたことが私の勝因よ、お父様)
「お父様には私に家督を譲った後、隠居してもらいます」
それを聞いたワルブランド公の顔面は、蒼白になっていた。
「お、おまえは頭がおかしいのだ。こ、こんなことをして、どうなると……」
そしてワルブランド公は、諦めたように言った。「……狂っている」
ワルブランド公は城内の一室に幽閉されることになった。
彼はわかっていなかった。
フォルテが狂うのは、これからである。
ランサール家の軍が迫っている。
フォルテは将軍たちを集め、自らが総司令官となって戦うと宣言した。
「閣下、実際の戦闘は本職の軍人に任せた方がいいのではないですか?」
ロマーノがそう提案した。将軍たちもうなずいている。
しかしフォルテは耳を貸さない。
(城で何もせずに待ってるなんて、耐えられるわけがないでしょ)
「ワルブランド家の領主は、自ら先頭に立って戦うのが習わしよ」
「それは、今までの領主は男だったからでしょう」
「男だろうと女だろうと、領主が自ら戦うからこそ、兵士は奮い立つものなの。さあ、兵士たちを集めなさい。すぐにランサール軍を迎撃に向かいます」
「えっ!? 打って出るのですか?」
将軍の一人が驚いたように言った。「味方が五千なのに対し、敵は三万ですよ!? ここは籠城するべきです。それが『王家の盾』としてのワルブランド家の戦い方です」
「籠城戦は、援軍が来ることを期待して行うものでしょう? 援軍は来ないんだから、野戦で勝負を決するしかないわ」
「王家が援軍を送ってくれるはずですが」
(そうだと信じられたらいいのだけど)
フォルテは王の性格をよく知っているのである。
「いいえ、レグゼイン陛下は優柔不断で覇気がない方よ。おまけにワルブランド家が王家への忠義のために最後まで戦うとは、信じていないわ。だから陛下は、なんとか平和的に解決しようとして、無駄な時を費やしてしまうでしょう」
「ずいぶんひどい評価ですね」
ロマーノが笑みを含んで言った。「そんなひどい王のために、命懸けで戦おうと言うんですか?」
諸侯が王に忠誠を誓っているのは、王が領地の支配権を保障してくれ、いざという時は守ってくれると期待しているからだ。それをしない王に従う義理はない。
諸侯にとって大切なのは自分の領地と領民を守ることであって、王家を守ることは二の次なのが普通である。
「英明で勇敢、情に厚く威厳もある、そして自分を信じてくれる。そんな立派な主君に忠誠を捧げるのは、誰にでも簡単にできることよ。それができたからって褒められることじゃないわ。どうしようもない主君のために尽くすことこそが、真の忠誠というものでしょう? そうでなければ、愚かな者が王位についた時に国が亡ぶわ」
「そんなことを言う人は聞いたことがありません。それもワルブランド家の家訓なんですか?」
「いいえ、私の信条よ」
フォルテが引く様子を見せないので、ロマーノと将軍たちは、それ以上何も言えなかった。
「重い。これじゃ動けないわ」
ロマーノに手伝わせて鋼の鎧を身につけたフォルテだが、すぐにそれを脱いだ。
「でも、鎧を着ないと危険ですよ」
「動けない方がよっぽど危険でしょ。私には革製の服で充分よ」
フォルテはそう言ってクロスボウだけを携え、兵士たちの集まる場所に向かった。
城門前には、すでに五千人の兵士たちが集まっていた。全員が槍、もしくはクロスボウを装備した歩兵である。
常備兵よりも、にわかに徴集された者の方が多いので、ちゃんと指揮官の指示に従って動けるのかはあやしい。
ここ数十年は平和が続いていたので、彼らの中に実戦の経験がある者はいない。
しかも相手ははるかに大軍だということで、一様に不安な表情を浮かべている。
(これは気合を入れてやる必要があるわね)
フォルテは兵士たちの前に進み出た。
旗手に指名されたロマーノは、ワルブランド家の家紋である『盾』の意匠の旗を掲げてその隣に立つ。
「名誉あるワルブランド家の兵士たちよ、聞きなさい!」
フォルテは声を張り上げた。
「私は女だけど、あなたたちの誰よりも勇敢です。疑うなら、戦場での私の戦いぶりを見ていなさい。総司令官である私が先頭に立って戦うことを、今ここで宣言します!」
「何を言ってるんですか!?」
ロマーノが驚いて言った。「総司令官は後ろで控えているものでしょう! 最前線で戦うなんて危険すぎます!」
「大丈夫よ。あなたも旗手として私と一緒に最前線で戦うことになるから」
