エピローグ
エピローグ
彩花さんの機嫌をそこなわせたくない。それだけの理由で車中ではずっと黙っていた。
「あっ」と驚いたのはタクシーが目的地に到着した時だ。
タクシーを降りると周囲の風景が昼間彩花さんと再会した場所と同じだったのである。年季を感じさせる古いバス停、船が疎らに停泊している漁港、丘の上にある草原。彩花さんはこの辺りが自分の故郷だとは言っていたが、昼間散策した時にはこの辺りに墓地などなかったはずだが。
「行きましょう」
戸惑う俺を尻目に彩花さんは一人歩いて行く、彼女が向かっているのは昼間俺達が再会した丘の上の草原だった。
外灯が疎らに設置された階段を上って行く、ここまで来れば断言できる。あの草原に墓などはない。途中に分かれ道でもあったかと周囲を見渡すが階段は草原に続いているだけだ。案の定、草原に着くと彩花さんは昼間座っていたベンチに腰を下ろした。
「あのぉ……彩花さん、俺達って墓参りに来たんですよね?」
彩花さんの後ろに立つ俺、彼女はベンチに座ったまま夜の海を見つめていた。
「ええ、長谷川さんもお座りになってください」
わからん……良くわからないが彩花さんに促され俺もベンチに腰を下ろす、目先に見える夜の海は沖合の方で漁をしている漁船の漁灯がいくつか距離を置き星のように輝いていた。
「ここが母の墓です」
「えっ?」
「昼間も母の墓参りに来たのですが母の墓の前に長谷川さんがいらっしゃったので実はあの時驚いていたのですよ」
彩花さんが呟くように言うので一瞬聞き間違いかと自分の耳を疑ったがどうやら聞き間違いではなかったようだ。
「墓? 墓ですか……はは……」
見えない。見えないというか目の前には海しかないのでどう反応していいのかわからない。ただ母なる海が私の母だと言われれば一応は納得しよう。だが信用はしない、そこまで俺はロマンチストな人間ではないのだ。
「長谷川さん、生物共通の祖先はもとを辿れば海から誕生したと知ってました?」
本当に言うつもりなのか……。
「ええまあ、深夜のドキュメンタリー番組で見た記憶があります」
「母なる海、海は生物の起源であるから眺めているだけで癒されるのでしょうか」
「そっ、そうかもしれませんね」
癒される? 私の母とういうオチではないのか。
「まいたのですよ」
彩花さんは遠くの海を見つめたまま呟く。
「まいた?」
「はい。以前、長谷川さんにうちは貧しかったと言いましたよね」
「言ってましたね」
「その貧しさも並みの貧しさではなかったのですよ。私が産まれてすぐに父親は他の女と逃げ、母は女手一つで私を含め五人の子供を育てていたのですから。消息不明の父親から養育費など貰えるはずもありませんし、当時はこれが平成の世の中かと疑うような生活を送っていましたよ」
「五人?」
「ええ、私は五つ子の五人姉妹の一番末っ子なのですよ」
「いっ、五つ子なんて本当にいるんですね、それじゃあ母親は大変だ……」
「だったでしょうね。私達が中学二年の時に母は大病を患い頼る身内もいませんでしたから、お金もなく母に満足な治療もさせてやれず、お墓を買うお金もなく、私達に出来た事と言えば母の好きだったこの場所から海に向かって母の遺骨をまいてあげたくらいですかね」
「だからこの場所をお母さんの墓だと?」
彩花さんは海を見つめたままコクっと頷く。こんな気品がある人にそんな過去があったのかと驚いた。が、同時にふと思った。
「もしかして彩花さんが紅音にお金を貸した理由って」
「ふふふ」
彩花さんは口元に右手をあて笑った。
「長谷川さんのおっしゃろうとしていることはわかります。母にも感謝していますし当時はお金がない自分が情けないとも思いましたよ。ですが違います、紅音さんに母の面影を重ね合わせた訳ではありません」
「じゃあ何故……」
「うちの母が死ぬ前に言ったことと同じ事を紅音さんが言ったからですよ」
「同じ事?」
「ええ、母が病気になってから私達姉妹は当時中学生でしたが知り合いの伝を使いバイトをしました。幸いここは漁村でしたから魚の加工などのバイトがいくつかありました。そうして姉妹で貯めたお金を持って母が入院している病院に行ったのですが母は私達のお金を受け取ってはくれませんでした。その時に母が言った言葉を今でも私は鮮明に覚えていますよ。まず最初に『なぜ学校に行かなかったの!』と怒鳴られ『私は貴方達に迷惑を掛けたくないの、だからそっとしといて欲しい』と追い返されました」
そう言って彩花さんは俺に視線を向けニヤリと微笑む。
「いいですか長谷川さん、私は貴方が思っているようないい子ちゃんではありませんよ。腹は黒いですし性格もねじ曲がっています。おそらく修正は不可能でしょうね」
「はっ、はあ……」
「そんな私が何故紅音さんにお金を貸そうと思ったのか。理由は簡単ですよ、人に迷惑を掛けてまで生きたくないと言うのであれば逆に生かそうと思いましてね。私は天邪鬼ですから、人が嫌がることをするのが大好きなのですよ」
この人は恥かしさを隠す為にわざと言ってるのか? それとも素で言っているのだろうか?
