土堰堤の死者 ~妖しき盲目の少女・風杏尼僧~
一、
「しかし、案外頼んではみるもんだなあ。まさか君がこうして、首を縦に振ってくれるとは思わなかったよ」
先ごろ見事に解決した、翡翠ヶ丘の事件をもとにした伝記小説――というよりは記録小説といったほうが良さそうなのだろうが――の初稿が本人の赤入れから戻ってきたのを受け取ると、私は向かいに座った若き盟友・山藤悠一の満足そうな顔を見て、一安心した。
件の事件が収束して早や三か月。夏の強烈な日差しはすでに鳴りを潜め、シャツの裾から潜り込む風がだんだん秋めいてくるころ合いに再び上京を果たした私は、完成した原稿の修正などをするべく、彼をひっぱって銀座の中でも一番安い喫茶店でとぐろを巻いていた。
「じゃあ先生、ほとんどバクチみたいなノリで僕へ話を振ったんですか」
ぬるくなったコーヒーを飲もうとしたところへ、山藤悠一がむっとした顔で尋ねてくる。
「ハハハ、まあ、そうとも言うね。しかし、第三高校の一件以来、ずっと君のことが気にかかってはいたから、遅かれ早かれ君に取材交渉はしていたかもしれないよ。――それがたまたま、今度の事件のときだった、というわけさ」
もののついでに、なにせ君はこのご時世に珍しいくらいの名探偵だからねえ、と付け加えると、彼は恥ずかしそうに頬を赤らめながら、評判だけが先歩きしてしまって……と人差し指で耳の後ろ側を掻く。
「あ、そうそう。少し前に解決した事件のこと、よかったらお話しましょうか。そんなに長いものではありませんが……」
「――おや、それはありがたい」
渡りに船とばかりに、鞄に放り込んであったテープレコーダーを取り出し、テープの残りが十分にあるのを確かめると、私は録音スイッチを押し、大学ノートへペンを走らせながら、山藤悠一の話に耳を傾けたのだった。
二、
「どうしたもんですかね、これから……」
「宿に帰って寝ようぜ。昨日は先生の書いた新作のゲラを読んでて、遅くまで起きてたから……」
「あれ、チェックする意味あるんですか」
「大ありだよ。ぼくらの伝記作家氏が、間違いを書きたくないというから、細部のチェックをしないとな」
「ようやるわい……」
会話の主二人の正体は、山藤悠一とその相棒、猫目大作である。二人はゴムボートにのって魚釣りに興じていた。ところが、いっこうに釣果は獲られず、時間ばかりが過ぎてゆき、乗り気でなかった悠一は釣りざおをしまい横になっていた。猫目の方は渋とくさおを握り、魚が来ないかとずっと水面を睨んでいた。夏の夕方、夕日が西の方角に光っていた。
七月の末に解決した霞が関の某重大事件ののち、二人は休暇をとって新潟県T市の山間部にあるA坂という集落へ静養に来ていた。 二人が今いるのは、T市の中心部へ下る道中の池だ。地図を見ると「朝日ヶ池」という名前があるが、地元の人間は「堰堤」と呼んで池の周りの道を朝夕の散歩コースにしている。
「堰堤」は鉄道会社の発電所へ水を供給するための調整池、一種のダムの役割を持っている。池の端には鉄骨造りの水門の操作施設があり、午前と午後の二回、下流の信濃川に水を送っている。堰堤を囲む道の山側に、二人の宿泊先である民宿「あさひや」があり、二人はそこの主人から釣り道具やゴムボートを借りたのだ。
「あの親父、ウソついたな……」
「おいおい、短気を起こすなよ。自然というのはそういうもんだ」
「あーあ、やめたやめた。宿に帰って風呂にでも入りましょう」
「そしたら夕食まで、碁でも指すかねえ」
山藤悠一はムクッと起き上がり、オールを手にした。穏やかな湖面に波紋が広がり、ゆっくりと消えてゆく。
船着き場につくと、二人はゴムボートを持ち上げ、坂道をのぼった。坂を越えると、「あさひや」の玄関先で主人がほうきをせっせと動かしていた。
「おかえりなさい。どうでしたか」
五十過ぎの主人が禿頭を光らせながら尋ねた。
「全然釣れませんでした。まあ、自然が相手じゃ仕方ないですね」
「妙ですなあ」
猫目の言葉に、主人は納得がいかないといった顔をした。
「おとといの朝に釣りに行ったときは、大量だったんですけどねえ」
「本当ですか、それ」
猫目が怪訝そうな顔をしたので、主人はむっとして言った。
「ウソではありませんよ。お二人がおとといの夕方から今朝までにお食べになったお料理には、堰堤で釣った魚が使われているんですから」
「そういや、魚の煮しめや煮つけ、佃煮があったっけ」
「猫目、あれが川魚だって気付かなかったのか」
「あんまり気にせず食べてたから……」
「まったく、呆れたやつだなあ」
山藤悠一は相棒の無頓着ぶりに顔をしかめる。
「まあ、いいじゃないか。釣れないときもあるだろうさ。ご主人、釣り道具ありがとうございました。風呂に入りたいんですが、支度は出来てますか」
「ええ、出来てますよ。お食事は昨日と同じ時間でよろしゅうございますか」
「お願いします」
玄関わきの物置に釣り道具を置くと、二人は主人の後について、部屋へ風呂の支度をしに向かった。「あさひや」の風呂場は玄関を入って左へ進んだ斜面にある。十畳程の湯船に六畳のちいさな洗い場がついた簡素な作りで、山藤悠一はその雰囲気がたいそう気に入っていた。
「むかし、親父に連れられて群馬の温泉に行ったんだが、ここと雰囲気がそっくりだったなあ」
