よくある話
目の前で、身の丈2メートルはゆうに超えて良そうな、そびえたつ山のような男性がもじもじしている。
茶色い髪は短く刈り上げられ、私のふとましい太ももといい勝負しそうな首があらわ。うなじは真っ赤に染まっている。アングロサクソン系で色素が薄いようで、この夏も去年と同じく日焼け対策を怠り右腕だけ真っ黒になった私としては大変うらめしい、いや、うらやましい。
緑色の目が、こちらを見たかと思えばあらぬ方をみたり、大変落ち着きなくきょろきょろしている。時折「あー」とか「うぅぅ」とか謎のうめき声をあげている外人男性。妙に前かがみの前傾姿勢。彼の後ろには、人類に無言の挑戦状をつきつける人が4人は寝れそうな寝台がどーん、と鎮座ましましている状況。
そして私は全裸であった。
週末、くたびれた心と体を風呂に浸かって癒そうと、築30年の我が家の脱衣所をすぱーん、と開けたところだった。
私が期待した、開けたん瞬間立ち上るもうもうとした湯気も、奮発していれた1袋525円の高級入浴剤の桃の香りもない。
20代~30代であろう、国籍不明男子がベッドの前でこちらを見ていたという意味不明な展開。
私も彼を見た。
男子は最初、目を見張って、無言で驚愕を表していた。
それはそうだろう。私だって、無言で、薄い目を限界まで広げて驚いたのだから。
うちの、隅のタイルにカビが生えていて、家族共用リンスがそろそろきれそうな、狭苦しい浴室はどこにいったのだ。
私は20秒ほど、男子と、その後ろの圧倒的存在感を突き付けている寝台と、無駄にムーディーなシャンデリアや蝋燭を眺めた結果。
「どうやら部屋を間違ったらしい」
という結論を出した。
部屋どころか家を間違った可能性を感じ、首をかしげながらも、風呂で読もうとしていた愛読書で、一応の礼儀として尻をかくしながら、振り返り、我が家の脱衣所の引き戸を探す。
しかしそこにあったのは、安普請の我が家ではありえない、なんだかどっしりとした重そうな材質の扉。やはり家を間違えたか。我が家の隣にこのような洋館ができていたとは知らなかった。
一応ドアノブを回してみた。
重い。左手で後ろの男子に見苦しい尻をみせまいと雑誌でかくしているので、なかなかドアノブが回せない。
風呂に入る前は週末の残業でくたくただったのだ。なぜこんなところまできて肉体労働をしなければいけないのだろうと段々と苛つきながら渾身の力を込めて回し、引いてみた。
ガチャリ、無情にも鍵がかかっている音がした。
「無駄だ。あいつらが、出られないように鍵をかけている」
ベルベッドで背筋を撫でるような麗しき低音。
最初何を言っているのか脳が認識しなかった。あまりにも美声すぎたのである。
さてはて、あいつらって誰でしょうか。うちの父と母は一人娘を置いて今日から2泊3日の箱根温泉旅行で家にはいないはず。
がちゃがちゃと右手でドアノブを回してみる。
ヘアピンで錠回しなどできないかと、峰不二子並みのポテンシャルを自分にも期待してみたが、あいにく女子力皆無のおかっぱ頭にヘアピンなどというしゃれたものは刺さっていなかった。
「無駄だ」
ぞくぞくする低音ボイスが、また言う。
30秒ほど策もなくいたずらにがちゃがちゃしてみたが、確かに無駄だった。諦めが早いと小中高の担任に太鼓判を押された身なので、これは無理だな、とすぐやめた。しょうがなく背後を振り返る。依然として、山のように、外人男子が立ち尽くしていた。
眉を下げて、若干困った顔をしている。
雑誌で隠すのは上が良いか下が良いか迷ったあげく、下を雑誌で、右手で上をカバーすることにした。
あーよかったあ、右手でカバーしきれる大きさの胸で良かったー。
