十二、龍蝨
永禄七年(西暦一五六四年)の年が明けた。
松が取れた頃、真田源五郎は名門・武藤家の若き当主となり、正式に武藤喜兵衛尉と名乗りを変えた。
城内の証人屋敷の長屋の一隅から、城下町の武藤屋敷に移った喜兵衛こと源五郎が、最初に成したことは、かねて婚約中であった武田信玄養女・於藤との婚礼である。
列席する人数は絞り込んだが、新婿の義理の親戚であり、新妻の養い親である主君・信玄には顔を出して貰わぬ訳には行かなかった。
婚儀は賑々しく華やかであった。
宴が終わり、客が去り、屋敷に静けさが戻ると、時はもう夜半を過ぎていた。
強かに酒を呑み、呑まされた源五郎が、ようやっと屋敷の奥向きに戻り、しみじみと新妻の顔を眺める至福の時を迎えようとした時、
「お恐れながら」
戸の陰から聞こえたのは、証人屋敷の頃より仕えてくれていたあの若党――つまり真田家家臣の末であったものを、長兄・源太郎に願って譲ってもらい、武藤家に連れてきた――筧十兵衛の声だ。
心中の舌打ちをおくびにも出さずに、源五郎は低く、
「申せ」
戸が音もなく開いた。廊下で十兵衛が頭を下げている。
「殿に、荷が届きましたので」
「この夜分にか?」
声音の中の落胆の色は隠しようもなかった。
「申し訳ございませぬ」
下げた頭を更に下げる十兵衛に、
「頭をお上げなさい。その方に落ち度はありませんよ」
いたわりの声をかけたのは、於藤だった。言い終わってから、不機嫌な新婿に微笑を送る。
源五郎は仕方なさげな息を吐いた。
「で、荷とは?」
十兵衛は菰包を掲げた。一辺が二尺の長さの、真四角の包みである。掲げたまま、そろそろと膝行する。
十兵衛の掲げ方からして、さほど重い物ではないと見受けられる。
取り上げてみると、思った通り軽い。空箱のような軽さであった。
事実、開けてみれば、現れたのは箱の形をしたもの、であった。
しかし、箱ではない。
天板は目の粗い格子に組み合わされている。そこから四本の丸い材の脚が出てい、脚と脚とが細い丸材で四角く組み繋がれている。側板も底板もない。
源五郎はかつてこの形の木組みを見たことがある。
いや、この手で作ったことがある。
櫓だ。
脚の間には、おそらく小ぶりな火桶がすっぽり入るだろう。
旧臘、源五郎が作った櫓との違いは、全体に黒漆が塗られていることだ。脚には金蒔絵まで施されている。
描かれているのは小虫と家紋の組み合わせだった。
一本には【武田四つ割り菱】。言うまでもなく、源五郎の主家である武田家の家紋である。その上に勝虫が飛んでいる。
二本目は【下り藤に武文字】で、これは源五郎が継いだ武藤家の紋だ。家紋の藤の花の回りに蝶が大小二頭、たゆたっている。
三本目と四本目に描かれているのは同じ虫だ。
丸々とした龍蝨が一つの脚に一匹ずつ泳いでいる。
違うのは家紋である。
三本目には【六連銭】が描かれている。
そして四本目の龍蝨が潜水ってゆく先には、
「丸に右上げ上の字」
村上一族である室賀氏の家紋の名称を呟きながら、源五郎は、大雪で古い館に閉じ込められている室賀兵部の、すねた顔を思い浮かべた。
「それは?」
於藤が小首をかしげ、微笑した。
源五郎は答えず、戸口へ顔を向け、まだ控えていた十兵衛に、
「夜着と、火桶を」
手短に命じる。
頭を下げた彼が、小走りに廊下を遠離る音を聞き終えてから、ようやく源五郎は於藤に笑顔を向けて、
「今日は来られなかった故郷の友からの……祝いの品だよ」
うれしげに言った。