最終章
最終章 悪魔は気紛れに笑う
真田組邸を出ると周囲はすっかり薄暗くなっていた。
先程までの恐怖感から解放された俺は、前を歩く彩花さんの背中を見つめながらただ無事に終わったという安堵感で胸がいっぱいだった。
「長谷川さんどうでしたか? 私がゲームをやっている最中の気持ちを少しは理解して貰えたでしょうか」
彩花さんは振り返らずに言う。今になって彩花さんに対する憎しみや怒りなどはない。彼女のことだから俺がああなるよう全て計算してやっていたのかもしれない。それでも彩花さん対して憎むどころか感謝しているくらいだった。
「もう嫌です、あんな思いは二度としたくありません。彩花さんに軽率なことを言ったとずっと後悔していましたよ」
「ふふふ、そうですか」
聞こえてくる嬉しそうな笑い声、やっぱり計算してやっていたのか。ほんと恐ろしい人だ……。
「ですが今回は私も危なかったですね」
「えっ」と立ち止まったのは俺だけ、淡々と前を歩く彩花さんを慌てて追い掛けた。
「どういうことですか、彩花さんあっさりと勝っていたじゃないですか」
彩花さんと横並走しながら問い質す。
「あれは相手が前田さんだったからですよ」
「すると相手が冬鬼姫なら危なかったと?」
「そうですね」
再び立ち止まり考えた。
計算なんて軽々しく言ったが彩花さんだって事前にゲームの相手を知っている訳じゃない。それにこの世界では代打ちなんて常識なのかもしれないしあの時俺が冬鬼姫に勝ってたら勝ってたでそれが一番理想的だったはずだ。
俺が負けるのを予測していて再戦して勝つ。じゃないと俺にあの恐怖感を味わらせなかったはずだが、俺が事前に負けるかなんてわからないし、いくら彩花さんとは言えどんな相手でも絶対勝てる保証はない。すると計算外の相手が来た、もしくは計算なんてしてなかった……いや、逆にもともと計算なんてしていなかったと考えた瞬間、俺の背筋はぞっと凍りついた。
「長谷川さん何をしているのですか、早く行きますよ」
彩花さんは立ち止まり俺の方を振り返る。
(彼女は何故あんな平然としていられるんだ?)
すぐさま彩花さんのもとに駆け寄り、彼女の両肩を掴むと顔をまじまじと見つめた。
「彩花さん教えてください。もし、もしですよ。相手が冬鬼姫で貴方が負けていたらどうしていたんですか」
彩花さんの表情に変化はない。美しい真珠の様な瞳で俺を真っ直ぐに見つめていた。
「その時は貴方と共に奈落の底ですよ」
イカれてる……この人はゲームの計算はしても、自分の将来、未来ビジョンなんてのは全く見えていない、いや、見ようともしていないんだ。
「おっ、俺。今まで彩花さんのことをとても頭がキレてとんでもなく利口な人間だと思っていました」
「思っていました? 何故に過去形なのでしょうか」
「ええ過去形です、彩花さん貴方は頭がイカれている。どうして貴方みたいな容姿端麗な人がこんな生き方をしているんですか」
彩花さんは少し間を置きぼそっと呟いた。
「長谷川さん、貴方って本当にお人好しですね。自分も危険に晒されておいて私の心配をしてくださるのですか……」
そう言って彩花さんは俺の手を振りほどいた。
「だからなのですよ、貴方の目に私はただの死にたがりに見えるかもしれません。ですがこんな裏世界で生き残るには自分の身の安全なんて確保しても同じなのです、その隙に付け入られる世界なのですから。覚悟があったから今まで生きてこれた、覚悟がなければこんな生き方はしていませんよ。それはあの方だって同じです」
「あの方って冬鬼姫ですか?」
彩花さんはコクりと頷く。
「彼女には私と同じ匂いがしました」
「同じ匂い……そう言えば彩花さん、何故俺が冬鬼姫に負けたのか貴方ならわかりますか?」
「わかりますね」
興味ないフリしてちゃんと見ていたのか、彩花さんは自信あり気に微笑んだ。
「ずっと違和感があったんです。ゲームをプレイしてる最中彼女に何かをやられているような」
「やられていたのですよ」
「やっ、やっぱり、何かやられているような違和感はあったんです。でもその何かが良くわからなくて……」
「イカサマですよ」
えっ……イカサマ? うっ、嘘だろう。
「彩花さん言っちゃなんですが俺、イカサマだけは警戒していたんですよ。ゲームに使うトランプも事前にチエックしたし、途中からですが冬鬼姫の手元も見ていました。カードのすり替えや細工なんてなかったはずです」
「そうですね、すり替えはありませんでした。ですが細工はありましたよ」
「細工があった? たっ、確かにトランプのデザインは特殊でしたが絵柄やサイズは統一していたはずです」
「長谷川さん、貴方の感じた違和感とはどういったものでしたか」