肩こり少ないし、可愛いデザイン多いしーと無駄に自分を慰めながら、じりじりと扉に背中をくっつける。
「あいつらって、誰ですか?」
「おれの仲間たちだ、いやあのバカどもとはもう金輪際縁を切りたいぐらいだが。窓にもご丁寧に鉄の柵があるから、さすがにオレの剣でもどうしようもない」
流ちょうな、発音・文法ともにまったく問題のない日本語が彼のセクシーな薄い唇からすらすらと流れ出る。しかしケンとはいったいなんだろう。
「あの、私、お風呂に入るつもりだったんですが」
「ああ、わかってる。湯ならそこにある、用意のいいことだな、くそっ」
男子が目線で刺したのは、暖炉(純和風のボロ屋の我が家に暖炉!?)の前におかれた大きなたらいだった。良くテレビで、たらいで川を渡る選手権とかでみんなが手漕ぎであっぷあっぷしているような、あれ。確かに程よい温度の湯が入ってはいるようだが、私の求める我が家の風呂とは違いすぎる。
「女性の服を剥いで放り出すとは…馬鹿ども、今回は度が過ぎる…!」
呆然と湯気の立つたらいを見ている私を見て、外人男子は何やら憤り始めていた。
男子の10歳児が2人ぶら下がってもびくともしなそうな立派な二の腕に力瘤ができるのを見ながら、おお、見事なマッスル。と私はこの非現実に現実逃避した。何しろ彼の言っている日本語の意味がひとつたりとも理解できなかったので。
しかし都合のいい場面で気絶するというヒロインの必須技術を習得していない私は、気絶して場面を動かすという秘儀を使えるはずもなく、マッスルさん(仮名)がぶつぶつ言いながら今度は冬眠前の熊のように寝台の前をうろうろ徘徊するのを見ているだけだ。
私は風呂場に入った瞬間石鹸でも踏んで頭を打って昏倒し、己の妄想が爆発した夢の世界にいるのだろうか。運ばれたICUで痛すぎる独り言を喋って看護士さんから「お名前いえますかー」と呼びかけられているのか、それとも箱根旅行帰りの両親に発見されるまで一人我が家の床で全裸で冷たくなっているのか。
ああ、一刻も早く風呂に浸かって、昨日発売の雑誌を読み、あの長編大作の完結編を読んで涙したい。このひと月、単行本を1巻目から読み直して泣く準備はしてきたのだ。そして日々の疲れを落とし、まっさらな気持ちで土日を寝て食べて寝て過ごして月曜への気力を高めたかったのにっ…!
何が悲しくて29にもなってすっぽんぽんでイケメンでしかもムキムキな殿方の前に仁王立ちせねばならんのだ……………………。
ああ、そうか、これはどう考えても現実ではない。
夢だな。
間違いない。
わたしは頷いた。
風呂場で頭を打って夢を見ているに違いない。間抜けな自分のやりそうなことだ。夢の中ですら自虐をしなければいけない自分に悲しくなりながら、現実世界に帰れないなら、自分の妄想世界、好きに過ごさせていただこうと開き直った。なあに、どうせ脳内の出来事だ。
「あの、そちらの事情はよくわかりませんが、とりあえずお風呂いただきますね」
一応、自分が生み出した脳内キャラとはいえ、最低限の礼儀として、まだうろうろしているマッスルさんに声をかけて風呂(たらいにお湯を張っただけ)に入ることにする。仁王立ちからカニ歩きで動き出した私に、マッスルさんはぎょっとしたように後ずさった。
しかし、彼はどうせ私の妄想の産物、口をぱくぱくさせていようと一向に気にならない。