彩花さんは気付いているのかその行為が結果的に紅音を助け周りを喜ばせていることを。でも彩花さんらしいと言えばらしいか。悪魔が気紛れに笑う時、奇跡が起きる。紅音には勢いで言ってみたものの満更でもなかった。
「あはははは」
思わず笑みが溢れる。ちょっとだけ嬉しかった。この時、初めて彩花さんより上手に行けた気がしたんだ。
「何がそんなにおかしいのでしょうか」
突然笑い出した俺を彩花さんはキョトンとした表情で見つめていた。
「いや、彩花さんってやっぱり変わってるなって」
「そう思われているのであれば話しやすいかもしれません」
「えっ……何を」
「長谷川さんトイレで私と冬花姉様との会話をお聞きになりましたよね」
「はっ、はい。失礼だとは思いましたが聞こえてきたので……」
「やはり聞こえていましたか」
聞こえてはいたが別に変なことを聞いたって自覚はない。俺に話したいことって一体なんなんだ。
「彩花さんすいません、俺の気のせいかもしれませんが。もしかして姉妹同士仲が悪かったりしますか?」
「気のせいではないですね、仲が悪いと言うよりは姉妹同士で啀み合っています」
「はっ、はあ……意外ですよね、そんなに早く母親が亡くなられたのなら血の繋がった姉妹同士一致団結しそうなのものですが」
「性分でしょうか」
彩花さんはぼそっと呟く。
「四年前です。この場所で母の遺骨をまいた日に姉妹同士で話し合いをしましてねぇ。姉妹同士団結できれば今でも仲良し姉妹でいれたのでしょうが。結局、五人で生活をすれば誰かが負担を背負うことになります。頼る身内もいませんでしたし自分のことは自分でやると言う方針で互いに納得しました。とにかく貧乏が皆、嫌だったのですよ。この平成の世に信じられますか? 母には感謝していますが誕生日などイベントはなく正月のお年玉なんて幻想もいいとこ、クリスマスの日に母がミカンをひと箱プレゼントしてくれるのが年に一回、唯一の楽しみだったのですよ。そのミカンも姉妹同士均等に分けはしましたがすぐに始まるのがミカン戦争です」
「ミカン戦争?」
「はい。ミカンを賭けてゲームをし互いのミカンを奪い合うのです。その時にやっていたカードゲームで冬花姉様が良く使っていたのが今日のイカサマだったって訳です」
「なる程、彩花さんの姉妹となるとただのゲームでもなんか凄まじそうですね……」
「長谷川さんただのゲームではありません。ミカンを賭けたゲームです。年に一回のミカンですよ! そりゃあもう、私がいつもビリで手元にミカンが残ってなくていつも姉様達には泣かされていました」
「そうですか……って、えっ? ええっ! うっ、嘘でしょう、彩花さんが?」
「長谷川さん何をそんなに驚いているのですか私のことを過大評価しすぎではないでしょうか」
そりゃあする。俺はこんな変わっている人を見たことないが、こんなに頭がキレて度胸のある人も見たことがない。彩花さんが万年ビリだなんて他の姉妹は一体どんなバケモノなんだ……。
「ちなみに言っておきますが冬花姉様は私に続いて万年ビリから二番目でしたよ。長谷川さんもあの場にいて冬鬼姫が私の姉だと知ったらもうおわかりでしょう。あの方わざとイカサマを仕込んで私を勝たせたのですよ。冬花姉様は姉妹で唯一の平和主義者でしたからね、姉妹で対峙した時は情けを掛けないという約束も守らないし頼んでもいないのに人の手助けまでして……ほんと困った方ですわ」
「その約束で思い出したのですがトイレで聞こえた『この国で一番の富を得る』って話しあれ本気なんですか?」
「そこまで聞こえていたのですか。ええ、本気です。母の墓前で私達姉妹は誓いを立てました。貧乏は嫌、だからと言って中途半端も嫌です。姉妹全員この辺は負けず嫌いの母譲りなのでしょうか。どうせならこの国で一番の大富豪に成り上がろうと誓いを立てたのです」
「凄い……スケールが大きすぎて自分が小さい人間に感じます。ですが彩花さん、その目標の為に姉妹同士で啀み合う必要ってあるんですか?」
「同じ道を歩むのならば仕方がないですよ。この国一番の大富豪が何人もいては困りますからね、競い合うからこそ高みを目指せるのではないのでしょうか」
やっぱり俺はダメだ。彼女のこの発言も理解できないことはないが、すぐに頭に浮かぶのは紅音や早苗ちゃん、それに妹のひよ子だ。
俺は今まで幻想を抱いていたんだろうな。本当の幸せってのに今まで気付いていなかったんだ。
「俺、実は彩花さんに憧れていたんです」
「ペテン師に?」
「いえ、ペテン師ではなく、なんて言うのかな……ちょっと特殊な世界ってやつですかね。目の前で大金が行き交って常にスリルのある駆け引きを楽しめて、一瞬で人生を逆転できるような世界。そんな世界に憧れていたんですよ」
