裁定
西軍の主力を担った石田三成、小西行長らは、10月に入り、京に連行され街人が見つめる中、引き回しの刑にあい、辱めを受けた。ただ、三成は、顔に苦痛や悲哀を浮かべることなく痛みを堪えていた。
その後、京六条河原にて刑が執行されるに至る。三成は、
「チョコレートとやらを食べておけばよかったか」
と少し後悔をした。ただ、淡々と首を差し出し、天晴な最後を果たす。
一方、大坂城では、西軍総大将と目されていた毛利輝元が東軍との盟約を締結し、城を退去する選択を取った。
「吉川のおかげじゃ。よう本領安堵を勝ち取ってくれたわ。はっはっは!!」
「殿のためでございますれば。内府様の勝ち馬に乗っておればお家は、安泰でございます!」
その後の論功行賞により毛利領は、大幅に削られ長門、周防に押し込められることをこの二人は、まったく予知せず呑気に晩酌を交わしていた。
家康は、輝元が退去した大坂城二の丸に入った。秀頼、淀への忠義の姿勢は、形式上取っていたが、諸大名を前にした振る舞いは、まさに「天下人」を思わせるものであった。
「これより論功行賞を発表する!者ども、秀頼君への忠誠を再度誓い我が内府の言葉を秀頼君の言葉と思おてしかと聞き届けよ!」
家康が、話を切りだし諸将に論功を与えていく。裁定により、西軍に就いた豊臣恩顧の大名の旧領は取り上げられ、徳川譜代の大名を筆頭に東軍諸大名に分配されていった。
乱のもとを作った上杉氏も所領をほぼ削られ改易、様子見を図り動かなかった佐竹氏も秋田へ改易となった。目の上のたんこぶをも取り潰すことが叶い、関東領地の安全は大幅に高まった。
また、徳川氏の所領は、旧領三河、駿河など東海地方にも及び、尾張という東西を結ぶ要衝も手中に収めることに成功した。
さらに織田家の没落も一層進む。織田秀信は、高野山に追放。織田信雄も改易処分を下された。
「狸め!!織田を蔑ろにしおって!秀吉の時代より一層我が家は、廃れたではないか・・・!!」
信雄は、こう叫んだが、事の解決には、なにもならない。
政信、三島の親分である藤堂高虎は、その戦いぶりを家康に評価され、8万石から今治、宇和島20万石に大加増された。
「藤堂殿、そちの働きぶりは、凄まじいものじゃった。今宵は、おおいに飲み騒ぐがよい。そちは、ちと生真面目すぎるでのう」
「生真面目さと槍働きだけが拙者の取柄にて。この高虎、恐縮にござります。内府様への忠義を再度誓い申す。」
家康は、この返答に満面の笑みを浮かべ高虎の肩を揉み
「徳川家の屋台骨を支えてくだされ!!」
と高虎に返した。家康と高虎の仲は、以前に増して良好となった。
高虎や福島正則ら石高を加増された者と対照的に大坂城の前主であった毛利輝元は、憤慨していた。
「内府め!わしを騙しおったかぁ!」
荒れ狂う輝元だったが、後の祭りとはまさにこのことである。最強の城を自ら捨てた彼に家康と争う道は、もはや無かった。
吉川広家と輝元は、取っ組み合いの喧嘩をしたが、広家は性格も悪く輝元にそれほど忠誠を誓っていなかったため謝罪しようとはしなかった。
しくじった毛利家は、これ以降、幕府の強い監視を受け萩に封印されてしまった。幕末までこうした関係が続いたのである。
嗚呼、毛利。元就公が泣いている。