脱衣所に麦茶を忘れたのは痛恨だった。たらいの横には、タオルと、石鹸らしきものと、替えの湯だろうか、バケツに入れられたものと、空のものがある。はっきり言って、入り方の作法がよくわからない。とりあえずタオルをお湯に浸して濡らして適当に体をぬぐった。もちろん、雑誌は濡れない所に大事に避難させて、気分がそこそこすっきりしたところで、たらいにinする。ぬるい。私は熱めがが好きなのだ。自分の妄想世界なのだから、熱くなれ、と念じたら熱くなるかと思い挑戦してみたが、どうにもならなかった。10秒で諦め、とりあえずたらいの中で体育座りになり、雑誌に手を伸ばす。たらいは意外と深く、首のあたりに縁があたってちょうどいいもたれかけ具合になった。これでポジションはばっちりだ。
一番後ろの目次をめくり、まず、お目当ての長編の最終輪のページ番号をチェックする。今回の号は人気作家の新連載が開始されるということで、いつもより雑誌が分厚く、湯船の中に落とさないよう気をつけねばなるまい。
「き、君は、あいつらが読んだ商売女だろう?」
「は?」
唐突に後ろから話しかけられて、目当てのページをめくる手が止まった。
はて、ショウバイオンナ、ショウバイオンナ…商売女…
自分を卑下する言葉は湯水のように湧いて出るが、生憎そのように女性的魅力を振りまく職業についたことはない。何を言っているのだこの人は、と首だけで振り返ると、脳内キャラクターのマッスルさんは、顔を赤らめ、右手で口元を覆いながらこちらをちらちらと見ていた。茹蛸もかくや、という赤らめ具合で、せっかくのいい男が台無しである。
「あ、あいつらがいくら君に金を払ったかは知らないが、おれがそれを立て替えよう。」
「お金は頂いていません」
ドッキリの出演料だろうか。もしかしてこれはやはり現実世界で、彼も仕組まれた側の人間なのか。
しかし、我が家の風呂場と謎の一室を繋ぎ、ドアに鍵をかけ、窓を封鎖し、暖炉をつける。不況だと言われる昨今のテレビ業界にそのような予算があるのか。そもそもこんなマッパの痴女が登場していては、ゴールデンはおろか深夜帯でも公共の電波では放送できまい。やはり脳内妄想だな。私は一人納得し、マッスルさんを見た。
こんな日本語ペラペラの外人さん(しかも顎が割れ筋肉ムキムキのハンサム)がうちの風呂場にいるわけない。日頃独り身が過ぎたせいで、自分の好みの外見の妄想キャラを生み出してしまった。想像力がたくましすぎる自分がそら恐ろしい。
そもそもあいつらとは誰なのだろう。脳内キャラクターの設定についていけない。こんな設定の小説読んだ覚えがまったくないのに、いったいどこでこんなけったいなストーリーを思いついたのか。
「後払いなのか!くそっ、成功報酬とは…、ますます終わるまで出さない気か!」
「何を終わらせるんですか?」
こちとら早く雑誌を読みたいのである。一人で悶々していないで結論を早く言って欲しい。
「何って……………………………………………………………………ナニだ」
地獄の沈黙の後、マッスルさんは蚊の鳴くような声で日本人特有の比喩表現を上手に使いこなした。おい母さんアレとってくれよ、アレ。アレじゃわかりませんよ、私はお父さんじゃないんだから。そう言いながら醤油を渡すアレである。あれ、これは違うか?
「ナニとは何」
追及する私の声が限りなく平坦なトーンになった。
何が悲しくて自分の脳内が想像したイケメンおにいさんのもじもじ赤面シーンをみなければいけないのか。手もとの雑誌が早く読みなさいよ、とずっしりとした存在感を訴えているというのに。ああ、楽園は我が手の内にあるというのに。
「っ…………だ、男女の、……睦事、だっ……」
半眼で答えを待っていると、消え入りそうな声で、しかしものすごい美声で、マッスルさんは可哀そうに、目をうるませて呟いた。羞恥にこめかみがぴくぴくと痙攣している。
だんじょの、むつ、ごと。
…
……
………!!
