はじまり
目を開けたらそこは異世界だった。なんて、創作上の物語だと思ってた。しかもそれが別の人間の身体だったとしたら。
「おっふ、マジか」
自分の小さな手を見て唖然とする。明らかに年齢不相応の手だ。一体どうしてこうなった。困惑に辺りを見回し、気付く。やたら部屋がピンクじゃないだろうか。まるで女の子のような、そんな。
「……まさかな」
はは、と笑いながら、部屋に置かれている鏡へと恐る恐る向かう。勇気が出ずに目を瞑りながら椅子によじ登り、深呼吸をすること数回。意を決して目を開け、見えた人物にこれまた唖然とした。
「女……?」
映っていたのは、紛うことなき少女で。しかも、結構かわいらしい部類の。歳はまだ五つほどだろう、綺麗な金髪に宝石のようなサファイヤの瞳。丸い目はくりくりとしていて愛らしさを引き立てている。街ですれ違ったら思わず見てしまうかもしれない。しかしそんなことを気にする余裕などなかった。これが女なら、かわいい少女に生まれ変わって人生勝ち組!とか思うかもしれない。けれど、そんなことを思うはずがないのだ。だって俺は、女じゃないのだから。れっきとした、男なのだから。
「え、あ、うっそだぁ」
信じられなくて引き攣った笑いを浮かべれば、鏡の中の少女も引き攣った笑みを浮かべる。手を振れば、鏡の中の少女も手を振る。間違いない、鏡に映っているのは俺だ。少女の姿をした、俺だ。無理やり現実を受け入れようとして、それでも頭が拒否反応を起こす。エマージェンシー、エマージェンシー。危険レベル赤です。脳内で警報が鳴り響き、ランプが点滅する。いや、ほんとすみません。ちょっとわけがわからないです。なんて思っていると、不意に鏡の中の少女が動いた。あれ、と思う。俺は動いていないのに、一体どういうことだ? もう意味がわからなすぎて言葉の出ない俺に、少女は可笑しそうにけらけらと笑った。
「間抜け顔!」
「は、」
「私の顔がかわいくて良かったわね、全然見られる顔だわ!」
指をさしながら腹を抱える少女に、ようやく思考が戻ってくる。鏡のはずなのに、写っている少女は俺とは全く違う動きを見せている。少しの希望が見え、俺は震える声で問うた。
「俺、ちゃんと男だよな?」
「は?私の身体をちゃんと見なさいよ、女の子でしょ、どう見ても」
「いや、俺は男だし、お前の身体ってなんだよ」
「言葉の通りよ、アンタが今入ってるのは私の身体。かわいくて誰もが振り向く、すばらしい身体!」
意味がわからない。恍惚とした表情を浮かべるコイツはなぜか一人で盛り上がっているが、そろそろちゃんと説明をしてくれないだろうか。もしくはこれが夢だとはっきりと言ってくれないだろうか。もうこの際性別はいい。いや、よくないけど。ぜんっぜんよくないけど。優先順位が変わっただけだ、これについては後で考えることにしただけ。まず知らなければならないことがある。
「お前の身体に俺が入ってるって、どういうことだよ」
「そのまんまの意味よ、そんなこともわからないの?馬鹿なの?」
「学力はそれなりだった!」
「アンタの情報なんて要らないわ。けれどまあ、知能指数が低いってことだけはわかった」
「知能指数が高くても現状を理解できるとは思わないけどな……」
頭を抱え、どういうことだと唸る俺に、やっと説明する気になってくれたのだろう鏡の中の少女が溜息を吐く。仕方ないとばかりに肩を竦めて首を振っているが、誰のせいだと思ってるんだ、マジで。けれどまあ説明をしてくれる気になってくれたのは喜ばしいことだろうと気をとりなおし、少女へと視線を戻す。それを受け、ソイツは自慢気に胸を張った。
「私の人生を、アンタにあげることにしたの」
「は?」
「私はもう、こんな人生を送るのはまっぴらごめんだわ。だから身体を捨てて、新たな魂に受け渡すことにしたのよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ」
「特別に許可しましょう」
だからなぜ得意気に言うんだ。突っ込みたい気持ちを抑え、なんとか自分を落ち着かせる。最初から整理しよう。俺は中身は男で、高校生だったはずなんだ。それでバスケの試合帰り、友達と一緒に歩いてて、気が付いたら女の身体になっていた。オッケーいける、いけないけどギリギリいけると信じよう。そしてそれはどうやらコイツの身体のようで、曰く、俺の魂を入れたということらしい。理由は人生に辟易したから。……まだこんなに小さいのに?