「大丈夫の意味がわかりません!」
「兵士たちよ!」
フォルテはロマーノを無視して続けた。「もし私が敵を前にして怖気づく様子を見せたなら、私を槍で突き殺しなさい! 臆病者にワルブランド家の領主を名乗る資格はないのだから!」
ムチャクチャなことを言っているようだが、これを聞いた兵士たちは奮い立った。
フォルテの気迫が乗り移ったかのように、その表情には闘志が浮かんでいる。
こういう時の演説は、威勢のいいことを言うのが正解なのだ。
「ワルブランド家は盾なり! 千の敵から王家を守る盾なり!」
フォルテは右腕を天に突きあげ、叫んだ。
「ワルブランド家は盾なり!! 千の敵から王家を守る盾なり!!」
五千人の兵士たちは、遠くまで響きわたる大声でそれに続いた。
ランサール家の大軍が見えてきた。
敵兵の顔を識別できるほど近づいたところで、フォルテは号令をかけた。
「全軍、突撃せよ!」
フォルテは宣言通り、先頭に立って三万の大軍に向かって突っ込んでいった。
ロマーノや兵士たちは、彼女に遅れないように必死で走る。
「待ってください閣下! あなたには恐怖という感情がないんですか!?」
もちろんそんなことはない。フォルテとて普通の人間だ。死ぬのは怖いに決まっている。
しかし、今は恐怖を忘れていた。
「敵! 敵! 向こうに敵が見えるでしょ! だったら殺さなきゃ!」
なぜなら、狂っているからだ。
武器を持って戦場に立ち、敵の姿を見たことで、異常な高揚感に包まれていた。脳内麻薬が出てハイになっているのかもしれない。
戦場に出ると狂う人間は、まれに存在する。
そして、真っ先に死ぬ。
「何を言ってるんですか! これじゃ殺す前に殺されます! あなたが死んだら、私たちは終わりなんですよ!」
大将が後ろに控えていなければならないのは、大将が死ねば全軍が総崩れとなり、負けてしまうからだ。
しかしフォルテは前に出て戦っている。
これは愚かな行動のようで、そうとも言い切れない。
兵士の士気が最も上がるのは、自分たちのリーダーが勇敢に戦っている姿を見た時なのは、間違いないからだ。
リーダーが最前線で戦って勇気を示すことは、どんな戦術よりも有効なのだ。
――死なないならば、だが。
「閣下に遅れるな!!」
「閣下を守れ!!」
「俺たちもワルブランド魂を見せるんだ!!」
狂気は伝染する。
兵士たちもフォルテと同じく、死の恐怖を忘れていた。
三万の敵に向かって、迷わず全速力で走っていった。
「な、なんだあいつらは!? 正面からぶつかるつもりか!?」
「数の差を理解してないのか!?」
「全員、目がイッてるぞ!」
ワルブランド家の兵士たちがものすごい形相で向かってくるのを見て、ランサール家の兵士たちは、気をのまれていた。
相手はどう見ても、狂っているようにしか見えない。
しかしワルブランド軍の中で、一人だけ狂っていない者がいた。
ロマーノである。
彼は旗手として、ワルブランド家の旗を持って走っている。敵の目標になりやすい危険な役目だ。
それでも彼は必死に恐怖をこらえて、フォルテについていく。敵はもう、すぐそこだ。
「閣下、クロスボウを持って接近戦をするつもりですか!? あなたの腕なら離れたところからでも敵を狙えるでしょう!」
「誰がもっともなことを言えと言った!」
フォルテは怒鳴りつけた。「そんなことを言うなんて、あなたはまだ正気でいるのね? とっとと狂いなさい!」
「その命令は聞けません!」
ロマーノも負けじと言い返す。「全員が狂ってしまったら、全員が死ぬまで戦い続けることになります! 私だけは正気のまま、あなたのそばにいます!」
それが最も勇気がいることかもしれない。
「よく言った! それじゃあ、絶対に私から離れないで!」
「はい!!」
そして、ついに敵軍と激突した。
フォルテは至近距離からクロスボウを撃ちまくる。
ロマーノはその隣で、旗を振り回す。
そして兵士たちは意味不明なことを叫びながら、笑顔で敵を殺していく。
「こいつら、狂ってやがる!」
「人間じゃねえ!」
「た、助けてくれえ!」
恐怖は伝染する。
ランサール家の兵士たちは戦意を失い、逃げることを考え始めた。
やがて、一人の兵士が背を向けて逃げ出した。
それに釣られるようにして、近くにいた兵士も逃げ出す。
それを見た兵士も逃げ出す。
こうなると、いくら大軍を擁していようが関係ない。戦いは、先に戦意を失った方が負けである。
