獣のような王子
女が目の前で死ぬ。
俺に手を伸ばして。最後まで庇おうと手を伸ばし…真っ赤になり死んでいく。
その瞬間に怒りが浮かび血が沸騰した。全てに怒りを抱いた。大地にも海にも全ての生き物にも。神にでさえ怒り絶望した。
押さえつけられたまま腹から声を出す。未だかつて出したことの無いほどの声量だ。周りにいる奴らが目を見開き、肩を跳ねさせる。
視界の端で俺を見て笑う男がいる。やっと俺はわかったんだ。
──────全ての元凶がそいつであると。そして自分の中に流れる王の血の理由。
ああ、世界が憎い。男が憎い。目の前の全てが、目に見えない全てが憎く、恨めしく。
「全て…例外なく死にやがれっ」
子だろうが親だろうがなんだろうが全員死ね。滅びろ。あいつを俺から奪ったお前らを許さねぇ。俺から奪った世界を許さねぇ。
───────あの瞬間。
確かに世界は滅んだ。王であった俺の怒りによって。人であろうが、化け物であろうが土地であろうが海であろうが命がなかろうが全て例外なく滅んだ。
「……はず、なんだがなぁ」
目の前の光景を机に右肘をつき、右手のひらに顎を置き体を預けながらゆっくりと瞬きをする。
目の前には幼い海色の髪に春を思わせる少しピンクがかったオレンジの瞳の少女がいる。
加えて言うなら俺は今十二歳である。
王の血を表す青金の髪に真っ赤な燃えるような瞳の俺は王じゃなく王子として今頬杖をついている。
「なぁ」
ビクッと肩を跳ねさせ震える小さな女に思わず口からポロッと零れた。
「帰ってくんね?」
「え?」
目の前で死んだ女と同じ色したこいつがただ似ているだけなはずもなく、俺が生まれ変わった訳でもないだろう。
間違いなく、時間が巻き戻っている。
間違いなく、こいつは俺の妻だった女だ。
「親父の方には俺から言っとくから帰れお前」
「ヴィリック王子!?何を仰っているのですか!」
態度が悪い、口が悪い、未来のお后様になんと失礼な!と叫ぶ乳母に目をゆっくりと向ける。
「ついでにお前も帰れ、ガーラ」
「えっ?」
乳母が固まる。揃いも揃って目の前で固まるこいつらにため息をこぼす。
「言わねぇとわかんねぇか? ガーラ今日限りで、解雇だ」
「乳母を解雇って聞いたことないんですが…」
婚約破棄ならまだしも乳母をクビって…と思わず呟く女にゆっくりと微笑む。
「とっとと出てってくんね?」
唯一の王子である俺の言葉を覆せるのは王のみだ。王妃はもう既に亡く、我が子のように育てた乳母に恨みなどないが居てもらっては困る。
部屋を出ていく瞬間不意に女が振り返るとピンクの入ったオレンジの瞳がゆっくりと瞬いた。
さっきまで震えていたのは俺の婚約者になるのが嫌だったからかとアタリをつけて誰もいなくなった部屋で舌打ちをする。
「めんどくせーが感謝してやるよ神様とやら」
一度は奪われた。
本心を口にすることなく、いつの間にか向けられていた好意があいつを殺した。
『愛しています…ヴィリック様』
剣に貫かれ血を吐き微笑んだあいつ。それが幼くなり目の前で震えていた。未来で王を守って死んだ者になるとは到底思えはしない。
「生きている…!」
ならばもう奪われる道理などありはしない。ならばもうあの男を野放しにはしない。
「確実に息の根を止めてやる」
その為に邪魔なものは全て捨てていこう。
「…ヴィリック殿下、国王陛下がお呼びです」
「わかったと伝えてくれ」
思わず笑いが出る。前回の名残が残っているのか血が沸騰するように体が熱い。それでも今この血を制御できている事にほっとする。
もう、暴走なんてもったいねぇことすっかよ。まずはこの血を物にする。
国王の私室に通される。困り顔の親父が俺を見据える。その隣にある顔を見て殺意がつい口から出そうになる。
「一体どうしたんだ、ヴィル」
