崩壊
小早川軍の態度決定は、天下の明暗を分けるものであった。松尾山から起きた雪崩は、麓に位置する大谷陣営に大打撃を与えた。これと同時に藤堂高虎が仕込んでおいた計略も連動した。大谷陣営に隣接する脇坂安治、朽木元網らが家康、高虎らの意向に則り、裏切りを敢行した。
「これは、したり・・・!!」
思わず、吉継は、そう声を漏らした。小早川、脇坂らの表情、言動、不穏な情報から裏切りは、予測できるものだった。不穏分子を抑える目的もあって子の位置に陣を張ったのだから。それでも、この裏切りは、痛く悲しいものである。
大雪崩で沈みゆく友を眼前で見届けていた石田三成も「したり!!」「口惜しやぁ!!」と連呼し、泣き叫んでいた。
「豊臣家の安泰のため、天下泰平のために賊家康を討ち果たさんとしたのに、小早川、藤堂、黒田、加藤、脇坂ら豊臣恩顧の大名は、何もわかっていない。」
そのような思いを三成、吉継は、心に抱いていたであろう。
決着のときが来た。小早川、脇坂らを必死に食い止めていた大谷軍であるが、前面からは朝から激闘を繰り返している藤堂軍が執拗に大谷軍を攻撃してくる。鉄砲が火を噴き、銃弾が向かってくると、次は、槍隊による突撃が待ち受ける。これが繰り返され、遂に吉継は、戦線を離脱した。
兵は散り散りになり、吉継は、自刃を決意する。
戦場からほど近い山中で、吉継は、家来の湯浅五助に問いかける。
「負けじゃな。」
「いえ、ただの負けではござりませぬ。劣勢ながら裏切者を幾度も押し返し申したし、猛将として名高い藤堂玄蕃を我が兵、島が斬り捨てました。」
「そうじゃな。家来は、ようやった。目が見えぬとも五感で感じておった。
そろそろじゃ。切れ。さらば。」
涙ぐむ五助が介錯し、首が葬られた。後を追うように忠臣、湯浅五助も頸動脈を切り自害した。
徳川陣営に続々と吉報が届いていた。西軍主力は、家康以下諸将の調略が奏功し、天下分け目の合戦に勝利をした。
「戦勝おめでとうございます。これから天下獲りですな。」
甲冑に身を包んだ坊主頭の男が東軍総大将に言葉を発すると、
「天海、まだ早いわ。目障りな豊臣恩顧は半減し、我が徳川の領地は倍増させるが、まだ荒くれ者がおる。くれぐれも油断せず、ことにあたれ。」
「はっ。これは、したり。この天海、まだまだ内府様には及びますまい。」
この坊主こそが徳川家康の天下獲りを仏教面、戦略面で支えた「南光坊天海」である。
浮かれる東軍の兵を前に家康は、回想する。
「しかし、島津めの放屁は、たまらぬわ。大事な直政が銃弾に倒れ瀕死の重傷を負ったうえ我が子、忠吉までもが・・・・。島津、侮れぬ敵じゃ。」
鬼島津の決死の敵中突破により徳川軍、譜代軍の兵が斬り殺され、後に井伊直政がこのときの傷により落命する。家康にとっては、自らを支えてきた直政と子である忠吉の損失は、とても痛く辛いものであった。
戦いの翌日、落ち武者狩りは本格的に開始された。政信、三島も藤堂軍の一員として落ち武者狩りに従事することとなった。
「ところで、我が隊の主は、誰っすかね。」
三島が足軽に問いかけた。ギョッとした表情を浮かべた足軽は、
「阿呆ですか。藤堂高虎様でございまっせ。」
戦いが終わり、ようやく事態が把握できた政信と三島であった。むろん、政信のほうは、薄々真相がわかっていた。士官学校時代、関ヶ原の戦いを習った記憶があり、講義が面白くて戦国時代の軍略、戦術を研究していた頃があったのである。
東西に分かれ戦ったこの戦いは、徳川家康が天下を獲った戦だとよく言われる。しかし、それは、その後の大坂の役まで含めて考えると間違った言説だということに気付かされる。もちろん、時代が豊臣から徳川に大きく傾いた戦であったことは、間違いないが。
通史には存在しない政信を巻き込み、戦国時代の終焉は、どうなるのか!?