・其之弐・
「命に別状はございませぬ。しかし、傷口が化膿すればもはや我々の手には負えませぬゆえ、一刻も早く医者に見せなければ……この近くの山に名医が居りますゆえ発熱するようでありましたら、すぐに見せてください。」
「そうか、ご苦労。」
地元の薬師に例を言い、頼長は視線を床に臥したかの人に戻す。
傷を暖めるといけないからと、胸から上を布団から出して横たわる人の肩には痛々しい包帯。
薬草の匂いも芳しく、智成は静かな寝息を立てていた。外では虫の声がする。
「智成・・・・」
薬師の去ったのを見計らい御簾が揺れて少年が入ってきた。
智成を負傷させた張本人、四宮こと雅仁親王である。
彼はしばらく立ったまま、彼が入ってきたことを知っていても振り向かない頼長の背中を見つめていた。
が、やがてゆっくりと頼長の少し後ろに腰を落とす。
「こんなつもりじゃなかったのだ。鹿だと思った。よもや智成だとは……」
四宮の静かな、しかし凛と響く声音にも振り返らない頼長の肩は、微かに震えている。
それに気がついた四宮はそっと頼長の肩に手を置いた。
「もしや…右大将……泣いているのか……」
静かに問いかける四宮の声に頼長はピクリと反応し、次の瞬間
パーン
頼長は振り向き様に四宮の頬を叩いていた。
「そうです。私は、私の大切なモノを傷付ける者には容赦はしない。理由が何であれ、です。
四宮殿、もし貴方が皇子でなければ切り捨てているところですぞ。」
「……」
四宮は打たれた頬を庇うことなく、絶句し手を引く。頼長は物凄い剣幕で睨みつけ、低い声で言った。
「今は話しかけないで下さい。」
「わ…わかった……」
やっとのことで言うと、親王はそそくさと部屋を出て行った。
「頼長様……いけませぬ。皇子に手を上げるなど。」
先ほどの物音で眠りから覚めた智成は、布団の上からぱっちりと目を見開き頼長を見つめている。
頼長は四宮に見せていた夜叉の顔をいつもの温和な顔に戻し、智成に向き直った。
「起こしてしまったか…すまない。傷はどうだ?痛むか?」
「ええ、少しは。しかし大したことはございませぬ。薬師の腕が良かったのですね。」
偽りのない智成の微笑に頼長は安堵の息を洩らす。
「しかし、頼長様、この度はご心配をおかけし、まことに申し訳ございませんでした。」
「いや、小鹿が謝る事はあるまい。悪いのは人と鹿の区別もつかぬ四宮殿だ。
しかしよもや、本当に鹿と間違われるとは…そなたも災難であるな。」
「ええ、まことに。」
頼長の手が智成に伸びる。恐れるようにその指先は、そっと智成の頬をなでた。
「命に別状は無いそうだ。が、医者には見せた方が良いだろう。
明日、夜が明けたら山の医者とやらを訪ねようではないか。私も参ろう。」
「……頼長様、結構です。従者と二人で…」
智成が遠慮をすると、頼長は彼を睨みつける。智成は口を噤まざるを得ない。
「私も行くのだ。」
頼長は眉間のシワを一瞬で消し、満面の笑みで智成を覗き込むのだった。
その夜一晩、頼長は智成の枕元で過した。
薬師の予想が的中し、丑刻頃より智成は発熱する。
夜も明けぬうちに頼長は智成を抱えて出ようとしたが、それを秦公春と家司の源俊通が何とか押し留める。
そうしているうち夜明けを向かえ、頼長を初めとする数名は、山の医者の下に向かったのであった。
「思った以上の山道ですね。頼長様、智成殿の容態は…」
頼長の少し前を歩いていた公春が振り向いた。
頼長の腕の中では智成がスヤスヤと眠っている。
「ああ、大丈夫だ。先ほどよりずっと眠っている。」
「熱は体力を奪いますからね。智成殿も疲労しているのでしょう。さて困ったな、道がなくなっている……」