「なんでもない、要らねぇもんは要らねぇ」
「お前にもう母はいないのだ、母の役割をする者がいた方が良いだろう?それに婚約者も、もうお前も十二で、遅すぎる位だぞ」
思わず歯を剥き出しにして笑う。無礼とかどうでもいい。俺の親父は少しも気づいていなかったのだとこの目を見て分かる。
「俺、五年くれぇちょっと国から出てくわ」
「……は?」
親父が頬を引き攣らせる。隣に立っている男もかすかに目を見開く。それが可笑しくて目を細める。
「国に居ねぇやつに乳母がいるか?」
「ヴィル!?」
「婚約者だって必要ねぇだろう?」
だから要らねぇんだよ。弱い俺に守るすべなんかねぇ。
なら抱え込まず放り出しちまった方がいい。弱みだとバレるよりはずっとそっちの方がいい。
「この血に誓うぞ、親父」
「その口の悪さを直せ…と言うだけ無駄か」
「俺は記憶力が良かったもんでねぇ?母上の記憶はちゃんとあんだわ」
「なんでリーヴィのことは母上で私の事は親父と呼ぶんだほんとに…まぁ、ヴィル…いやヴィリック・グリオン」
親父がなんとも言えない視線を向けた後目を伏せて瞼を上げた時にはそれも無くなっている。
俺と同じような燃える目に俺は思わず笑みを浮かべた。言葉選びは間違えてなかったらしい、そして優しすぎる王と呼ばれる親父にも間違いなく血が濃く入っている。
「本当に血に誓うのだな?」
「違う気はない、五年、音沙汰がねぇだろうがほっといてくれよ親父」
深い溜息と共に好きにしろと虫を払うように手を振られる。
「宝物庫の剣、借りていいか?」
「好きにしてくれ、お供はつけぬからな」
「さすが親父!分かってるな!」
「分かりたくはなかったが仕方なかろう…お前は私の子なのだから」
親父の横に経つ男を最後に見る。
剣聖と呼ばれ近衛騎士団、団長アレル・ザナド。未来で俺を裏切った男。
──────ぶっ殺してやる。
そう決めたのだ。
─────────────
───────
ヴィリック・グリオン
グリオン王国の唯一の王子。第一王位継承者。
人はかの王子を獣のようだと言った。歯を剥き出しにするような凶悪な笑みに、首元に噛み付いてきそうな程に獰猛な炎の瞳。
美しい見た目に反して作られる表情は下品で、苛烈で、恐ろしい。
頭も良かった。皆が左を正しいと情報を読みといて選んだ結果に簡単に否と答え、右を指さすように。
彼は簡単にその獣のような笑みを浮かべ人の上に行くのが当たり前のように行動した。適当の様で的確に選び、行動する。
常人の考えではそれを理解することすら叶わないほどに、確かに彼は天才だった。
だからこそ、あの日私は彼が恐ろしく、彼と結婚しなければいけないという考えに震えていた。
私に才能はない。平凡で、特に欲もなくただ平和な日常を望んでいた。穏やかな両親に育てられ、領民とも良好な関係を持てていた。私には才能がなかった。お父様のような円滑に領地を回す才能も。お母様のように夫を守り陰ながら支える才能も。
唯一の誇りは領地にある海のように美しい髪と他に同じ色がないピンクがかったオレンジの瞳だけ。両親から受け継いだ美しい顔に珍しい色というのが私の唯一の特別なもの。
一人いる弟は幼いながらも頭の良さをもう見せてきていた。あの子がいればきっと領地は安定し、きっとあの子の血を引く子は優秀に違いない。
私は領地に必要がなかった。あってもなくても変わらない存在だった。両親は愛してくれるけれど、それに応えるものが何一つなく、できることといえば、嫁ぎ、縁を繋ぐことのみ。
とはいえ、獣の様だと言われるものの才能に溢れた王子の婚約者として選ばれるとは思わなかった。
そして彼に帰れと遠回しに結婚を拒否られてそこで私はもう何の役にも経つことが出来ないのだと気づいた。
