七、文机
中空を見やりながら首をかしげる源五郎の問いかけに、源次郎は、
「私は徳次兄上より、『我らがうちそろって叔父になるのは、この年が明けてからだ』と、承っておりますが」
同じ向きに同じ深さで首をかしげている。
「ああ、俺もそう聞いている」
「徳次兄上のご夫婦も、なかなか子宝に恵まれませぬ故、源太兄上の赤子を、まるで我が子のように心待ちにしておいでで、顔を合わせます度にそのことばかりお話になります」
「うむ、耳に胼胝ができて、穴が塞がるほどにな。……しかし、人の子はというものは、必ず十月十日で生まれるとは限らんとも聞いた。特に初子となれば、母親の体も慣れぬからか、前後一月ほどはずれることがままあるとか」
真面目顔の兄に、源次郎があからさまな苦笑いを向けた。
「源五兄上は、妙なことばかり詳しゅうあられますね」
「妙か? 俺がそういったことを学ぼうとするのは、人の命の不思議や天地の営みの秘密を、少しでも知りたいからだ」
源五郎は真面目顔を崩さない。
その真顔を弟に向けたまま、不意に鞭を馬丁に投げ渡した。
着物の襟を正す。背筋を伸ばす。そして矢庭に駆け出した。
瞬きをする暇もない早さだった。あ、と言う間もなく、源五郎の姿は門内へ消えていた。
しかし流石に武田二十四将に数えられる真田源太郎左衛門尉信綱の屋敷である。何者かが門内に駆け込むのに気付いた小者達が、すぐさま番小屋から飛び出した。
「曲者っ?」
彼らが突棒を構える素早さを上回る速さで、源五郎は表向きと奥庭とを仕切る内塀に飛びついて、なんとこれを易々と乗り越えてしまった。
中庭を大股で飛び抜け、母屋の広縁にたどり着く。
戸は開け放たれていた。源五郎はさも当たり前の顔をして縁先に腰掛けた。
直後、後を追ってきた小者頭の権助という中年男が、侵入者の顔を視認するや、
「源五郎の若、さ、ま――」
その若様の足下にへたり込んだ。後の言葉を繋げることが出来ぬほど、気も力も消耗している。
ゆっくりと、これは内塀のくぐり門から正しく入ってきた源次郎が、庭先に片膝を突いて深く頭を垂れた。こちらに付いてきた困惑顔の若い小者が二人ばかり、脇に控えて同じように礼をする。
母屋の中から笑声が割れ響いた。
その笑い声と共に室内から冷たい微風が流れ出たのは不可解だったが、すぐに訳が知れた。
南に面した明かり取りの窓が、冬も最中であるのに、清々と開け放たれている。
冬の陽が落ちるのは早いが、それでもまだ灯を入れるには早い時間だ。
書院の奥で文机の前に座る真田源太郎信綱は、少しでも手元を明るくしたかったのだろう。冷気が入るのも構わず、窓を大きく開けたのは、そのために他ならない。
その源太郎は、縁先に背を向けて文机に向かったまま、振り返ることがなかった。だが広い肩が上下に揺れている。
次兄の徳次郎昌輝は眉間に縦皺を寄せて厳しい目つきを作り、縁先の源五郎を睨み付けてはいるが、頬の肉が楽しげにヒクつくのを抑え込もうとはしていない。
「おのれは猿か」
「おほめを頂いて恐悦にござる」
源五郎は二人の兄のそれぞれに、深く頭を下げた。
「ともかくも、良く来てくれた。まずは近う」
言いつつも、源太郎はまだ振り向こうとしない。ただ左手が挙げられて、二人の年若い弟たちを手招く。同じ手を逆に振って、中庭に駆け込んできた小者達に下がる様命じた。
猿の素早さの闖入者を捉えきれなかったとはいうものの、それでもよく追いついたこの小者頭は、全く優秀な人材であろう。二人の若様と若い家宰代わりと家長代わりのそれぞれに頭を下げて、今度は配下の者どもを追い立てる様にして内塀の外へ去った。
左手が下げられて後も、源太郎の右の手元は、忙しなく、小刻みに動いている。
なめらかな石が水を得てこすり合う音がする。
墨が磨られていた。
煤と樟脳と膠の混じった匂いが、濃厚に立っている。
板張りの床に座った源五郎と源次郎の間に、小さな手焙りの火桶が一つ出された。そのほかには火の気がない。
戸も窓も開け放った書院であるのに、源太郎も徳次郎も、寒さなどを気にしている暇がないらしい。
源太郎は倦むことなく墨を磨っている。
大ぶりな硯の中の墨液は、書くのに適した濃さを遙かに通り越して、沼地の泥水さながらのドロドロとした粘り気を帯びていた。
もし源太郎が、二人の弟を呼び出すために用いた例の二文字の文を、この墨を磨り始めたばかりのころの薄墨で、手ずから書いたのだとしたなら、源太郎はそれから半日を、ひたすらに墨を磨って過ごしていることになる。
そしてどうやらその単調な墨磨り作業のおかげで、波立つ心を抑えているらしい源太郎の脇で、何もすることがない徳次郎は、そわそわと尻の落ち着かない風情である。
遠慮無く手焙りに手をかざした源五郎は、平静を保っているふりをしている長兄の背中ではなく、心の波立ちに翻弄されている次兄に向かって、
「まだお生まれにはなっていないので?」
一瞬、目を見開いた徳次郎だったが、すぐに感心と呆れを混ぜた声音で問いかけた。
「よく、義姉上が産気づいたと解ったな」
源五郎はさも当たり前である、といった顔つきで、
「源太兄上があのような慌ただしい文をお出しになるからには、相応の一大事が起きているに違いなかろうことを察せられぬほど頭が鈍っておるようでは、とてもお屋形様の御側に仕えてはおられません。しかしながら、兄上よりの文の――中身は置くとして――お筆の運びに乱れはみられませんでしたゆえ、大事は大事でも悪しき大事ではなかろう、と」
この言葉の尻を受けて、
「例えば、砥石の父上のご病状が悪しくなった、などということではないと」
と、源次郎が継ぐ。それをさらに源五郎が引き継いで、
「ご門の前に立ち、望気いたしましたら、お屋敷の中から目出度げでありつつ心細げな気配を覚えました。そこで、これは我らがとうとう叔父となったのだと合点がいきましたゆえ、急ぎ参じたのですが……」
ちらと源次郎を見る。頷くともなく頷いた源次郎が、
「しかしながら、こちらへ向かう道すがら、この家の者どもの様子を眺めましたところ、どうもまだであるらしいと」
「斯様に存じました次第にございます」
最後の一言は二つの口から同時に出た。
双子はピタリとそろえて頭を下げる。
「源五は全く性急であるし、源次は幾分気長であるな」
呆れたような、感心したような口ぶりで言う徳次郎に、源太郎は、
「徳よ、わしが言ったとおりであろう? こやつらにものを伝えるのに、くどくどと文字を連ねる必要はないわえ。こやつらは察しが良すぎるでな」
うれしげに言って、ようやくに手を止めた。