「群馬の温泉というと、水上温泉ですか」
「うん。名前は忘れたが、川沿いにある小さな旅館だった。まだ雪の残る三月の中ごろだったなあ」
「残念、雪はまだまだ先ですよ。――ときに、そこは混浴だったんスか」
「あいにくとここみたいに、男女一緒じゃなかったんだ。ま、そういう邪な期待はしないことだな」
「ハハハ、ばれてましたか……」
猫目は湯船から上がると、洗面器と椅子をとり、体を洗いだした。猫目が持ち掛けた通り、この旅籠の湯舟は、申し訳程度に脱衣所だけが分かれている混浴風呂であった。
「探偵長、あんまり長く浸かってるとのぼせますよ」
背中の泡を落としながら、深々と顎まで使っている山藤悠一を猫目がたしなめる。
「大丈夫、おれは熱い風呂が好きなんだ」
「だからって……。まあいいや」
猫目は鏡の方に向かうと、シャンプーを手のひらで混ぜて、髪を泡立て始めた。山藤悠一は呑気に、鼻歌を歌いながら温湯に浸かっている。そのうちに、悠一はまぶたが重くなってゆき、意識がどんどん遠のいていった。
「わっ!」
頭が湯船に浸かったのに気付いて、山藤悠一は思わず声を上げた。洗い場の方を見ると、先に上がったのか猫目の姿が見当たらない。仕方なく、自分も上がろうとしたとき、どこからかくすくすと笑う声が聞こえてきた。
「どなたですか」
「あんまりよく寝ているようだったから、起こすのをよしたんです」
薄暗い風呂場の電球の下、湯けむりの中から、顔をうつむかせたショートカットの少女が、手ぬぐいで胸元を隠しながら近づいてきた。
――そういえば、混浴風呂だったっけ。
こんなところにどうして少女が、と思ったのをいったん払うと、山藤悠一はそっと、少女の肢体から目をそらした。が、見ると相手は、右の手に持った木の杖で、足元を突いている
「目がお悪いのですか」
「小学生のころ、交通事故にあって視力を失ったんです。それからずっと、杖片手の生活で……」
少女はそういうと、徐に顔を上げた。少女の両目は、薄い灰色をして濁っていた。
「お医者様の話では、交通事故の衝撃で白内障を発症する方というのが時たまいらっしゃるそうです。私は、視神経もやられちゃったから、水晶体を入れ替えてもだめみたいです」
少女はそう言うと、山藤悠一の隣に身を沈めた。
「私、耳はいいんですよ。だから、寝ているのもよくわかったんです」
「なるほど、そういうわけでしたか」
平静な態度をとる山藤悠一だったが、さすがにこんなに距離を詰められては気が気ではない。
「そういえば、お名前をまだ伺ってませんでしたね」
少女が言った。
「私は夏目美弥。長野から参りました」
「ぼくは山藤悠一といいます。東京から、助手と一緒に旅行に来たのです」
「山藤悠一……ああ、あの有名な私立探偵の」
美弥のやや舌っ足らずなしゃべり方に、山藤悠一は底知れぬ、年にしては不相応な色気を感じ取り、やや戦慄した。
「い、いやあ、大袈裟ですよ、有名だなんて……では、お先に失礼」
水面を蹴立てると、山藤悠一は湯船から上がり、体をいい加減に拭いてから部屋へ舞い戻った。
「どうしたんすか、そんなに慌てて……」
借りてきたらしい碁盤を前に、指南書片手に石を動かしていた猫目は、山藤悠一の妙な態度を訝しんだが、碁石のほうが気になったのか、それきり何も深く聞こうとはしなかった。
三、
翌朝、激しい雨音に目を覚ますと、山藤悠一はそっとカーテンを引いた。窓ガラスの向こうは、数メートル先のものは何も見えないほどの激しい大雨だった。枕もとに置いた腕時計を見ると、まだ七時半過ぎである。
――今からまた寝ると、却ってやりにくいな……。
そんなことを考えていると、まぶたをむずがゆくしばつかせてから、猫目がムクリと身を起こした。
「探偵長、まぶしいですよ」
「ごめんごめん。――見てみな、ひどい雨だ」
はだけた浴衣の袷をなおすと、猫目は窓の外へ目をやり、ひどく嘆息した。
「あーあ、なんてこったい。昨日は不漁で、今日は外出不可か……」
猫目はため息をつくと、雨戸に手をかけた。
その時だった。目の前の、堰堤から続く坂道を一人の青年が駆け上って来た。傘や雨がっぱを着けず、ワイシャツにスラックスという天候にそぐわぬ格好が猫目の興味を引いた。
「探偵長、なんか妙なのがいますよ」
「妙なのがいる?」
山藤悠一は猫目を押しのけ、窓の外を見た。青年は宿の玄関先をかすめ、左手の方向へ走って行った。
「おい、なんかあるんじゃないか」
「ぼくもそう思います」
二人は顔を見あわせると、一目散に階下の玄関へと向かい、宿の記しのついた番傘をさし、後を追った。
追跡は十秒と経たぬうちに終わりを告げた。近くの駐在所から巡査を連れて、青年がやってきたのだ。
「おまわりさん、何かあったのですか」
山藤悠一が尋ねると、雨がっぱを着た巡査があわただしい口調で答えた。
「そこの堰堤で、水死体が見つかったんです」
「水死体ですって」
山藤悠一は思わず大声を上げた。
「今から様子を見にゆくんです」
「じゃあ、この傘をお使いください。猫目、おまわりさんに傘を……」
山藤悠一と猫目は濡れねずみになった青年と巡査に傘を渡した。二人は礼をのべると、堰堤へ向かう坂道を大急ぎで下っていった。
