あるひ
「俺たち、別れようか」
一瞬何を言われているのかわからなかった。
もちろん多くのカップルが別れる際と同様に、その言葉に前兆はあった。私は確かに「ああ、これからきっと別れ話をするんだろうな」と予期して、この喫茶店にやってきた。準備万端で待ち構えていたはずの心の防壁を吹き飛ばしてしまう破壊力を、その言葉が持っていたということは、やっぱり私はまだ彼のことを少しだけ好きだったんだろう。
空白になった私。最初に戻ってきたのは匂いだった。ブラックコーヒーとタバコの匂い。彼の匂い。次に音が戻ってきた。いつもこの店で流している調子のいいジャズの音。彼の音。最後に視界が戻ってきて、もう私のことを好きではない彼が困った顔で座っていた。
泣きたくなかった私は微笑んで「ええ、そうしましょう」とだけ言って席を離れる。
彼の匂いが遠ざかる。彼の音が遠ざかる。
彼の顔が頭のなかから消えてくれなくて、私はこの恋を少しのあいだ引きずるのだろうなと苦笑いする。