反撃
豊臣・丹羽方(藤堂改め丹羽高吉)の宣戦布告と緒戦の勝利は、日の本中を震撼させた。丹羽軍は、伊賀、伊勢を制圧し、豊臣軍は、京制圧に乗り出していた。かつての豊臣恩顧の大名や幕府にとっての外様大名の動向に注目が集まる中、諸大名は、どちらの陣営に付こうとしているのか。勧誘合戦も本格化しつつあった。
家康率いる幕府軍は、清州城に留まっていた。そんな中、家康は、津城陥落を聞く。
「皆の衆。津城が敵軍に落とされた。」
家康は、全てを包み隠さずに諸大名・兵士に事実を告げる。当然、城中は、騒然となり戦いの行く末を危惧する声が高まってゆく。
「静まれぇ~~!!」
家康の怒声が城内に響き渡った。
「我ら官軍、賊たる豊臣を滅ぼす!西へ進軍じゃぁ!!」
「おおー!!!」
家康が進軍開始を命じた。およそ八万に上る幕府軍本隊が津城を目指し軍事行動を始めた。
大坂城にも幕府軍の進軍開始が報じられていた。
「よわりましたなぁ。しかし、いつか相対しなければいけない相手です。」
真田昌幸が動揺する秀頼、治良を一生懸命、諭している。
「まず、京の制圧じゃな。」
秀頼は、ただ一言、京方面戦線のことを案じて自らの寝室に戻った。
尾張と伊勢は、陸続きの隣国である。幕府軍は、木曽川を素早く渡河し、伊勢に入国した。桑名を前線の本拠地として体制が立て直される。
左先鋒に本多忠朝、藤堂高虎を据え伊達政宗も右先鋒に加えられた。総大将は、齢七十を過ぎた家康が務める。将軍秀忠は、豊臣・丹羽方の有利を聞き急遽、駿府から清州城へ下る途中であった。
「前田の存在が不気味よの。背後を衝かぬがよいが・・・・。」
「大御所様、ご安心くださいませ。この政宗、使者を前田に遣わしており申す。」
「政宗、頼むぞ。この戦いなんとしても勝たねば。」
「ははーっ。」
家康にとって気がかりだったのが北陸を統べる前田家の動向だった。幕府から加勢するよう命じており、参陣することが書状で伝えられたが、前田が動く気配は、以前として無かったのである。
「この利長、病が悪化しておるゆえ。むろん、幕府に加勢は、いたすが、わしは、戦場へは行けぬぞ。」
「ははっ。それでよいと思います。利常様を大将として前田もお立ちくだされ。」
うむ。大御所もそれでよいと言うのだな。あい、わかった。」
伊達政宗の使者の説得により、前田利常を大将として一万の兵が清州城に加わることとなった。豊臣の勧誘も受け、幕府か豊臣か迷いがあったが、幕府の権威が豊臣に上回ったのである。
前田利常率いる前田軍が清州に向けて行軍を続けていたとき、京では、幕府京防衛軍が豊臣方のライフル銃を使った戦術に翻弄され、潰走。1611年五月、遂に京市街が豊臣の配下となった。幕府方の武将、奉行は、逃亡し、または見せしめに殺害された。
朝廷を奪還した豊臣家は、極秘に秀頼が大坂城から朝廷へ赴き、そこで、正式に「関白」と「左大臣」に任命された。朝廷の権威を力に付け、それを諸大名に通告する戦略である。しかも、徳川秀忠は、征夷大将軍の地位を剥奪することとした。豊臣家は、武力を背景に徳川に近い公家を追放とし、官位任免権を掌握したのである。
「むむっ!なんと秀頼様が関白に。しかも、わしを右大臣にすると!前田家は、所領を倍増し、関八州を与えると。いやいや、さすが太閤殿下の御子じゃ。面白い。」
豊臣から再び前田家に勧誘の書状が届けられた。前田のみならず、幕府の命に従い、紀伊と河内の境界に結集し大坂進撃を試みようとしていた浅井、大軍を布陣させ摂津を睨む池田にも同様の勧誘が行われていた。