王子に拒否られた私を誰が娶ると言うのか。天才である彼が。幼い頃から王になるべくして生まれたようだと言われる彼が拒否った私を。
結婚する恐怖を逃れた安堵。そしてその先にある恐怖に気づいて血の気が引いた。固まっているうちに彼は苦言を呈する乳母に解雇を宣言した。
王子の乳母に選ばれるということは王から信頼されている証。無防備な幼い王子を近くで守ることを許されたということだ。そして乳母であるガーラ様はその仕事を全うしたからこそ王子の今がある。
だと言うのに彼は当たり前のように解雇を口にした。思わずそれに対して言葉をこぼしてしまったけれど彼はそれすら眼中に無いのかとくになにか言葉を返してくれることもなかった。
十二歳の王子でありながら既に王の風格を見せるヴィリック様。
もう何も出来ないのだと諦め、両親に心の中で謝罪しながら扉がゆっくりと閉まる中初めてそこでヴィリック様を見た。
美しかった。
バランスがいい配分だ。獣のようと呼ばれるほど切れ長で鋭い瞳に燃えるような赤がよく似合い、美しい青金の髪が燃えた空気を表しているかのようで形のいい口は反して獰猛な笑みを浮かべていた。
確かに獣のような人だ。美しい神獣のような人だ。
初めて正面から見て、たった今婚約破棄されたにもかかわらず。扉が締まり切るまで失礼という考えもなく瞬きすら忘れ彼を見た。
そして扉がしまったその瞬間に自覚した。
泣きそうなのを隠し私を慰めようとするヴィリック様の元乳母の言葉を理解する考えすら浮かばず。
ただ、理解してしまった。
ああ、この人がたまらなく愛おしいと。
そして扉が閉まるその瞬間にヴィリック様の瞳に浮かんだ悲しみに胸が締め付けられて。
「…あんまりだわっ」
不敬だとか、浮かばずに勝手に零れた涙と共に言葉をはき出す。あんまりだ。なんて、なんて酷い。
取り乱す私をガーラ様が抱き締めてくださるけどそれどころでもなく。
ただ私を手放した癖にそれに傷付くように目に悲しみを乗せた彼にただ恨み言を吐くしか無かった。
──涙を浮かべ抱きしめる両親に私は申し訳なさしか出てこなかった。
婚約者になれなかったからでは無い。
もう誰にも嫁ぎ愛することなど出来そうにもなかった。
私の中心はもうあの獣のような王子で染まってしまったのだ。
─────その次の日王子が旅に出たと聞いた。それほどまでに私との結婚が嫌だったのかと傷つく自分に心底呆れたのを今でも覚えている。
…あれから五年の時が流れた。未だに私への婚約の話は一切ない。当然すぎる結果にいっそ笑いすら出ないものだ。成長した弟は確かにその優秀さを花開かせた。王子から婚約破棄された私と同じ歳になっている弟はやはり頭が良い。
腫れ物を扱うような周りの態度にも慣れた。久しぶりに王城のパーティーにお呼ばれし気まずい気持ちになる。王城に上がるのは婚約破棄された日以来だ。私を着飾るメイドの目に哀れみが浮かんでいた。
そう王子…ヴィリック様から拒否られた日以来だ。
「お美しいです、お嬢様」
もう十六となった。同年代の貴族の娘はもう結婚している者の方が圧倒的に多い。少なくとも婚約者すらいないのは余程噂の悪い娘くらいなものだろう。
…なぜ今更という気持ちが浮かんだ。そしてまたヴィリック様に会えるかもと心が踊るのに泣きそうになる。
報われはしないというのに。
王城のパーティーはとても華やかだ。招待されたのは私だけだったけど、エスコート役で弟が付き添うことは許された。
「姉様、どうかしましたか?」
「…いいえ、なんでもないわ」
私よりまだ背の低い弟にエスコートされながら勝手に視線があの美しい方を探している。
つくづく諦めの悪い。
「…あら?」
だから異変に気付いたのは私だけだった。目が妙に殺気立った執事がいた。
何故だろう。こんなにも華やかだと言うのに?