それから一時間と経たないうちに、静かな山奥の集落にふもとの警察署から刑事と鑑識班がやってきた。騒ぎを聞いた住民たちは雨が降るのも気にせず、傘を片手に捜査の様子を見ていた。
「雨降りだってのに、よくやるなあ……」
運ばれてきたお膳の朝食をつつきながら、猫目は窓の外をちらちらと見ていた。
「よせよみっともない。せっかく休みに来たのに、また事件にかかわるなんざごめんだよ」
小鉢の煮豆をつつきながら、山藤悠一は不機嫌そうな顔をした。
「さっき主人に聞いたんだが、あの堰堤は自殺の名所らしいんだ」
「となると、水死体の方も……」
「おおかたその類いだろうね。おれたちの出る幕ではなさそうだ」
「そういうことなら、仕方ありませんね」
雨戸を閉めると、猫目は卵焼きに手をつけた。食事を終えた二人がお茶を飲んでいるところへ、主人がやって来た。
「警察の方がお二人にお会いしたいとのことで……お通ししてもよろしいでしょうか」
「ええ、構いませんよ。お通ししてください」
主人はいったんその場を離れると、ふもとの警察署から来た刑事と駐在所の巡査を連れて戻って来た。部屋に入ると、刑事は「やはり」といった顔をした。
「おや、杉野刑事じゃありませんか」
「やっぱり、あなたでしたか。いつぞやの事件の折にはお世話になりました」
「いやいや、あれは造作ない事件でしたから」
杉野刑事がまだ交番勤めの巡査だったころに担当区画で発生した事件を山藤悠一が解決したことがあり、殺人の嫌疑をかけられた自身の身の潔白を証明してくれた山藤悠一に、杉野刑事は頭が上がらないのだ。もっとも、悠一は彼の低姿勢を好んでいないようで、さきほどから苦い表情をして杉野刑事を見ていた。
「で、杉野刑事。休暇中のぼくらの元に、自殺者の身元報告に来たわけではないでしょう」
「相変わらず、するどいですね」
杉野刑事はポケットから雨で湿気を帯びた煙草の包みを取り出し、一本に火を点けた。
「直接に死因は溺死のようなんですが、死体の後頭部に奇妙な傷跡がありましてね」
杉野刑事は煙草を灰皿へ置くと、鞄の中から一枚の写真を取り出した。それは被害者の後頭部を撮影したもので、真一文字の傷跡が生々しく写っていた。
「ひどいな、肉がめくれ上がっている。頸動脈は一発で切れているようだ」
「かわいそうに、ムチでやられた次は水の中だなんて……」
杉野刑事は被害者の不幸を嘆いた。
「いや、杉野刑事、これはムチでやられた傷跡ではありませんよ」
山藤悠一の言葉に、杉野刑事が首をかしげる。
「――犯人がムチを使って襲ったなら、傷跡は上が小さく、下が大きくなっているはずです。でもどうです、この傷跡は、上が大きく、下が小さくなっているじゃありませんか」
悠一の考えはこうだった。ムチで襲うには、犯人がまずムチを大きく振り上げる必要がある。そうすると、ムチの先端は頭の上から下へ豪快な傷口を作る。接地面は頭部の方が小さいのだから、頭頂部にできる傷は小さい物で、そこからどんどん広がる形で傷が大きくなってゆくはずだ。ところが、被害者の傷口はその真逆で、頭頂部が大きく、そこからだんだんとすぼまっているのだ。
「上から下に降ろすならともかく、下から上にあげて撃つムチなんて物理法則を無視したものがこの世にあるはずがない。すると、ムチが凶器の可能性はなくなる」
「では、いったい何をつかったのでしょうか」
「今の時点では何とも。それより、被害者の身元はどうなりましたか」
山藤悠一が尋ねると、杉野刑事の背後にいた巡査が手帳を取り出して読み始めた。
「被害者の名前は達家健二、五十八才。東京都在住の不動産ブローカーで、四日ほど前から近くのF集落の民宿へ滞在していました。民宿の女将の話では、昨晩十時ごろに人と会うから、といって宿を出たそうです」
「F集落から堰堤まで、徒歩でどのくらいかかりますか」
「はっ、十五分ほどであります」
「となると、犯行が行われたのは十時十五分から今朝の五時半にかけてか……。それから、第一発見者の方の身元は」
「第一発見者はF集落の農家の三男、赤沼恵三。今年の春に東京のS農業大学を出たばかりで、今朝は散歩をしている最中に死体を発見したそうです」
説明を聞くと、山藤悠一は手帳にそれらを書きこんだ。
「杉野刑事、引き上げた死体はどうなりましたか」
「T警察署の鑑識班がさっき運んでいきました。なにせ水死体ですから、防腐処理をしておかないと……」
「なるほど、家族が来た時に困りますからねえ。達家に家族は?」
「すでに両親は亡く、身内もいないそうです。今夜あたりに、同業者の何人かが来るそうです」
「なあるほどねえ……。わかりました、ではまたなにかあったら、宿の方へ電話をしてください」
手帳を閉じると、山藤悠一は窓辺の籐椅子へ体を沈めるように座った。
「探偵長がああし始めるのは、推理をするためなんです。邪魔になるといけませんから、ぼくらは出ましょう」
猫目が言うと、杉野刑事と巡査は部屋を出た。
部屋に一人残された山藤悠一は、ぶつぶつと独り言を言いながら天井を見ていた。二時間ほど経った頃、ふすまの向こうで自分を呼ぶ声がするのに気付くと、山藤悠一はそっと戸を引いた。
「いかがですか、名探偵さん」
そこにいたのは、昨夜風呂場で鉢合わせた少女、美弥だった。山藤悠一と同じく、宿の浴衣に身を包み、昨日のように杖で足元を見ながら部屋へ入って来た。