「それは、つまり……………………………………………………………ナニ、ですか…」
一休さんよりも1テンポだけ速くひらめいた。
正解だったのだろう、マッスルさんはもう倒れそうな勢いで頭に血が上っている。巨体の足元がふらふらし、目がうつろだ。今にも息絶えそうな勢いである。
困った。自分の妄想ストーリーにしてもぶっ飛びすぎていて、どこから手を付けて軌道修正を図るべきかわからない。29歳人生彼氏経験ゼロで、引け目も確かに感じたことはあったが、最近では開き直っていたというのに。見目麗しい男性(二次元)を登場させてこの問題と向き合わなければいけないと思うほど、深層心理では思い悩んでいたのだろうか。
自問自答してみたが、よくわからない。ので、なにやら起き上がりこぼしのようにふらふらしている妄想の産物に声をかけた。
「とりあえず、座ったらどうですか、マ…」
「ま?」
マッスルさんという名前を言いかけて、口をつぐむ。
相手がマッスルなら私はマッパだ。このあだ名はひどいし、自分にブーメランが直撃する。しかしマッスルさんとマッパさんって。脳内ですらばかばかしい自分にちょっとおかしくなって、口元がむずむずした。あ、やばいなこれは、某国民的アニメのN口さんのような不気味な笑みが口元に浮かんだのが自分でもわかる。
ガッタン、と大きな音と風が吹いた。
「っ!!!!」
何事かと見れば、寝台につまずいてマッスルさんが床に尻もちをついていた。
2メートルも身長があると、出す音もでかい。
「大丈夫ですか」
反射的に、たらいから立ち上がり、手を伸ばそうとして気づいた。
マッスルさんの鼻から血が出ている。
「おお、血が。」
「っ!!!!!!!」
言葉にできないほど痛いところをぶつけたのか、マッスルさんは鼻を押さえながら前かがみになった。ごわごわとしてそうな素材のシャツに、ホラーな模様ができていく。そういえば、ぽたぽたと自分からも水滴が垂れる音がする。ああ、そうだった。自分は全裸だった。
しかし濡れた体に雑誌を押しつけてはいけない。これは地上に現れた紙媒体という形を取ったサンクチュアリなのだから。
私は厳かな気持ちで立ち上がり、雑誌を水のかからない安全圏に鎮座させた。すたすたと歩くたび、毛足の長い絨毯に23センチ大の足跡ができる。
マッスルさんの前にしゃがみ込んで、鼻を押さえてかがみこんでいる人の手を取った。
おお、片手をもつのにもこちらの両手が必要なほど筋肉で重い。しかも熱い。脈拍まで感じられるとは、国語の成績が一番いい時で5段階の3だった私にしては、なかなか細部まで凝っている妄想だ。
「な、な、ななにを…」
美声のイケメンはもはやおびえる子羊のようだ。
私はイケメンの癪に障るほどスッと通った鼻筋をつかんだ。
「動かないで」
「っ」
反射的にこちらの手を振り払おうとする手を、目で制した。
向こうは恐慌状態のように、ガラス玉のような目を見張っている。私も精一杯、空いているのかいないのかと言われる目を広げて、頷く。気分は恐慌状態のテ〇を掌の上にのせた某姫様だ。
だいじょうぶ、こわくないよ。
慈愛の笑みを浮かべたつもりで(おそらくは気味の悪いしたり顔になっているが)微笑み返す。マッスルさんの目がこれ以上ないほどに見開かれた。さすが私の脳内世界。私が姫姉様の真似をすれば、相手も〇トの真似をし返してくれるとは。
奇妙な満足感を得ながら、男の顔を観察する。
ええと、鼻をつかんで、頭を心臓より上にして、服を寛がせて、顔の向きは下。
首筋トントンはデマだったかな?