国王陛下がそのタイミングで登場する。そして私へ歩み寄ってくださる記憶よりもお歳を召された国王陛下に視線を下げドレスをつまんで挨拶をする。
「美しくなったな! エレノア嬢」
「お久しぶりでございます、国王陛下。陛下にそのように言って頂ける事、とても光栄でございます」
「よいよい! そんな畏まらんでも、私とエレノア嬢の仲ではないか」
どんな仲なんでしょうか?息子の元婚約者以外にない気もする。
「君には話したいことがあってだな…実は…」
陛下の話を聞き返事をしつつ、頭は別のことを考える。私と陛下の話に耳を傾ける貴族たち。そして先程の変な目をしていた執事。
そういえばなぜ陛下は私に話しかけに来れたのだろう。周りには誰もいないが、王城のパーティーはこういうものなのだろうか。
「…国王陛下、とても楽しいお話の中申し訳ないのですが」
「なんだい?」
「田舎者故、失礼かもしれませんが、お聞きしたいのです…近衛騎士様方はお連れでないのですか?」
「会場に居はするが、私も周りにずっと居られても気が滅入る…今日は特別なのだよ」
ニコニコと笑う陛下に背に汗が流れた感覚がした。指先が冷えて行くのがわかる。隣にいる弟が心配そうに見上げ陛下も心配してくださっている様子を見せる。
…執事が居たのだ。殺気立った目をした。それが偶然ではないのなら。その視線の先にこのお方がいらしたのなら。
「国王陛下、先程…」
忠告をしようとして口を開いた。それに勘づいたのか視界の端で陛下に向かって走ってくる執事が見えた。手にはナイフのようなものを持っている。人波の中を騎士達が取り抑えようと動いた。けれど貴族の壁が妙に厚い。
まるで騎士を動かさないかのように厚い。そして悲鳴をあげ、固まるものだから余計に壁のようになる。
血相を変えて叫ぶ騎士がいた。悲鳴が華やかなパーティーの中響く。
思わず両手を広げ陛下と弟の前に立つ。
陛下は随分歳をとられた。この方に避けることを望むのは無理だろう。かと言って悲鳴をあげ、陛下の背に隠れるわけにはいかないし、才溢れる弟に盾になってもらうのもありえない。
なら、そうする他ないだろうと諦めた。
何がどうなっているのかは全く分からないけれど、ただできるのはこれくらいだ。
「邪魔を……!」
刃を冷静に見ていた。よけて後ろの二人を狙われても困るから目を閉じることすらせず。恐怖もあった。残念だなとも思っていた。
でもそれは死ぬ事ではなく。
もう一度あの人にお会いすることが出来ないことが残念なのだと分かっていた。
────もう少しで刃が私の首を切りつけるだろうその瞬間に壁ができた。
…いや、壁のように背の高い人が私と執事の間に立った。
「間に合ったか」
低く安堵する声だった。どうやってあの貴族の壁を越えたのか不思議で仕方なかったが、耳障りの良い声に思わず顔を上げて、目の前の人を見上げる。
美しい青金の髪だ。まるで炎に燃える空気のような。
…五年前、同じ感想を抱いた。
それは、恨めしながらも愛してしまった人に。
「ヴィリック様…?」
執事からナイフを取り上げ蹴りつけ転がして振り返る彼に目を見開く。なんで、どうして。
「なるほどな、こーなんのか俺が帰ってくるタイミングを狙うあたり流石としか言いようがねぇな?」
獣のような笑みだ。歯を剥き出しに貴族…ましてや王族のするような表情ではない。言葉遣いも荒く酷いものだと思う。
けれど美しすぎるこの人に何故だかそれがよく似合っている。
「久しぶりだな、エレノア?」
名前を呼ばれるだけでこんなに体が熱くなるなんて知らなかった。死を覚悟し生よりも会えないことに残念な気持ちになったのに。
その会いたいと思っていた人に守られるだなんて。
あんなに適当に婚約破棄されたのに。した人にこんなに心がザワつくなんて。
「親父も無事か? はは!女に守られるとか年取ったな!」
「それが久々に会う実の父に向ける言葉か?」
軽口を叩くヴィリック様から目が離せない。やめるように弟が手を引くけど。それでも再確認してしまった。
この人しか私は愛せない。