「どうにもこうにも、謎が多くっていけませんよ。せっかく休暇に来たっていうのに、これではいつもと変わりません」
山藤悠一は椅子から立ち上がると、ちゃぶ台の下に置いた容器から湯のみや急須を、部屋の隅から魔法瓶を持ってきて、茶を入れた。
「少しぬるいですが……」
「まあ、ありがとうございます」
美弥は湯のみを受け取ると、そっと口をつけた。
「妙な事を聞くようですがね……」
山藤悠一がおもむろに尋ねる。
「夏目さん、あなたはなんのためにこんな山奥へ来たのですか。観光地というわけでもないし、それに、あなたのように目の悪い方が単身で旅行をするというのは、どうにも引っかかるのですよ」
それを聞いた美弥は、しばらくの間黙っていたが、やがてこう切り出した。
「山藤さん、あなた本当は私が何者か、分かっているんじゃありませんの」
美弥が小さな声ではあるが、非常に強い調子で言った。
「うっすらと分かってはいますが、確証がない。データ不足で推理を立てるのは危険です」
「そういう事でしたか。で、あなたは私を何者だと思っているのですか」
「間違っていたら申し訳ありません。ぼくの見立てでは、あなたは善光寺の尼僧ということになります」
それを聞くと、美弥は灰色の目でしばらく山藤悠一を見ていたが、やがてクスクスと笑いだした。
「ご名答です、山藤さん。そうです、私は長野の善光寺の尼僧、またの名前を風杏と申します」
そう言うと、美弥は足元に置いた杖を見せた。
「この杖と、昨日の手ぬぐいがヒントになったのですね」
「その通りです。あなたがお使いになっている杖は善光寺の僧侶が用いるもの、手ぬぐいは二年前に善光寺の改修工事を行った際に、工務店が関係各所に配ったもの。持っているならば、工事を請け負った作業員か僧侶になる。あなたは目が不自由だから、残る可能性は僧侶となるわけです」
「お見事です。やっぱり名探偵というのは大げさではなかったのですね」
美弥の言葉に、山藤悠一は顔を赤らめる。
「それより、夏……風杏さん、どうしてぼくの部屋に来たのです」
「同じお宿のあなたに、ちょっとお願いがあって……」
美弥はそう言うと、羽織の袖口からぎこちない手つきで数珠を取り出した。
「今朝、そこの堰堤で亡くなった方が成仏出来るように、お経をあげたいのです」
「なるほど、そういう事でしたか。足元が悪いし、ぼくで良ければ構いませんよ」
「ありがとうございます。少しお待ちください、着替えてまいりますから」
美弥は杖をつかむと、徐に立ち上がった。
「大丈夫ですか」
「心配ご無用。長いこと盲人をやってますから、これくらい造作ありません」
山藤悠一は心配そうに見つめるのをよそに、美弥は右手で杖を動かし、壁を伝って部屋を出た。
十分ほど待った頃、部屋の襖が空き、袈裟姿の美弥が山藤悠一の前に現れた。
「お待たせしました。では、お願いします」
美弥が差し出した手を、山藤悠一はそっと掴んだ。傘をさすほどの降りではなかったが、玄関先で番傘を開いて美弥を入れ、そのまま船着場への坂をゆっくりと下り始めた。
船着場へ着くと、美弥は地面を触り、土の出ているところに線香を一つかみ差した。
「すいません、火を点けていただけませんか」
「いいですよ」
美弥からマッチを受け取ると、山藤悠一は線香に火を点け、ふっと息を吹いた。線香の煙がもうもうと立ち込めた。
「じゃあ、傘を持ってますから、始めてください」
「ありがとうございます」
美弥は山藤悠一に礼を述べると、数珠をつかんで読経を始めた。
二、三十分ほど続けたのち、美弥は立ちあがり、空で手を動かした。そのうちに、手が山藤悠一の胸元に触れた。
「すいません、あんまり静かだったもので、どこにいらっしゃるか分からなかったんです」
「なあに、よくあることです」
山藤悠一は昨晩の風呂場と同じように、心中穏やかではなかった。意識しているわけではないのだが、どうしたわけか美弥と話していると、心拍数が上がるのだった。
「では、宿に戻りましょう」
行きと同じように手を掴むと、二人はゆっくりと坂を上がり始めた。中ほどまで差し掛かったころ、いきなり、美弥が左腕に抱き付いた。
「肩が、冷たいです……」
美弥の肩が傘からはみ出ていたことに気付くと、山藤悠一は非礼を詫びた。
「すいません、こういうの、慣れてないんで……」
山藤悠一は傘を美弥の方に寄せた。が、美弥に離れる様子はない。
「しばらく、このままでよろしいですか。足元が悪いから、この方が落ち着くんです」
「え、ええ。いいですよ」
理性の臨界点を超えてしまいそうなのを必死にこらえると、彼はため息をついた。布数枚隔てた先にある、美弥の体から鼓動とぬくもりが伝わってくる。山藤悠一の首すじを妙な汗が走った。坂を越え、玄関先についた時になって、美弥はようやく手を離した。
「ありがとうございました。ここから先は自分で行けます。では……」
袈裟から布きれを出すと、美弥は濡れた杖の先端を拭き、また同じように床を突きながら、階段を上がって行った。
「……不思議な人だな」
山藤悠一はそう呟くと、番傘の露を拭い、傘立てに差した。
東京から達家の同業者たち三人がT警察署に到着したのは、その日の八時過ぎだった。焼香を済ませたのを見て、杉野刑事はそのうちの一人、達家とは長い付き合いの、町永という男に、達家について尋ねた。