「お前、いくつだ?」
「その身体は五歳よ」
「身体……?」
含みのある言い方に首を傾げれば、鏡の中の少女は少しだけ表情を暗くする。どうしたのかと問おうとするより早く、ソイツは言った。
「私、死んだのよ」
「……は」
「生まれかわりかと思ったけれど、どうやら時間が戻っただけらしいの。不思議よねぇ」
顎に手を当て言うソイツに、息をのむ。不思議よねぇ、なんて呑気に言っている場合じゃない。死んだ?時間が戻った?立ち尽くす俺に、ソイツは続ける。
「私……まあ、あなたになるのだけれど、由緒正しい家柄でね。幼い頃からずっと厳しい教育をされてきたわ。一般常識やマナー、この国だけではなく世界の動きなどなど、挙げたらきりがないくらい。死んでやっと楽園に行けると思ったら赤ん坊になっていた私の気持ちがわかる?」
「いや、わかんねぇけど」
「別にわかってもらおうなんて思ってないからいいわ。今から体験してもらうわけだし、嫌でも痛感するでしょう」
幼い見かけにそぐわない大人っぽい話し方はそのせいだったのかと、どこか冷静な頭で納得する。信じられない話だと思うけれど、そもそも現状が信じられないものなのだ、『普通』の基準もおかしくなるというもので。けれどもそんなにすぐにそうなんですかなど言えるはずもなく、ただただ言葉を待つ。
「あなたは十二を超えたら学院に入らされる。散々なにからなにまで叩き込まれてきたのに、学院に行かなくちゃいけないの。まだ勉強が続くのよ。先生も厳しいし、ほら私、とってもかわいいでしょう?クラスメイトたちにも、妬み嫉みで色々あることないこと言われたわ」
「かわいいって自分で言うところも悪いと思う」
「あ?」
「ナンデモナイデス」
慌てて首を振れば、一応満足してくれたのか、ソイツは頬を膨らせただけで何も言わなかった。確かにかわいいとは思う。お人形のようだと思ってしまうほどには。俺の居た世界の女子たちを思い出し、なるほどと思った。何を思い出したかは詳しく言わないことにしよう、うん。
「まあとにかく、そんなこんなあって私は自殺したのだけれど、また戻ってきちゃったってわけ。そうなると、また同じ人生を繰り返すことになるでしょう?何度自殺させるのって話だわ。ならいっそ、誰か別の人に渡しちゃえーって思って、今に至るのよ」
「なるほど、流れはわか……ん?自殺?」
「ええそうよ?」
「寿命をまっとうして死んだとかじゃなくて?」
「当たり前じゃない。無理やり頑張らせられて、やっと輝かしい青春を送れるのかと思ったら毎日のように妬み嫉みを言われて。一応由緒正しいお家柄ってことで直接の嫌がらせはなかったけれど、死にたくなるのは当然のことだわ」
怒りを滲ませながらの言葉に、言葉を失う。まさか、自殺していたとは思っていなかった。こんな高飛車な女が自殺をするくらい、酷かったのだろうか。そんな人生を自分も送らなければならないと思うと寒気がする。
「俺も自殺したくなったらどうしよう……」
「大丈夫よ、あなた死んでるんだし。一度死んだのなら吹っ切れなさいな」
「それすっげーブーメランなんだけど……って、待て、俺が死んでる?」
さっきから聞き流せない単語ばかりだ。情報量が多すぎてパンクしそうだが、一番聞き逃してはいけない言葉に覚醒する。俺が死んでいるとはどういうことなのか。俺はこうしてちゃんと生きているというのに。怪訝そうにしているのがわかったのだろう、ソイツは呆れたように言った。
「あなた、向こうで死んだからこっちに飛ばされたのよ。ふよふよと浮かんでいた魂をたまたま私が捕まえて、自分の身体に取り込んだというわけだけれど」
「いや、俺死んだ記憶なんてないんだけど……」
「即死だったんじゃない?思い出してみなさい、あなたの最期を。私は死因まではわからないもの、知っているのはあなただけよ」
ふん、と鼻を鳴らすソイツに、言われた通りに記憶を探る。さっき思い出したその続きだ。一般家庭に生まれた俺は、なんの変哲もない人生を送り、中学のときにただ単に格好いいという理由でバスケ部に入った。部活を変えるのも面倒だったから高校でもバスケ部に入り、その大会の帰り道。幼馴染の田中と、試合の余韻に浸っていたはずだ。今日の晩ごはんは美味しく食べられそうだ、とか、明日の授業は絶対に眠ってしまうとか、そんなくだらないことを話しながら。それから、それから。更に思い出そうと頭を捻り、ふと明かりが見えた。希望の光とかそんなんじゃない、物理的なもの。そうだ、横断歩道を渡ろうとしたとき。眩しくて目が開けられないほどの光が飛び込んできた。反射的に田中を突き飛ばしたところまでは、覚えてる。しかし、その先がわからない。もしかしてと鏡の中の少女を見れば、そっと頷かれた。
「どうやら思い出したようね。死因を聞いても?」
「……トラックだ。確かに青信号だったから、向こうがなんらかの要因で突っ込んできたんだろ」
「トラック、青信号……この世界にはない単語ね」
「ないのか?車は?移動手段はなんなんだ?」
「私のような貴族は、主に馬車よ。平民たちはほとんどが徒歩だけれど」
文明の差がここで明らかになるとは思わず、しかもその規模に驚きを隠せなかった。思わず椅子から飛び降り、窓から外を見る。そこには緑が広がり、高層ビルも、騒がしい車もなにもなかった。民家と思われるものは見えるが、マンションなどというものではない、高くて二階建ての一軒家だ。
「マジかよ……テレビとかゲームは?」
「なにそれ?」
「す、スマホは?」
「スマホ?」
次々と挙げていくものに次々とわからないと返される。嘘だろ、これは痛すぎる。時間があるときは一体なにをすればいいんだ。そう愕然とする俺に、けれども鏡の少女は大丈夫よと言う。何が大丈夫なのかと恨めしく睨みつければ、ソイツは親指を立て、ウインクを飛ばした。
「毎日毎日勉強勉強でそんな暇ないわ!」
「健康ですね!」
思わず叫んだ俺は悪くない。