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・其之参・

「ん…んん……」


微かな唸り声を上げ、智成が目覚める。雨戸が開けられ、東向きの縁側から日差しが彼の顔を直撃したのである。


「智成様、お目覚めですか?」


張りのある少女の声が秋の澄んだ空気を伝わって、彼の鼓膜を振るわせた。


「あ…」


智成は聞き慣れない声に驚き、はっと目覚める。眠気はウソのように飛んでいた。

飛び起きて、声のした雨戸の方を見やれば、薄紅の着物を着た美しい娘が振り向いている。


「どうかなされましたか、智成殿。」


「いや…君…誰?」


訪ねると、少女はクリッとした瞳に一瞬疑問符を浮かべたが、やがて合点がきたと頷く。


「ああ、智成殿はずっと眠っていらしたから……申し遅れましたが、阿部文麻呂の娘で稲女と申します。」


「稲女殿…ですか。ここは?私は一体……」


「私の父、阿部文麻呂の屋敷です。貴方様は矢傷がもとで発熱し、一昨日前に右大将殿の手により、私の父の元に運び込まれたのです。お加減はどうですか?」


聞かれて智成ははっと手を額にやる。


「熱は無いみたいです。気分も悪くない。ところで頼長様は?」


「先ほどまでこの部屋に居られたのですが、一昨日よりの無理がとうとう出まして…今は別室でお休みになられています。」


「……そうでしたか………私としたことが、頼長様にまでご迷惑を掛けるなんて。」


うつむく智成を見下ろして、稲女はクスリと笑った。


「良いんじゃないでしょうか?あの方は、好きで迷惑を掛けられていたみたいですよ?」


「……」


智成は赤面して顔を上げられない。

曲がったことが許せず、彼の基準に合わない者にはとことん冷徹で残忍な態度に終始する頼長だったが、一旦気に入ったものには、とことん尽くし寵するのもまた頼長の一面である。

稲女にそれを見抜かれ指摘されたことが、智成にはなぜか少し恥ずかしかった。


「もしもお加減が良いのならば、少々庭を歩きませんか?稲女が案内いたしますよ。」


黙りこくる智成の心中を察したのか否か、稲女は智成を誘う。

智成は答えなかったが、稲女は返答を待たずに彼の腕を引き、庭に下りた。


「ああっ、稲女殿。履物も履かずに……」


うろたえる智成を彼女はまたクスリと笑う。


「履物など要りませぬ。この辺りの土は、都の土とは違って朽ち葉が降り積もった柔らかい土です。ね?気持ち良いでしょ。」


「あ…本当ですね。」


「でしょ?」


稲女はニッコリと笑う。智成もそれにつられて笑みがこぼれた。


「ええ。あ、楓があんな緋色に……すっかり秋なのですね。」


「ええ、もう長月ですもの。」


「そうですね。」


二人は顔を見合わせ、そして笑い合う。


「智成殿、あちらにアケビがなっているところを見つけましたの、取りに行きませんか?」


「それは宜しいですね。沢山採って、文麻呂殿や頼長様にも食べていただきましょう。」


「名案ですね、では早速参りましょうか。」


そうして二人は手に手を取って、木立の中に入ってゆく。

それを室内から見ていたのは頼長である。隣で控えていた公春が声をかけた。


「頼長様、さっきから筆がちっとも進んでおりませんよ。」


頼長はハッと気がついて、手元と公春を見比べる。


「……」


「頼長様、小鹿殿が心配なのですかな?似合いの二人ではないですか。」


苦笑して公春が言うと、頼長は筆を置いて、困ったように言った。


「だからなお更だ。」


頼長は公春に振り向く。


「……智成殿は元服されていると言っても齢十四。まだまだ子供ですよ。頼長様の心配なさるようなことは……」


公春が苦笑すると、頼長は一層厳しい顔で言う。


「公春、私が幸子を娶ったのは幾つの時だ?」


幸子とは、頼長の正室のことである。公春は暫し考えて言った。


「…十四…でしたか。しかしそれは父君に申し付けられてのことでしょう?」


「だか、そういうこともありえる…という事だ。

智成は私の舞人、それが何を意味するか…それが分からないそなたではないだろう。」


「頼長様は、稲女にご不満のようですね。」


公春は相変わらずの笑みで言った。が、その瞳には智成に対する時には無い 探るような妖しい光が灯っている。

頼長はそれをさらりとかわして答えた。


「ああ、何か引っかかるのだ。恋の相手に身分をどうこう言うような野暮なことはしないが…どこの馬の骨とも分からぬ女に折角仕込んだ舞人を寝取られても面白くない。

公春、すこし阿部文麻呂と稲女について、探りを入れてくれないか?」


「分かりました。御心のままに……」


公春は間者さながら音も無くその場から消える。残った頼長は一人、誰もいなくなった庭を見つめて呟いた。


「智成よ…身分は低くともそなたは官吏…身分違いの恋は辛いぞ…」


と。




その頃、当の智成と稲女はアケビ採りに夢中になっていた。稲女は木によじ登り、下で待つ智成に声をかける。


「智成殿、何故上ってこられないのですか?」


「そ…そんな、そんなことはございません。そなたが上っているから、私が上がれないだけです。」


プイっとそっぽを向くと、稲女は横枝に移ってまた声をかけた。


「ほら、私がこちらにどきましたから、智成殿も上れますよ。」


「し…しかし、私も上ってしまっては、下で誰もアケビを受け取れないではないですか。」


智成は真っ赤になって反論する。稲女はクスッと笑うと仕方が無いと蔓に生ったアケビを取り始めた。


「分かりましたよ。では私が落としますので、智成殿は受け取ってください。

落ち葉に埋まってしまうと、もうどこだか分かりませんから、ちゃんと受け取って下さいよ。」


稲女が一つ放ると、智成は慌ててそれを受け取る。


「うわ、美しい色ですね。」


「ほら、ぼーっとしていないで、次のも落としますよ。」


「うわぁっ。」


今度は別の場所に放る。稲女はわざと智成を右往左往させているようで、あちこちに実を落とす。


両手で持って一杯ほどのアケビを取って、智成は散々走らされて根元で荒い息をついていた。

稲女は上っていた木の少し高い所から飛び降りて、そんな智成を見て笑った。


「貴方、検非違使でしょ?そんな事で息が上がっているなんて…物取りなんて出来ないでしょうに。」


「だ…だって…足場が良くないから…都の道路は平らだから……」


「それもそうでしょう。だけど…それじゃあ“小鹿”の名が泣きますわ。」


智成は一瞬何を言われたか理解できなかったが、やがてその意味が分かってくると、また頬に血を上らせる。


「な…なんで、その名を知っているのですか?まさか頼長様から…」


彼が恐る恐る聞くと、稲女はひどく笑い転げ始めた。


「違います。右大将殿からは何も聞いておりませんよ。

さあ、次ぎ行きましょう?木の上から、この近くに栗の木があるのが見えましたわ。山葡萄も見えましたから。」


「う…うわっ」


稲女に急かされ、智成はよろける。彼は非常に丸め込まれやすい。

そうして稲女に誤魔化されたまま二人は更に山の奥へと分け入っていった。


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