「そういえば、去年の夏にあったとき、土壁がどうのこうのとか言ってましたねえ」
「土壁? 日本家屋に使う、あの土壁ですか?」
山藤悠一が尋ねると、町永はこう答えた。
「たぶんそうでしょう。しかしなあ……」
「なにか気になることでも?」
「ええ。あいつ、商売品だってのに、建物についてはあまり関心がなかったんです。古い物件を直して売りに出すにしても、極力安く済ませるようで……。だから、建材の話を持ちだすなんて、妙なこともあるもんだと思いましてね」
「そうでしたか……。いや、どうもお時間をとらせて申し訳ありませんでした。もうお帰りになっても結構です」
山藤悠一は手帳にそのことを書きこむと、ポケットに仕舞った。町永たちを帰したあと、三人は近くの喫茶店へ入り、状況の整理を行った。
「どうにも、参考になりそうなことはありませんでしたね」
調書の写しを見ながら、杉野刑事はため息をついた。
「にしても、町永さんの話、なんだか気になりますね。あれはなにか関係があるんでしょうか」
「さあ、それはなんとも」
素っ気なく返答すると、山藤悠一はカップに入ったコーヒーの残りをグイと飲み干した。
「ひとまず、今夜はこれくらいにしましょう。杉野刑事、なにか分かったら、「あさひや」の松の間に連絡をお願いします」
「わかったよ。じゃ、今夜はこれで」
喫茶店の前で杉野刑事と別れると、二人は警察署前の大通りでタクシーを拾った。
「A坂の『あさひや』まで」
二人が乗り込むと、運転手はグイとアクセルを踏み込んだ。しばらく走っていると、運転手が話しかけてきた。
「ご旅行ですかな」
「ええ。静かなところへ行きたくって」
「そうですか。それなら、あの集落はちょうどいいでしょう。なにもないし」
「そんな事はありませんよ。風光明媚なところじゃありませんか」
山藤悠一のフォローを軽くいなし、運転手はそういうもんですかねえ、とつぶやく。
「地元の人間からしたら、なんともつまらないところですよ。せめて、あの池で釣りが出来たらねえ……」
「なんですって、あの堰堤は釣りの名所だと聞いたのですが……」
「そりゃあ、自殺の名所の間違いでしょう。あの池には雑魚一匹だっていやしませんよ」
運転手の言葉に、山藤悠一は戸惑った。
「ちくしょっ、あの親父、うそ付きあがったなっ」
意気揚々と釣りに向かっただけに、猫目は怒りを露わにし、歯をギリギリと鳴らした。
「あそこの主人の話は聞いたことがあるけど、虚言癖の持ち主だなんて話は一度でも聞いたことはありませんなあ」
「運転手さん、なにかご主人のことをご存じありませんか」
「ええ、聞きかじった程度で良ければ」
運転手はそう言うと、路肩に停車し、話を始めた。
「ってなわけです。全く、かわいそうにねえ……」
運転手が話し終えた時、二人は石像のように固まり、黙りこくっていた。
「お客さん、お客さん?」
「……猫目、こいつが本当だとすると、えらい事だぞ。運転手さんっ」
「はいっ」
いきなり山藤悠一が叫んだので、運転手はひどく驚いた。
「お手数ですが、ルート変更を。T警察署までお願いします」
運転手はそれを聞くと、止めていたエンジンを回し、車をT警察署へ向かわせた。
「杉野さん――」
「や、山藤探偵」
署の机で書類整理をしていた杉野刑事は、さっき別れたばかりの二人が戻って来たので少々面食らった様子だった。
「いったいどうしたんです。さっき別れたばかりなのに」
「杉野刑事、事件に解決の光明が指してきたんです」
「なんですって」
驚く杉野刑事に、山藤悠一は乱れたネクタイを締めなおしながら、
「今は仮説の段階です。これから、証明を始めるのですよ。お手数ですが、出張願いを出していただけますか。新潟市の支局まで行かないと、事件の捜査に必要な資料が見当たらないので……」
「わかりました。まだ課長がいますから、許可はすぐ下りるでしょう。アシはどうします」
「最終で長岡まで出れば、新潟行きの新幹線がまだあるはずです。今から僕が取ってくるので、猫目だけ置いていきますよ」
さっきのタクシーが署の前で「空車」ランプを瞬かせているのに飛び乗ると、山藤悠一はT駅へと引き返した。
その日の在来線、新幹線の最終に見事飛び乗れた三人が新潟市に到着したのは、午前零時を回った頃だった。無理を言って来てもらった新潟支局の探偵長からマスター・キーを受け取り、県警からもたらされたの捜査資料の写しが眠る書庫へもぐりこむと、山藤悠一は二人と一緒になって、ある事故の捜査資料、そして、関連すると思われる新聞記事の綴込みをあたった。
「――あった、あったぞ」
不眠不休の末に、山藤悠一が目当てのものを手にしたのは、東の空がすっかり白んだ翌朝六時のことであった。
「猫目、盲点だったよ。達家氏が言っていた「土壁」というのは、この事だったんだ」
三人そろって廊下へ出、猫目と杉野刑事に資料を渡すと、悠一はそばにあった長椅子に腰をおろした。資料に軽く目を通した二人は心意を聞こうとしたが、疲れが頂点に達したのか、山藤悠一は壁にもたれて心地よさそうにいびきをかいている。
「……こいつは、明日になりそうですね、杉野刑事」
「そのようだね」