「一週間遅刻しちまって悪かったな親父」
「だからな? 口の悪さをな? どうにか出来なかったのか!?」
痛みに悶えながらも執事が立ち上がるそして再び殺意を載せた視線を向け、何かを懐から出す…それは禍々しい何かの黒い塊。
騎士達がやっと貴族の壁を越えた。でもそれは既に遅かった。
「魔獣の卵か」
冷静なヴィリック様の言葉に理解し、黒い何かが分かる。ああ。確かにそれは魔獣の卵と言われたらしっくりくる見た目をしていた。そしてそれを取り押さえる前に執事は飲み込んだ。
一気に寒気がして腕を摩る。
「…がひゅ…はは、」
執事が笑い出す。
抑えられたままに。
「はははははっ死ね!死んでしまえ!!」
慌てて口を抑えた騎士の手を噛みちぎって血が飛んだ。あまりの光景にきゅっと喉が締まる。悲鳴をあげられなかった私の代わりに貴族たちが悲鳴をあげ、我先にと逃げていく。
忠誠心というものをもちあわせていなかったらしい。陛下よりも先に逃げるあたりすごいとは思うけれど。確かに死ぬのは嫌だろうなと他人事のように見送る。
いつの間にか陛下が私の前に出ようとするけどそれを私は首を振って止める。
「姉様っ」
私のドレスにしがみつく弟の手が震えていた。
いつの間にか隣に立っていたヴィリック様を見上げて見上げたことを後悔する。
…燃えるような赤とは言うけれど、本当に燃えてるような瞳だった。視線だけで誰か殺せそう。
そんな人が隣にいるからか少しも怖くはない。
「ぐっぁぁ!!」
押さえつけていた騎士を振り払い執事が立ち上がる。そういえば近衛騎士団長は何処にいるのだろう。騎士の中にはいなそうだけど。
執事の肉を破るように中からそれは姿を現した。酷い匂いのするそれは醜悪という言葉ですら表すのが難しいほど醜い。
「ふん、魔獣というより悪魔だなもはや」
たしかに、そちらの方がしっくりくる風貌だ。
「どうするつもりなのですか?」
「簡単だろ?」
「そうですか? 私は少しも浮かびません」
「分かってる目をしてるように見えるが」
どうするつもりなのかは分かりはしないけど結果は分かる。
この人が負けるはずが無いと確信している。
ヴィリック様が笑う。獣のように歯を剥き出しにして。
「親父、五年間有意義だったぜ」
「…それは良かったな」
「勘づいてるからこそ選んだ癖にすっとぼけんなよ」
「なんのことやら」
耳障りな雄叫びを上げて化け物がこちらに走ってくる。それにヴィリック様は感極まる様に前に出た。
寒さが消え、代わりに茹だるような暑さが来る。寒暖差に体を壊しそうだわと他人事のように息を吐き出し、ヴィリック様を見て固まる。
気の所為かしら、ヴィリック様が踏んだ床溶けているように見えるのだけれど。
まるで真っ赤に熱されたような床がどろりと足跡の形に燃える。その割に靴が解けていないのが不思議だ。
「やっと…やっとだ」
「?」
ヴィリック様が何かを言っている。
「やっと……あいつを殺せる!」
物騒な言葉だった。あいつとは誰なのか。目の前の化け物では無いことは確かだろう。
燃えた空気のようだと感想を抱いた髪が文字通り熱された空気に踊る。酷い暑さにやられそうになるけど恐怖は少しもわかない。腰に抱きつく弟と周りで腰を抜かしている騎士達は別のようだけど。
化け物が怖気付いた様にたじろく。
ヴィリック様の背中に気の所為かしらなんか翼が生えてる気がするんだけれど。髪と同じ色の爬虫類のような質感の…よく見たら角も生えてる気がするのだけれど。
あら、気の所為かしら。
獣のようなと言うよりあれではまるで────ドラゴンのよう。
「獣の王子ではなくドラゴン王子だったのね、なるほど」
「姉様不敬どころじゃない発言を国王陛下の前で言うのはさすがにやめて置いて欲しかったんだけど」
優秀な弟に文句を言われ、大人しく謝罪した。引きつった笑いの陛下に許されたので満足する。
さてどうなったかなと再び視線を戻せば。さもありなん。化け物がヴィリック様に胸を貫かれ殺されていた。
冷静に観察しておいて今更な感じはあるけど、とても淑女が見ていい光景ではないわね。