かなり胡乱な知識だが、見たところ目の前の人は見るからに健康体。心臓や脳に欠陥がありそうでもないので、多少素人療法が入ったところで、死ぬことはないだろう。そもそも彼は妄想の産物だ。
「動かないで、血を止めないと」
「こ、このぐらい、平気だっ」
「まあまあ、そういわずに。ちょっと失礼」
まず体を寝台の足元に寄りかからせ、こちらを見ようと顔を上げてくる氏の頭をもう片方の手で掴んで俯かせた。
シャツの胸元を編みこんでいる革ひものようなものを引っ張って緩める。
おお、胸板も厚い。しかもうっすら胸毛まで生やしている。細部まで作りこまれているのに感動しながら、私は自分の手際の良さに感心した。
救急救命など自動車学校の講習でしか受けたことのない、しがない事務員の割には、よくできた方である。
後は鼻に突っ込むティッシュなど有ればいいが、この古めかしい部屋に文明の利器は存在しないようだった。お湯を熱くできなかったの同様、ドラ〇もんよろしくティッシュを出現させるのも無理そうだ。諦めの早さに定評のあるわたしは、もはや試みる前から諦め、ハンサムな顔に伝うホラーな血の筋は放置することにした。
「これでしばらく大人しくしていてください」
「………………オレは、自分が情けない」
うなだれた彼はがっくりと肩を落としている。
まあまあ、鼻血ぐらいでそう落ち込まずとも。ポンポン、と肩を叩くと、その手を私の1.5倍はありそうな節くれだった指ががしっと掴んだ。
爪は短く、硬そうだ。指の腹にいくつかの肉刺がある。指先を酷使する仕事なのだろうか。しっかりと指毛まで生えている。いい加減自分の妄想力に感動するぐらい芸が細かい。本当にこの夢はよくできている。
そこまでつぶさに観察したところで、わたしも自分が情けなくなった。
男性に手を握られるのも人生で2回目、1度目は高校のフォークダンスという体たらくのわたし。
10数年ぶりの2回目のお相手が二次元の産物であるという思い出したくもない事実をつきつけられてしまった。
しかしこの明晰夢、いつ醒めるのかな。どうせあの物語の最終回を読むなら、こんな意味不明な自分の夢の中の温いたらい風呂の中じゃなくて、追い炊き機能のある我が家の風呂でほどよく温い麦茶を飲みながら読みたいのだが。普段は烏の行水だけど、月に1度、あの雑誌の発売日だけは長湯するのを楽しみにしていたのに。しかも今日は長湯を非難する両親が箱根にいっているという絶好のチャンスだったというのに。
黙り込んだ私に、何を思ったのか、鼻を摘ままれたままの男は美声でぽつぽつと語りの体制に入ってしまった。
「オレは、この手のことに向いていないんだ…」
物語の導入は自己紹介からだった。
マッスルさんあらためギリアンは第五地区の警備隊の副隊長を任されているらしい。
傭兵の両親を持ってあちこちを放浪していた幼少期の後、厳しい騎士の叔父に預けられたらしい。成人し叔父の所を出た後も、騎士団も、警備隊も男所帯で女にまったく免疫がなく、今に至るまでになるまでまったく女性と付き合ったこともなく、仲間たちにからかわれてばかりいたという。明日で、もう二十歳になるから、それより前に卒業しろよと仲間たちの悪ふざけで娼館に連れてこられ、ご丁寧に閉じ込められたという。
「卒業」
言葉にしてみると、すがすがしさを感じる言葉だ。私も色々なものから卒業してきた。小学校、中学校、高校、短大、自動車学校。
しかし彼のいう卒業とは何からの卒業だろう。名曲にもあるこの支配からの?