二人は顔を見合わせると、安堵から来た疲労感に襲われて、すぐ近くに置かれていたソファにめいめい座り、深い眠りの海に沈んでしまったのであった。
四、
二人が「あさひや」に戻ったのは、それから二日後の昼過ぎだった。連絡もなしにふらりと姿をくらましたので、主人はひどく怒っていた。
「連絡もなしに、いったいどうなさったのです」
「申し訳ありませんでした。それよりご主人、ちょっとお時間いただけますか」
思いがけない申し出に主人は少々面食らった様子だったが、「いいでしょう」と言って、山藤悠一の後について宿を出た。
三人がついたのは、堰堤のほとりにある、水門の調整施設だった。
「いったい、なんのためにここへ来たのですか」
「じきにわかりますよ。おや、どうやら杉野刑事たちの方が先についたらしい」
調整施設の入り口にパトカーが一台停まっていた。そばには杉野刑事と赤沼青年の二人がいた。
「やあ、遅くなってしまってすいませんでした」
山藤悠一が謝りきらぬうちに、赤沼青年が詰め寄る。
「いったい、なんのためにぼくを呼びだしたのですか。ぼくも暇ではないんですよ」
「それは重々承知しております。では杉野刑事、そろそろ始めましょうか」
「いったい、なにが始まるというんですか」
主人が尋ねると、杉野刑事が答えた。
「みなさんにお集まりいただいたのは、不動産ブローカー達家健二殺害の真相を説明するためです」
「なんですって、あれは自殺ではないのですか」
赤沼青年が驚いた様子で言った。
「ええ。彼の死因は自殺ではなく、れっきとした他殺です。それより赤沼さん、あそこ、見えますか?」
山藤悠一が指さす方向を見た赤沼青年はオヤ、と声を上げた。午前の放水で水量の減った堰堤に、一艘のゴムボートが浮かんでおり、そこにはデパートで見るようなマネキンが置かれていた。
「見えますけど、いったいあれはなんなのです」
「ま、そのままそのまま」
山藤悠一はそう言うと、杉野刑事から拳銃を受け取った。巡査用の、標準的な回転式のレボルバーである。
「ちょっと大きい音がしますよ――」
言うやはやく、水面めがけて引き金を引くと奇妙なことが起こった。山藤悠一が狙いを定めたあたりから、凄まじい勢いで棒のような物が飛び出したのである。
棒はムチのような音を立て、ボートの上にあったマネキンを跳ね飛ばし、空中で一回転させた。マネキンはそのまま、まっさかさまに水中へと突っ込んだ。時間にして約三秒。あっという間の出来事だった。
「け、刑事さん、今のはいったい」
「まあご主人、落ち着いてください。これから、彼が説明してくれます」
杉野刑事が主人の注意を悠一へ向けた。
「三日前、この堰堤で生涯を閉じた不動産ブローカー、達家健二氏は、自殺に見せかけて殺されたのです」
山藤悠一は鞄から大学ノートを出すと、略図を書いて見せた。
https://11836.mitemin.net/i122165/
「達家氏の後頭部には、奇妙な傷跡がありました。なにか先端の細い物でつけられた傷のようでしたが、物を振り下ろしたときに出来る傷とは明らかに異なる特徴を持っていました」
「つまり、振り下ろした時ではなく、振り上げた時にできた傷だったのですよ」
杉野刑事が補足した。
「こんな、荒唐無稽な方法で、犯人は殺害をしたっていうんですか」
赤沼青年が声を荒げた。
「ばかばかしい、推理小説ならまだしも、現実でそんな事が起きるなんて……」
「ぼくだってそう思いますよ。ですが……どうでしょうねえ」
山藤悠一が目線を動かしたのにつられ、赤沼青年も目線をやった。見ると、先ほどまで誰もいなかった水面に、黒いウェットスーツを着たダイバーと、ダイバー何か大きなものを受け取る、水門管理局のボートに乗った巡査の姿があった。
「犯行時に使われた、縄を固定するための重りですよ」
山藤悠一はニヤリと笑い、大学ノートに書かれた「支柱」を万年筆で突いた。
「さて、問題です。ひもは抵抗を与えない細い物を使い、なおかつ支柱と一緒に隠しても絶対にばれることはないものとは……なんでしょうか」
赤沼青年は首をひねった。それを見ると、山藤悠一は指をパチンと鳴らした。
「釣ざおですよ、赤沼さん。それに……ご主人」
名前を呼ばれた二人は、山藤悠一に強い視線を向ける。
「釣り好きで、しかも人の噂をするのが大好きなタクシーの運転手さんがいなければ、あなた方の計画に気付くことはありませんでしたよ。釣れもしない堰堤でぼくらに釣りをさせたのは、万が一自分に嫌疑がかかっても釣りざおを怪しまれることのないため、そして、釣りをする趣味のないはずのご主人がわざわざ運転手さんに大型のさおについて尋ねたことをカムフラージュするための巧妙な手口だったのですよ。まさか、本人に聞く羽目になるとは思いませんでしたがね……」
「赤沼さん、そしてご主人――いや、朝日田さん。あなたたちが共謀して、達家さんを殺害したのですね」
杉野刑事の言葉が引き金となったのか、朝日田はその場に泣き崩れた。
「……そのとおり、です」
「おじさん!」
「いいんだ、赤沼くん。ちゃんと、綾女さんとせがれの敵は取れた……」
嗚咽にまみれた声で、朝日田は言った。
「刑事さん、それに……山藤探偵。どこまで把握してらっしゃるのですか」