「おまえら、逃げるんじゃない! 踏みとどまって戦え!」
ランサール公はなんとか兵士たちを鼓舞して戦わせようとしているが、従う兵士はいなかった。
「あいつが指揮官ね!」
馬上で踏みとどまって指示を出しているランサール公の姿は、目立っていた。
フォルテにとって格好の的だ。
クロスボウで狙いを定め、強力な一矢を放った。
ガキンという金属音とともに、フォルテの矢はランサール公の鎧を貫き、その胸に突き刺さった。
「うう……ワルブランド家……頭が……おかしい……」
ランサール公は絶命し、馬から落下した。
ランサール家の軍は潰走した。
逃げたランサール家の兵士たちは、この時の恐怖の体験を震えながら人に語った。「ワルブランド家は狂っている」と。
フォルテには『狂乱女公』という異名がついた。
ワルブランド家の兵士は『戦闘狂』と呼ばれるようになった。
―――
その後フォルテは王都を訪問し、王に謁見した。
「ワルブランド女公よ。ランサール家を撃ち破った功績、見事であった」
王は玉座からフォルテを見下ろし、褒めたたえた。
「はっ。光栄です」
フォルテは王の前で片ひざをつき、頭を下げた。ロマーノもその斜め後ろで、同じことをした。
「一応言っておくが、余は援軍を出すつもりだったのだぞ」
「そうなのですか?」
「私が陛下に強くお願いしましたからね、ワルブランド家を見捨てないでくださいと」
弟のピアニーが、声をかけてきた。彼は王に寄り添うように立っている。
「久しぶりね、ピアニー。少し太ったんじゃないの?」
「ここは食べ物が美味しいですから」
「ピアニーは余の従者の役目を、しっかりとこなしてくれておるぞ。まことにワルブランド家の血筋には優秀な者が多いな」
(そういえば、ピアニーは従者ということになってるんだっけ)
ピアニーは男なのだから結婚などできるわけがないし、愛人だと公言するのもはばかられたのだろう。
もっとも、王がそういう趣味を持っていることは、今では誰もが知っているのだが。
「弟がしっかりと役目を果たしているならば、ワルブランド家の領主として誇りに思います」
そう言うとフォルテは、今度はピアニーに向かって言った。
「本来なら、男であるあなたが領主になるはずだったんですけどね」
「嫌ですよ。そうなると跡継ぎを儲けるために、女性の相手をしなきゃならなくなるじゃないですか」
「それでも陛下は亡き王妃との間に、三人の子を儲けていらっしゃるのですよ。あなたとは違い、しっかりと王の義務を果たしておられます」
(子供を産むためだけの存在だった王妃は気の毒だったけれどね。私は陛下と結婚させられなくて本当に良かったわ。女に興味のない男と一生を添い遂げるなんて、想像したくもないもの)
だからフォルテは、婚約を破棄した王を恨んでいないのである。
王は人から後ろ指を指されることを覚悟の上で、偽装の結婚はせずに、男であるピアニーをそばに置いた。
勇気のある行動であり、フォルテに対しても誠意を示したとは言えるだろう。
「ワルブランド女公も、結婚して子をつくらねばならんな」
王が言った。「王族の中から適当な者を見つくろってもよいが」
「そのことで陛下にお願いがございます」
「なんだ?」
「この男はロマーノ、私の従者をしております」
フォルテは後ろに控えているロマーノを紹介した。「ランサール家との戦いにおいては、誰よりも勇敢に戦っておりました」
「ほう、それはたいしたものだ」
「そこで、陛下からロマーノに褒美を与えてやっていただきたいのです」
「余から褒美を? どんな褒美だ?」
「爵位を与えてやってください」
「構わぬが、なぜ爵位を?」
「それは――」
フォルテは後ろを振り返って言った。「せめて貴族にはなってもらわないと、私と結婚するには身分が釣り合わないからです」
常に冷静なロマーノが、恥ずかしそうに顔を伏せた。
―――
『狂乱女公』と呼ばれたフォルテは、七十八歳で亡くなるまで領主を務め、領地を発展させた。
六十年にもわたる長い治世の間には、何度も戦争があった。
そのたびにフォルテは先頭に立ち、狂いながら戦ったが、不思議と命を落とすことはなかった。
冷静なロマーノが、いつも隣にいたからかもしれない。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
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