それとも額面通り、童貞からの卒業なのか。しかし、だとしたら、相手が商売女では新たな素人童貞が誕生するだけだが、ご友人はそれでいいのだろうか。
「それはつまり、女性と今までそういう経験をしたことがないと」
「……試みたことはあったんだ」
ギリアンの美声は、いっそ悲壮な響きを持って部屋に響いた。
こんな良い声を持ち、シャツの上からでもあからさまに存在感を主張するような立派な体躯と、映画の主役を張っていそうな面構えをしているというのに、童貞。そんなキャラクターを作り出す私の深層心理は闇が深すぎる。
「13の時、叔父の屋敷に勤めていた料理人の娘のアンナと、馬屋で……」
ギリアンは語り上手であった。国語の成績が3だった私が作り出したキャラクターとは思えないほど、語りがうまく、引き込まれる。馬屋でそばかすの可愛い下働きのアンナちゃんとギシアンしようとしたら、当時から成人男性並みに体格の良かったギリアンが若さゆえの過ちで興奮しすぎてしまったらしい。キスしようとしたところ、思ったよりも勢いがついてアンナに頭突きをくらわしたそうだ。哀れなアンナちゃんは鼻の骨を折り流血の大惨事。馬屋番や下女や庭師や執事まで集まっての大騒ぎになり、ギリアンは騎士である叔父さんにぼこぼこにされたという。鼻の骨を折られたアンナは、大層憤慨し、脳筋男ってアリエナーイ、ちょっと雇い主の息子だからって調子乗らないでよねー、と流しの吟遊詩人と駆け落ちを決め込んだそうだ。それ以来、ギリアンは女性恐怖症になったとさ。めでたし。めでたし。
気付けば私は完全に無言になり、ただひたすらギリアンが語る物語の拝聴者となり、最後には涙すら流していた。
「なんて、可哀そうに……」
ズズ、鼻水をすすった。
「オレは自分が恐ろしい。町で馬鹿をやっている奴らやコソ泥を捕まえるときには、この体は役に立つが、女性の前では馬鹿みたいになってしまう。」
でくの坊みたいに突っ立って。手を握られても、骨を折ってしまわないか、抱きつぶしてしまわないか、恐ろしくて触れられない。近くに女性が来ると、固まって、動けなくなってしまうのだという。
現代に生きる妖精候補生としては、かける言葉もない。
「あいつらが、俺でも相手がつとまる相手を用意したと言っていたから、どんながたいの良い女が来るのかと思っていた……」
「だが、現れた君は、俺の想像していたものと全然違っていた」
止血のために掴んでいた手に、手が重なった。
武骨な指先が、かすかに震えている。しかし、これはいったいどういう展開だ。
涙も鼻水も引っ込み、思わず真顔で見つめ返してしまった。
「こんな、柔らかい肌で、触れられると、頭がおかしくなりそうだ」
「どこもかしこも、柔らかくて、甘い……」
震える指先がこちらの掌を引き寄せて、唇が掌にあたる。
熱い呼気がかかる感触に身震いが背筋に走った。
これはどう考えてもアレな流れになっているのではないか?ピンク色の空気があたりに漂い始めてはいないだろうか。
しかしだ、だがちょっと待ってほしい。
「ちょっと、待ってください」
「っ、やはり、オレでは、ダメなのか…っ」
「そうではなくて、二三、お伝えしなくてはならないことがありまして」
緊急の用件ではないんですが、ええ。
業務連絡のノリで掌でストップの姿勢をし、背筋を伸ばした。
俯いていたギリアンが顔を上げ、こちらを見て目を細める。
「実は私も、経験がないんです」
良かった、一世一代の告白を噛まずに言えた。
妙な達成感に若干のどや顔になりつつ、わたしはギリアンの反応を待った。
これはよくある話だ。
誰にだってはじめてがあるのだから、これは多分よくある話、のはずだ。
相手は見知らぬ異人さん。こちらは全裸で、なぜか家の浴室の扉は開かず部屋にはやたらと悩ましい香の匂いがし、私の明日への活力の雑誌はふにゃりとふやけはじめてはいたが、よくある話……なのだろうか?