「申し訳ありませんが、この二日間でお二人の身辺を調べさせていただきました。三年前に東京で起きた、県人学生館のことも……」
山藤悠一は鞄の中から、新聞の切り抜きを出した。そこには大きく「学生下宿で有毒ガス発生」という見出しが出ていた。
「三年前、本郷にあった新潟県人学生館で、壁の建材から有毒ガスが発生し、下宿人六人のうちの二人が死亡するという事件がありました。それが、朝日田さんのご子息の圭太郎さんと、赤沼さんの婚約者であった伏木綾女さんだったのですね」
「その通りです」
赤沼は力なく言った。
「有毒ガス発生の原因は、土壁の補修に用いられた建材でした。警察が調べたところ、使われた土は大陸の土壌汚染地帯で作られた粗悪な品でした。それが、大家が傷かくしのために貼った壁紙ののりと反応し、ガスが発生した。当時は不幸な事故として片づけられましたが、それから二年たった去年の暮、急展開が起きた。事件の発端を作った人物である、達家が現われたのですね」
「その通りです、山藤探偵」
朝日田は目元を拭った。
「格安で補修を済ませるために、達家は大陸から輸入された土を大工に使わせたそうです。それに気付いた達家は、私の元を訪ねてきたのです」
「そこで、彼は謝罪の言葉を述べた」
「違う!」
朝日田が山藤悠一の言葉をさえぎった。
「奴は、謝罪の言葉も述べず、私の前に小切手帳を出し、こう言った。――口止め料はいくら欲しい? ――と!」
「大学の学生寮にいたぼくの元にも来ましたよ。同じように、奴は小切手帳を見せただけだった!」
二人は感情を露わにした。
「奴は一向に反省などしていなかった。私は、赤沼くんと話し合い、奴を葬ることにした」
息子を失った父親は、怒りに体をプルプルと震わせた。
「達家をF集落の民宿へ泊まるように仕向けたのはぼくです。和解の話し合いをしたいから来てくれ、という旨のレタックスを出して、奴を誘いだしたのです」
「電報とは思いつきましたね、赤沼さん。でも、現物は残っていなくとも、頼信履歴が郵便局を調べれば出て来るはずです」
「そこまでは、思いつかなかったな……」
赤沼はため息をついた。
「そして、午後十時。あなたは前もって約束をしておき、彼をここに誘い出した。船の上で話そうとでも言ったのでしょう、それにまんまと乗せられた達家氏は、あなたと一緒にボートへ乗り込んだ。そして、ボートがあの場所にさしかかった時に、朝日田さん、あなたがテグスを切ったのですね」
「さすがにヒヤリとしましたよ。もし、少しでもずれたら、赤沼くんを巻き込みかねない」
「練習はしなかったのですね。そうでしょう、いつ顔見知りに練習を見られるか分かったものではありませんから」
「全く、なんという無茶な事を……」
杉野刑事が呆れた顔をしてみせる。
「にしても、どうしてこんな手のかかる方法を使ったのですか。あんな仕掛けを作らずとも、他に方法があったのではありませんか」
「いや、これほど適切な方法はありませんよ、山藤探偵」
俯きっぱなしだった朝日田がぼそりと呟く。
「この方法は、亡くなった綾女さんが書いた推理小説に出て来るトリックなのです。綾女さんは、推理作家志望の文学少女でしたから……」
「そういう事でしたか。しかし、そんな事をして綾女さんが喜ぶでしょうか」
その言葉に逆上したのか、赤沼は悠一の胸倉を掴んだ。
「お前みたいな若造に、俺の気持ちがわかってたまるかっ!」
凄まじい形相に、杉野刑事と猫目、朝日田は圧倒された。だが、山藤悠一も負けてはいない。
「ぼくはさっきまで、あなたたちの事を被害者だと思っていました。ですがね、いまの一言で気が変わりましたよ」
山藤悠一は相手の足元をすくうと、赤沼の体を背後に回し、そこから豪快な背負い投げを決めた。
「あなた方は、被害者の魂を踏みにじった最低の加害者です!」
赤沼は地面に勢いよく叩きつけられ、そのまま気絶してしまった。
水量の減った堰堤に、山藤悠一の怒号がいつまでもこだましていた。
五、
以上が、彼が伝記作家である私に話してくれた、A坂堰堤事件の全てである。しばらく経ってから第一稿を書き終えた私は、彼を訪ねて再び銀座に向かい、文章の添削を依頼した。
「文句なしですよ、先生。ちょっと夏目さんの箇所がエロティックなのが傷ですけど」
「そういうなよ悠さん。なかなかのラヴロマンスだが、世間にいる山藤悠一ファンの女性陣が読んだらなんていうかなあ」
「ハハハ、そんなにいるんですかねえ。それはそれで嬉しいですけど……」
「そういえば、この前話を聞いたときに思ったんだが、夏目さん、結局どうなったんだい。話題に上らなかったのもあって、どうにも、あの若い盲目の尼僧のことが気にかかってね……」
私が心の内を話すと、山藤悠一の表情が曇った。
「実は、堰堤で二人を捕縛した後、朝日田に聞いてみたんですよ。そしたら、ぼくらが警察署で延々と資料を探している間に、彼女は宿を発ってしましまして……」
「ええっ、じゃあ美弥さんとはそれっきりだったのか」
「そうなんです」
実に惜しい、という山藤悠一の顔につられて渋い表情をみせる。
「ただ、先生にその部分を不明瞭なままお伝えするのもどうかと思って、あれから個人的に彼女の事を追ってみたんです」
「で、どうだった」