「俺の感じた違和感ですか、なんていうかそのぉ……彼女カードを引く前からカードの数字を知っていたような。おかしかったんですよ、彩花さん途中で俺にアドバイスをくれましたよね。あの理論ならまず合計数が『21』や『22』じゃ手を止めないはず、なのに彼女は手を止めていたんです。それから次に俺が引くカードは偶然なのか全て『10』だったんですよ」
「長谷川さん、それがもし偶然ではなかったら?」
「えっ……」
「彼女、全てのカードを断定的ではなく、ある数字のカードだけを事前に知っていたのですよ」
「ある数字のカードってもしかして『10』になるカードを全てですか?」
彩花さんは「ええ」と頷く。
「簡単なイカサマですよ、何処にでもありそうな紙製のトランプ、カードの裏面である絵柄の方に爪を立てて少しだけ傷を付ける。その傷も普通に見た程度じゃわかりません。目を凝らしてもわからないでしょうね。簡単なイカサマなのですがあれこそプロの技。麻雀卓の中央、山札が置かれていた天井には何がありましたか?」
麻雀卓の中央? そういや、カードの裏面が偉く明るく見えたような……その真上には確か……。
「電灯がありました!」
「そう。彼女はその電灯の灯りを利用していたのですよ。灯りの下だと普通に見ては見えないものが見えるのです。光に照らされた微小な傷のおうとつがね」
「そっ、そんな……」
気付かない、いや、気付くはずがない。山札の一番上にあるカードに目は行くがそんな傷があったとしてもまずわからない。仮に予測していたとしても気付くのは無理だ。
「彩花さんはすぐに気付いていたんですか?」
「気付きませんよ、卓に座るまではイカサマの仕掛けすらわかりませんでした」
「はっ、はあ?」
さっきまで種明かしをしていた彩花さんが平然とした表情で言うので俺は自分の耳を疑った。
「だから彼女が相手でしたら危なかったと言ったのです。私だって相手の思考までは読めませんよ、そんなテレパシー能力なんて持ち合わせておりません。当初は長谷川さんと同じで彼女の連続バーストはおかしいとは思っていましたよ。種がわかった今はあの行為の意味も辻褄が合う。少しでも早く『10』になるカードに傷を付けたかったのでしょう。サーティンカードかどんなゲームなのか長谷川さんプレイしてみてわかったはずですよ」
「はっ、はい。彩花さんのアドバイスでプレイしているうちにわかってきたんですが、あのゲーム『30』に近付けるんじゃなく如何にバーストを防ぐか。トータルの点数制で競う訳ではなく一戦一戦の勝負ですから『30』に近付けようとするとバーストの恐れがあって『30』を無理に狙いに行くとバーストになる確率が高くなるだけなんですよ」
「ご名答、だからの長期戦だったのですね。枚数が多い『10』のカードが全てわかるのなら冬鬼姫がゲームを有利に進められるのは当然です」
「はっ、はい。俺も今知って正直驚いでいます」
「敵ながらあっぱれですね。私も前田さんとの勝負で彼女のイカサマを逆に利用させてもらいました」
なんて彩花さんは流暢に言うが、聞き流そうにも引っ掛かる点がいくつかある。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。彩花さんは卓に着いてから冬鬼姫のイカサマがわかったと言いましたよね。それはちょっとおかしくないですか、仮にカードに細工していたとしても『10』のカードが怪しいとわかっていても、確信できるまでには到りませんよね。だって山札の一番上にあるカードが常に『10』とは限らない訳ですし、仮に『10』だとしても彩花さんが先程言ったように注意深く見ても傷に気付かないかもしれません。それこそ事前にわかっていれば話しは別ですが、勘ぐっていた程度ならそこまでの思考には辿り着けないはずです。いや、辿り着いていたなら卓に着く前、それよりもっと早くから冬鬼姫のイカサマの正体がわかっていたはず。それに彩花さん、前田さんにイカサマを利用したと言ってましたが、前田さんは冬鬼姫の雇用主です。冬鬼姫と組んでいるのですから前田さんは彼女のイカサマを知っていたかもしれません。なのに何故、彼女のイカサマが前田さんに通用するなんてわかったんですか」
俺のプレイ中、彩花さんは麻雀卓から離れて見ていた。ならば目の前でカードの傷を確認するまでは確信に到らなかっただけかもしれない。でも彩花さんは俺に言ったんだ。『卓に座るまではイカサマの仕掛けすらわからなかった』と。更にはそのイカサマが前田さんに利用できた。結果的には彩花さんがあっさり勝ったのだから前田さんは知らなかったのであろう。でも何故だ……別に彼等を援護する訳ではないが俺が冬鬼姫なら次戦もあると知った以上、せめて前田さんには教えて帰る。それが次からの信頼にも繋がるはずだ。
代打ちなんてあんないい加減なものなのか……。