「なる程、世界を股にかける大泥棒で世界中の注目の的で国際警察から常に追われているようなスリルのある人生に憧れていたと」
「ええまあ……身近なとこで例えるならそんな感じですかね」
「それはでも長谷川さん、誰しも一度は憧れることですよ。常に刺激のあるような優雅な人生、誰でも生涯一度でいいから自分自身に華を持たせたいものですよ」
「はい。でも彩花さんと付き合ってみて良くわかりました。得るものが大きければその分リスクも大きくなる。そんな度胸もなければ頭のキレも俺にはありません」
「ですね、長谷川さんには無理ですよ。貴方は人が良すぎますし人を騙せない。裏世界の連中は隙あらばと人の足元を狙っている連中ばかりですから」
彩花さんに言われたのなら決心もつく。自分の身丈にあった人生を送ろう。真面目に働き、ぐーだらと休日を過ごす、それでいいんだ。
「彩花さん俺明日から真面目に就活します」
「そうですか。ですが長谷川さん忘れていませんか?」
「えっ?」
彩花さんは俺に視線を向けニヤリと微笑んだ。
「私が長谷川さんに言いたかったことは貴方私に三千万の貸しがありますよね」
「えっ……ちょ、ちょっと待ってくださいよ。あれは彩花さんが」
「私について来たのは貴方自身の判断ですよ。あの時私がもうひと勝負を提案しなければ長谷川さん今頃、極寒の海で蟹漁をしていたかもしれません。それともそちらの方が就活の手間が省けて良かったのでしょうか」
(やっ、やられた……)
「だけど俺金なんて持ってないですよ。彩花さんに貰った百万円も紅音の手術代の足しに渡そうと思っているんですから」
「なにも持ってない方から無理に奪おとうはしませんよ」
「えっ……」
彩花さんは深く深呼吸をするとまじまじと俺の顔を見つめる。
「わたくし貴方に惚れました」
「はっ、はあ?」
突然の告白に驚く俺を彩花さんは平然とした表情で見つめていた。
「こういう生き方をしていますとね、一人じゃどうにもならないことがありまして。わたくしパートナーを探していたとこだったのですよ」
「もしかして俺にパートナーになれと?」
「率直に言いますと『はい』です。パートナーと言っても誰でもっていいって訳ではありません。職業柄、裏切られる事は大損害に繋がりますのでね。信用を置ける人にしか任せられません」
「むっ、無理ですよ。俺なんかが彩花さんのパートナーだなんて……」
「私がいいと言ってるのですからいいのですよ」
「俺が信用できる人間かわかりませんよ」
「わかりますよ、幼馴染の為に多額の借金を背負う覚悟があるドが付く程のお人好しなんて貴方くらいですよ。それに紅音さんにお貸しする五千万ですが」
「もしかして俺が呑まないと貸さないと言うんじゃないでしょうね」
「いいえ、私に二言はありません。紅音さんにお貸しする五千万ですが私のパートナーを引き受けてくださるのであればチャラにしてあげましょう。まあ、元々そうするつもりだったのですがね、あの方律儀硬い方なんで長谷川さんにお金を貸すと言えば手術を受けなかったでしょうし」
文句がない程の好条件である。しかしこの人の場合何か裏がありそうな気もするが……どちらにしろ今の俺には断れない。人の弱みに付け込んで本当に悪魔のような人だ。
「わかりましたよ、やればいいんでしょう、やりますよ!」
「ふふふ、では明日のお昼にまたここへ来てください」
この言葉が彩花さんと交わした最期の言葉だった。
翌日、再びこの場所に来ると彩花さんの姿はなくベンチの上には一枚の手紙が置かれていた。
手紙にはこう書かれていた。
『長谷川さん、昨日貴方と別れた後に一人で考えましたがやはり私と貴方は違う世界の人間です。もう貴方は私と合わない方がいい。お金は午前中病院に行き紅音さんに直接渡しておきましたのでご心配なさらずに』
その日の午後、病院に行き紅音に確認すると彩花さんは確かに来たと言う。紅音は彩花さんに聞いたそうだ。
「何故、私を助ける気になったのですか」と。
すると彩花さんはこう答えたそうだ。
「善意とは思わないでください。貴方が人に迷惑を掛けてまで生きたくないと言うのであれば逆に生かそうと思いましてね。私はいい人間ではない。天邪鬼ですから人が嫌がることをするのが大好きなのですよ。ですからお金も返す必要はありません。生きて私を喜ばせてください」
あの人と出会った数日間はまるで夢のようであった。
俺は病院の帰り道、空を見上げて笑った。
あの人は本当に人間ではなかったのかもしれない。まるで悪魔のような人だ。