ガタッと物音がする。ホールを出ていく背中は恐らく近衛騎士団長のものだろう。
直ぐにヴィリック様がそちらに飛んでいくのを見てなるほどと納得した。
あいつというのはあいつか。
もはやなんの感想も抱かずに扉の向こうで殺される近衛騎士団長にそっと祈りを捧げた。
「来世ではまともで産まれますように」
「姉様!?」
静まり返ったホールによく響いたらしい。視線を集めてしまった。
コツコツと足音を立て、血だらけになった袖をまくりながらヴィリック様が戻ってくる。翼は消えていたし、角も消えていた。綺麗な顔には血がついていたけど、私と視線が合うと歯を剥き出しにして笑う。うん、すごい恐怖を誘う様子だとは思うのだけど胸が高鳴るあたりもう末期なのだと思う。
「エレノア」
「…なんですか?」
「お前婚約者できたか?」
「…どこかの王子に婚約破棄されたものですので、できる機会には恵まれなかったですわね」
「ふむ、なるほど、予想はしていたが」
予想しておきながら婚約破棄したのかと神経を疑いつつ溜息をこぼし真っ直ぐとヴィリック様を見上げれば彼も私を見ていた。
真っ赤な炎のような瞳が細められ歯をむき出すのではなく柔らかく笑ってみせるヴィリック様に驚く。随分と王子らしい笑みを浮かべている。というかできたのね。そんな笑みも。
「じゃあ問題ないな?」
「はい?」
抱き寄せられ腰を掴まれる機嫌の良さそうな獣じみた笑みを浮かべるヴィリック様に柔らかな笑みよりもこちらの方が似合うと思うあたりだいぶ毒されている。
「結婚してくれ」
「…………はい??」
「ありがとうな!」
「いや、今のは肯定ではなく…」
婚約破棄をして来たのはそっちだと言うのに。愛したことを自覚した瞬間に失恋した昔を思い出し少しイラつくが目の前で楽しげに笑うこの人を今更手放せるかと聞かられたらできるはずもない。
周りを見回すと唖然としている騎士たちと頭を抱えている弟と陛下がいた。うん、なんというか全然ロマンチックなものでもない。でも五年前から抱いていた愛が報われたのだと思えばそんなことも気にならない。
「とりあえず結婚するのはいいですが、次から血が着いていない手で抱き寄せていただけますか?ドレスが血だらけです」
「ふむ、そうか、悪かったな」
「あと凡人な私には考えがつかないので行動する時に教えていただけると助かります」
「凡人?」
「ええ」
「変な事言うな?」
「よく分かりませんが貴方に言われたくありません」
なるほどと納得した様子のヴィリック様を見上げゆっくりと微笑む。
「愛しておりますヴィリック様」
「知っている」
「……そういう所本当に治した方がいいと思います」
「善処しよう…まぁ、お前より俺の方が愛している自信はあるがな」
「聞き捨てなりませんね?」
「怒るのか、そこで」
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美しすぎる獣のような王子ヴィリック・グリオン。そしてその隣に微笑む美しい伯爵令嬢エレノア。
二人の式は王子が王太子となった日に行われた。近衛騎士団長が国王陛下を暗殺しようとしていた事は近衛騎士団長の私室にあった隠し部屋の日記から分かった。
二人に一人の子が生まれたころ国王陛下はその地位をヴィリックに渡した。
ヴィリックの逸話はその後にも継がれている。曰く、ドラゴンの翼と角を持つ。曰く、婚約破棄をした相手に血だらけで求婚した。曰く、魔獣の森で五年間生活していた。曰く戦争を一人で終わらしたと。
そして一番よく知られていたことはエレノア王妃を心から愛していたことだった。
読んでくださりありがとうございました!
ちなみにエレノアが死んだ世界線では旅へ出ることは無いですし、ヴィリックが十七の時に王は崩御しています。
乳母は十八の頃に亡くなり、十九で近衛騎士団長に裏切られエレノアが死にます。
天才であったヴィリックは天才故に周りに興味がなく、目の前でエレノアが死んだ時初めて怒りを抱きました。
では、また機会がありましたらお会い致しましょう。