武器
人には慣れという習性がある。未経験の行動でも繰り返せば当然となるという事だ。
それは一度だけの体験であろうと発動し、ましてや十度も繰り返せば否が応でも慣れが生じる。
人を傷つけるという理性に反する行為。しかしその理性という壁は一度傷付けられてしまえばあまりにも容易く崩壊する。
刑務所がいい例だ。一度も犯罪を犯したことのない人間は誰もが法を遵守する。しかし一度罪を犯し、刑務所に入った犯罪者は再犯を繰り返す。
そしてその光景を日常的に目にすることにより、自分だけではないと思い、理性が知らず知らずのうちに崩れていく。
更にその慣れを利用した一つのテクニックがある。可能な限り、自分の要求を幾度も分割して相手に課すのだ。最初は小さい要求。しかし徐々にエスカレートさせれば、殺人をも犯させることが可能となる。
まったく人の心とは面白い。上手く操れば恰も楽器のように思い通りに動かせる。
「ヒトラーさん、これ……」
怖ず怖ずと渡された結構な束のプリント。これは……。
「……過去の討論会の質疑応答か?」
「うん、ここ数年のものだけだし、簡潔にまとめたものだから役立つかはわからないけど」
「いや、充分すぎるほどだ。そしてこの量に対して内容の質、これは武器と言っても差し支えないだろう」
私の言葉に面映い表情を浮かべたレイモンドは緊張から若干震えていた。
「どうした? そんなに緊張するほどのことか?」
「いや、いらないって言われそうで……」
「心外だな。私は訓練生の規則を新聞記者に求めるほど酷ではないし、人の好意を無碍に出来るほど恥知らずでもない」
「頭ではわかってるんだけどね。ただちょっと、最近のヒトラーさんを見てると、不安になることがあって」
不安、か。果たして本心か、将又言葉を濁したのか。
「明日の討論会、何か策はあるの?」
「策という程でもないが、私の武器は演説だ。今も昔もな」
「……遅いな。宗教で偉くなると時間にもルーズになるのか?」
「彼は毎度遅刻することで有名ですから。もう少し待ちましょう」
「私が元首になった暁には遅刻を禁じてやる」
一つの机を挟み、私を眺めるジェンキンスの様は、以前会った時のようなたどたどしさから一転、威風堂々としたものに変わっている。どうやら向こうも準備万端らしい。
「それにしてもまさか貴方が立候補するとは思いませんでした。演説台に立った貴方を見た時は棍棒で殴られたかのような衝撃でしたよ」
「”今は”と言ったはずだが? それに大して驚いてもないだろう? しっかりと対策してきているようだしな」
「対策とは?」
「とぼけるな。君の後方に立っている連中のことだ。それが噂の魔導師団というやつか?」
「よくご存知で」
何かあれば私を殺す、という訳ではあるまい。そんなことをすれば支持率がガタ落ちだ。
恐らくこれは力の誇示。権力を示すには大多数の人間を引き連れて歩く方が手っ取り早いからな。
ジェンキンスが考えたものではあるまい。察するに誰かの入れ知恵。更に言えば支持率二位のサドラ・マシェリ。
宗教で上り詰めるということはそれなり以上に人を洗脳する術を知っているということ。そしてこの遅刻。
ただの寝坊や、怠慢ではない。敢えて遅刻することで自身の力を誇示しているのだ。私は待たせる側の人間であると。
私の仮説が正しければこの二人は既に手を結んでいるということになる。
街頭調査では私の支持率は既にサドラを抜いて二位に躍り出ている。このままいけば一位を勝ち取るのも時間の問題だろう。だがもしサドラが当選を諦め、ジェンキンスに付いたとしたら――
「遅れて申し訳ない。如何せん朝に弱くてね」
上から下まで白一色の衣服。如何にもな風貌だな。
「問題ありませんよ」
「予定はずれるのが常。大切なのはその後の対応だ」
遅刻を意欲なしと叱咤することもできるが、ジェンキンスが擁護した以上悪手か。態々相手に手を組む理由を作る必要もあるまい。
「では揃いましたし始めましょうか」
率先し場を動かすことによりリーダーシップをアピールする作戦か。確かに効果的な上、今私が主導権を得ようとすれば出しゃばりすぎだと叩かれかねんな。
そして何よりこの次が問題だ。出来ることならばサドラ・マシェリとは敵対したくはないが――
「では早速、私サドラ・マシェリからアドルフ・ヒトラー殿へ質問する」
――だろうな。