「それが、とんでもない事が分かったんです。夏目さんは、達家が愛人との間に作った娘だったんです」
これにはさすがの私も驚いた。山藤悠一はなおも話を続ける。
「ぼくは彼女を船着場に連れて行ったときから、彼女は視力など失っていないのではと思っていたんです。彼女を傘に入れていた時、ぼくに抱き付いてきたのはご存じでしょう」
「ああ、分かる」
「その時、本来なら動かないはずの彼女の目が、ぼくの顔をじっと見ていたんです。それで、この子は盲人ではないと確信したんです」
「おおかた、カラーコンタクトだろうね。さすがに形だけはごまかせても、目の動きは隠しきれないからね」
「ええ。あとは、彼女の使っていた手拭いと杖も参考になりました。たしかに、二つとも善光寺ゆかりの品なのですが、木彫りの杖などは実用向きではない。そんな物を盲人が使うのだろうか? 答えはもちろんノーでした。ではなぜ、そんな物を用いたのか? それは、周囲の人間に自分が善光寺の尼僧だと思い込ませるための細工だったのですよ」
「なるほど、それなら納得がいく。手拭いなんてもらっても、普段は使わないもんなあ」
私は、推理作家でありながらわざとらしい持ち物の違和感に気付けなかったことを悔いた。
「以上の二項目から、ぼくは彼女の語った身分が偽物であると悟りました。ところが、思いがけないところから彼女の正体が割れたのです」
「いったい、どこから割れたんだ」
「意外や意外、善光寺でしたよ」
山藤悠一は私の顔を見たまま、鞄の中から一枚の写真を取り出し、畳の上に置いた。ライカ判の安い印画紙に焼き付けられた、幼稚園児ぐらいの女の子を写したものだった。
「この写真の女の子が、短髪だと思ってください」
その隣に、山藤悠一は写真の隣に八つ切りくらいの画用紙を置いた。警視庁か、はたまた探偵社の誰かが描いたらしい似顔絵である。その両方をぼーっと見ていた私は、ある共通項に気が付いて、アッと叫んだ。
「この二つは、同一人物じゃないのか」
「そうです。写真の主は、小さい頃の夏目美弥ですよ」
髪型こそ違ったが、確かに面影があった。
「善光寺の和尚に、思い当たる節がないか手紙で尋ねてみたんです。そうしたら、十年前に善光寺に修行体験に来た家族のお嬢さんが、個人旅行で訪ねて来られて、十年前にそのお嬢さんを写したものを見せたら、たいそう懐かしがっていたとおっしゃったんです。その時、記念に杖と手ぬぐいをさしあげたというから、まさかと思って似顔絵を寄こしたら」
「ドンピシャリだったのか」
私の問いに、山藤悠一は口を真一文字に結んだまま、こくりと頷く。
「そこで、事情を説明して、古い来客者名簿の複写を頂きましてね。それを確認したら名前が載っていたんです」
「そしたら、保護者氏名のところに達家の名前があったのか」
「ところが、母娘の苗字は違った。ダメ元で同業の興信所に相談したら、母親の名前が見つかりましてね。そこから彼女の本名も分かりました。風杏尼僧こと夏目美弥の本名は東谷ゆき。来客者名簿の年齢に単純計算すれば、十五、六才です」
「つーこたあ、女子高生か」
「そういうことです」
そこまで話すと、悠一はそばに置いてあった水差しをとり、のどをうるおした。
「そこまではいいとしても、どうして彼女は身分を偽ったりしたんだろう」
「そこなんですが、ね」
山藤悠一は口元を拭うと、私の顔をまじまじと覗き込み、
「仮説の領域を出ませんが、彼女は父親である達家を殺そうとしたんじゃないかと思うんです」
「えっ」
驚く私を尻目に、山藤悠一はなおも続ける。
「興信所に資料をもらったとき、彼女の母親の来歴が明らかになったんです。母親は結婚する以前に、銀座のクラブホステスをしていました」
「なるほど、デキたわけか」
「そうなるでしょうね」
「悠さん、そもそも東谷さんの母親の資料が興信所にあったのはどういうわけだったんだ」
「そこなんですがね、先生。ここ最近、DNA鑑定が流行りなのはご存じですか」
「まさか……」
世情に疎い私でもそれくらいは知っていた。今日日、民間の鑑定会社などは探せばごまんとあるのだ。
「ええ。表向きは、ゆきさんは神戸在住の輸入商、東谷公一氏の娘ということになっていました。が、実際は達家氏の娘だったわけですよ」
「なるほど、顔が似てないから嫁の過去を調査し、挙句の果てはDNA鑑定を……」
「神戸社交界の情報に詳しい男が知り合いにいるので、ちょっと尋ねてみたら、案の定離婚してましたよ。無一文で、母子ともに放り出されたみたいです。おまけに、母子二人はけんか別れ……」
「それで、きっかけを作った本当の父親を殺そうと、後をつけた。ところが、父親は自身が不幸にした人々によって殺害された……」
「そういう事です。あの二人じゃないですけど、彼女も同じようにカムフラージュをしたわけですよ、夏目美弥という盲目の少女を作りだしてね」
「でも悠さん、その説にゃ無理がないか? 殺そうとしたんなら、雲水に扮して追っかけずとも、それこそ興信所に頼んで場所を突き止めて、殺しに行けばよかったのに」
「そこなんですよね、問題は。彼女が読んだお経が本物でなければ、ぼくもそういう結論に至ったのですが……どうにも、女性の心理というやつだけは分かりませんよ」
といって、山藤悠一は深く、嘆息するのであった。