公春は歩みを止めた。先ほどまで何とか辿ってこられた獣道が、とうとう草陰に紛れ、途切れてしまったのである。別に道を間違えたわけではないだろうが、一同困り果ててしまった。
「やはりあの炭焼きの主人に同行させるべきでしたね。」
「ああ、一刻を争う時だというのに……」
頼長が無意識のうちに歯軋りしていると、草むらが揺れて一人の少女が出てきた。
「お出迎えか遅れ、申し訳ございませぬ。私は、安部文麻呂の娘で、稲女と申します。
父上の命で参りました。貴方様方は右大将殿のご一行ですね。」
「はい、この者が昨日負傷し、発熱しましたので、是非見ていただきたいと・・・」
公春が応対すると、稲女は進み出て、頼長の腕の中で荒い吐息をつきながら苦しげに眠る智成の額に触れた。
稲女の顔が少し青ざめた。
「熱が高すぎる、早くしなければ手遅れになりましょう。さあ、こちらへ……」
稲女は一刻も早くと頼長を急かす。彼のひじを掴んで、引っ張って歩き出した。
安部文麻呂の家は、すぐ傍にあった。
山の中腹にあるちょっとした広場に作られていて、木々に隠れて離れた所からは良く見えないが、意外と立派な作りになっていた。
「父はすぐに参ります。智成殿をこちらへ……」
指された布団に智成を下ろして、頼長はふと違和感を覚える。
「何故 智成の名を知っている?私はまだ一度も言っていないはずだったが……」
「昨日より、随分騒いでおられましたから…私の耳にも入ってきましたわ……」
稲女は不可思議な笑みを浮かべると、その場から立ち上がり御簾の向こうに消えた。
入れ違いで入ってきたのは初老かと思われる一人の男。
「さて、見て差し上げましょうかね…」
開いているのか閉じているのか、一目見ただけでは判別できない細い目を頼長から床に伏す智成に移して、老人は頼長と反対側の枕元にどっかりと腰を下ろす。
「いつより熱を?」
「昨夜、子刻よりだ。智成は…大丈夫なのか?」
不安げな視線で訴える頼長を一瞥してから老人は深く頷く。
「この状態があと一刻続いていたなら、目や耳に障害が出ていたかもしれないが、何とか間に合ったようだ。傷を見ても宜しいかな?」
「あ…ああ。」
答えて頼長自ら布団を捲り、智成の胸元を肌蹴させる。
移動により傷が開いたのか、包帯には血がにじんでいた。その包帯を老人は注意深く取り除き、傷を診察する。
「ふむ、思ったよりは化膿していないな。稲女や、化膿止めと解熱剤を持っておいで。」
「はい。」
先ほど姿を消した稲女は、御簾の向こうで控えていたようである。しばらくすると音も無く入ってきて、蛤に入った薬を差し出す。
「水は…」
「…すぐ汲んでまいります。暫しお待ちを。」
一礼して今度は庭の方に出てゆく稲女を見送って、老人が笑った。
「まだまだ要領を得ないようで…何かと手際の悪い娘です。」
「美しい娘だが…そちの娘ではないのか?」
頼長が怪訝に聞くと、老人は頷いた。
「ええ、怪我をして行き倒れている所を見つけて手当てしたのが縁で、すっかり我が家に居ついてしまいました。
今では私の助手として何かと役に立ってくれていますが…やはりまだ不慣れなようで……」
「ふむ。」
頼長は何か思い当たる節があるのか考え込んだ。
そうしている間にも、稲女は手桶に水を汲んで来て、老人の傍らに置くとまた御簾の向こうに消えていた。
「さて、この薬を飲めばたちまち熱は下がりましょう。熱が下がれば、山からも下りられます。それまで、いかがなされますかな。」
老人の問いかけに頼長はしばらく考える。
「そちがよいならば、暫し我々を泊めて欲しい。智成の熱が下がるまでで宜しいので。」
「それが宜しいでしょう。狭い家で何かと不便ですが、それでも宜しければどうぞ。」
「ご好意、ありがたく承る。」
頼長は笑顔で答えた。




