四、火闥
源五郎は大きくうなずいた。
小袖を両手に押し抱き、床板の上を滑って後退する。
あっという間もなく、もと座っていた場所まで下がると、小袖を脇に置いて、
「お主が正しい。その通りだ。済まなかった。許してくれ」
床に額を付けた。
「止めろ、お前のつむじなど見とうない。気色が悪いわ」
源五郎が顔を上げると、兵部は大げさに顔を背けた。下顎を突き出した横顔の、目玉だけが源五郎に向いている。
源五郎はほんの僅か考え込んだあと、膝を打った。
「そうだ、馬をやろう。今、馬丁を呼ぶ」
再び立ち上がろうとする源五郎に、兵部は右手を大きく横に振って見せる。
「いかぬ。それもお屋形様から与えられたものだろう」
上げかけた腰を落とした源五郎は腕を組み、小首を傾げた。
「まあ、そうではあるが……」
「大体、馬ならばわしも持っている。馬鹿にするな」
「信濃は近くない。帰る道中に換馬があってもよいだろう」
「要らぬ」
「では、刀が良いか?」
「要らぬ」
「ならば鑓か? 鎧か?」
「要らぬ、要らぬ!」
駄々を捏ねる小童の如く、兵部はわめき、首を大きく振った。
困り果て、中っ腹になった源五郎が、
「ならば何が良い? 俺が所には本当に何もないんだぞ!」
低く鋭く問いかける。
兵部は部屋の真ん中を指さした。
「あれが所望じゃ!」
指先を追いかけて振り向いた源五郎の目に、火桶を抱え込んだ木組みの櫓が見えた。
「あの古い火桶か?」
一応、尋ねてみたが、答えは源五郎の予想に違わなかった。
「不格好な木組みの方じゃ」
「あれは、香を焚きしめる間、小袖を持ち掲げ続けるのは辛いと思って、つまり『ずくをやむ』ために、我が家の火桶に合わせて俺が素人作りにした代物だ。あの火桶にかぶせる他に使い手はないぞ」
「あれ程大きさの火桶なら、その辺にいくらでも転がっている」
「そりゃぁ、そうだがな」
「信濃は寒い。雪が二尺も残っていると、実家の者が言っている」
「室賀の郷も、か?」
源五郎は我が身を抱いて震えて見せた。
つい先頃、真田郷の山城の留守居をしている従兄の右馬亮が、源五郎の長兄である源太郎に報告書じみた手紙を送ってきた。折良く兄の屋敷にいた源五郎は、それを見せてもらった。
春から行う予定の新田開発のこと、未済分の年貢の取り立てと免除について、領民の訴訟とその判決のこと……それらの重要な報告に添えられた尚書は、おおよそ以下のような内容であった。
今年は大雪が降った後で一度寒さが緩み、これで幾分か過ごし安くなると思った矢先、また寒さがぶり返しました。
酷い寒さで、山懐の唐沢の滝もすっかり凍り付いて、大きな氷垂が幾重にもなって滝壺に突き刺さっております。
この山郷に春は暦通りにやって来るのでありましょうか。
右馬亮の細い書蹟は、心細げに震えていた。
「わしは寒いのが嫌いだ」
そう言って背筋を伸ばした兵部は、むしろ寒がりを自慢しているように見える。
「それは、俺も同じだ」
源五郎も胸を張って答えた。
実際、寒いのは苦手だ。信濃のそれと比べればずっと過ごしやすい筈の甲斐の冬でさえも、骨身に堪える。
「だから火闥を入れる」
兵部は火桶を抱え込んだ木組みの櫓を指さした。
この頃の火闥と言えば、囲炉裏の上に櫓を組み、綿入れを長くしたような形の寝具である「夜着」をかけた物を指していた。
つまりは掘炬燵であり、固定式の暖房だった。
これが、囲炉裏ではなく、火鉢や行火の上に櫓を組んで布団を掛ける置炬燵の形になって、冬の欠かせない暖房器具として人々の間に行き渡るのは、江戸も中頃に入ってからであるというから、戦国の世からはあと百有余年の時を待たねばならぬ。
当然、源五郎の常識では、火闥は囲炉裏の上に設える物である。
「あの木組みは、囲炉裏の櫓にするにはかなり小さいが」
「火桶の上に組めば良い。お前がそうしているではないか」
源五郎は『火桶と櫓』を暖房器具として拵えたつもりなどない。ましてや火闥として使おうとは、思いも寄らぬことだった。
故に、
「あれと火桶ならばどこにでも持ち運べる。囲炉裏のない場所でも暖が取れる。便が良い」
という、兵部の考えに驚き、呆れ、そして感心した。
「火桶を入れたのは、我が家に頃合いの香炉がないから、仕方なくやったことなのだがなぁ」
幾分か恥ずかしげな源五郎に向かって、兵部は険しい顔で、
「問答無益!」
鋭くいい、すい、と立ち上がった。
床板を踏みならして進む。途中、ふと立ち止まって武田信玄下賜の小袖に小さく丁寧な会釈を送る。そしてまたまたドスドスと部屋の真ん中まで進む。
甘い香りを立てる火桶をまたいでいる木組みの一端を、兵部は乱暴に掴んだ。
かかとを軸にしてくるりと振り向くと、
「これが良いのだ」
と、言ったきり、後は何も口にせずに、また床板を踏みならして戸口へ向かった。
一度も振り返ることなく、室賀兵部大夫正武は出て行った。
さみしげな背中がすっかり見えなくなってから、源五郎はようやく気がついて、
「道中、気を付けてな」
聞こえもせぬ言葉を贈った。
薄寒い風が部屋の中の甘い香りを揺らしている。
開き離しの戸を閉めに立ち上がる気も起きぬまま、源五郎は座り込んでいた。眉間に薄い縦皺がよっていたが、口元には微笑がある。
「困ったお方ですね」
これは源五郎の声ではない。よく似ているが、違う。
後ろ手に戸板を閉めながら部屋に入ってきたのは、同じ年の弟の源次郎であった。
声音も顔つきもよく似ているが、背丈は幾分か兄よりも高い。源五郎がいささか小ぶりな体つきであることを差し引かねばならないが、それにしても並よりは大柄と言えよう。
「いつから聞いていた?」
尻を中心にしてくるりと反転した源五郎は、埋め火がほんのりと暖かい火桶の縁に手を置いた。源次郎はその向かいに座り、火桶に手を差し伸ばして暖を取る。
「源五兄上が、お屋形様から授かった小袖を、あの方に押しつけようとなさった辺りから」
弟は微笑し、兄は苦笑した。
「押しつけるなどと、人聞きの悪い言いようをするな」
「しかし、本当のことゆえ」
源次郎が堪えきれなくなり、声を立てて笑い出した。源五郎も同じく笑う。