「思い出したのです」
彩花さんはぼそっと呟く。
「思い出した?」
「ええ、私の知っている方がカードゲームで良くあの手のイカサマを利用していました」
「はっ、はあ……」
知り合いの手口? でもそれを思い重ねるってなにか切っ掛けでもなければ。
「容姿もそっくりでした」
「えっ……もしかして彩花さん、冬鬼姫と知り合いだったのですか?」
彩花さんは下顎に右手を添え視線を俺の下腹部に落とした。
「そうですねぇ、ですが私の知り合いの方は冬鬼姫なんて呼ばれていませんでしたし……」
「あれはでも通称でしょう?」
俺がそう言うと彩花さんは眉間に皺を寄せイヤーな顔をする。
「長谷川さん、何故貴方のジーパンは湿っているのですか……」
「えっ?」
指摘されすぐに自分のジーパンを見ると……確かに湿っている……チャックの方を中心にジワーっと円を描くようにして湿っている……今まで気付かなかったがあれの部分がほんのりだが冷たい。
「すいません彩花さん、俺、もっ、漏らしちゃったみたいです……」
顔が真っ赤になっていくのが自分でもわかった。
「あんな思いをしたのですから仕方がないのかもしれませんが、私は漏らしたりはしませんよ」
「はっ、はい……彩花さん……そんなに直視しないでくださいよ」
興味津々なのか彩花さんは食い入るように俺の下腹部を見ている。
「今どんな気分ですか」
「恥ずかしいです……漏らしたのがじゃなく、彩花さんに見られているのが……」
「それは失礼しました」
そう言って彩花さんはやっとこさ俺の下腹部から視線を外すと周囲を見渡した。
「あちらに公園がありますね、おそらくトイレもあるでしょう。私は長谷川さんのパンツとズボンを買ってきますので、それまでには処理しておいてください」
「わかりました」
恥ずかしい……死にたくなる程恥ずかしかった俺は彩花さんに返事をすると小走りで公園へと向かう。が、ちょっとした感動も覚えていた。
人って怖い思いをすると本当に無意識の内に漏らしているもんなんだな。
夜の公園に人気はなく、薄気味悪いトイレの個室の中で俺は下半身を露出させたまま彩花さんが来るのをじっと待っていた。
事情が事情であるがこれじゃあただの変態だ……。
一刻も早くここから出たかった俺はいつ何時人が来るかわかないこの状況で息を殺しながら耳を澄ませていた。
そんな中で突然、「コツ、コツ」と人の足音のような物音がトイレ内に響き渡る。
(彩花さんか?)
足音は俺がいる男子トイレの方に近寄ってくるが声が聞こえてこない。彩花さんであれば何かしら声を掛けてくるはず、ならばただの利用客か。ただの利用客であれば尚更俺の存在には気付かれたくなかったので物音を立てないよう、細心の注意を払いながら便座にそっと腰を下ろした。
呼吸音が漏れないようゆっくりと口から空気を吸って、ゆっくりと鼻から吐く。そうしていると足音がこちらに向かってどんどん近付いてくる。出来るならば大の利用者ではなく小の利用者であることを願い目を瞑った。
「コツコツ、コツ」
足音が止まった。小の方ではない、大側の方で足音は止まった。
緊張の一瞬である。大ならば大でいいのだが、早いとこ個室に入って催してもらいた。じゃないと俺が呼吸困難で死ぬかもしれない。最早自分の呼吸の音なんて聞こえない、聞こえるのは強く脈打つ自分の心臓の音だけだった。
「彩花……」
(…………)
俺の声ではない。今し方入って来た者の声だ。更には足音の主は全部で三つある個室のうち俺が入ってる一番奥の個室ではなく、一番手前の個室をノックし始めた。
「コンコン」
怖い……背筋が一瞬で凍りついた。
「彩花、いるんでしょう」
彩花さんの名前を呼ぶってことは彩花さんを知っている人物なのか? だが、今はそんなことはどうでもいい。とにかく何も考えられないくらい怖かった……。
「ガチャ」
うっ、嘘だろう……足音の主はあろう事か返事もないのに個室のドアを開け中を確認までしているようである。
「コンコン」
二番目の個室のドアをノックする音が聞こえてくる。奥の個室にいる俺は緊張と恐怖で口から心臓が飛び出してしまいそうだった。
「ガチャッ」
二番目のドアの開く音がする。いったい誰なんだ? お化けなのか? そんなことを考えていると、
「コンコン」
いよいよ俺の入っている個室のドアが叩かれる。怖い……怖かったがとにかく物音を立てないよう息を殺しドアに目をやった。
「ガチャッ」
足音の主はドアノブを回すが俺が鍵を掛けている為開かない。
「ガチャッ、ガチャッ、ガチャッ」
足音の主は何度もしつこくドアノブを回す。怖い……いい加減諦めてくれ!
「何故開かないの、いるんでしょう彩花、彩花……」
もうどうにでもしれくれ、恐怖のあまり再び俺は目を瞑り両手で顔を覆った。
(悪霊退散、悪霊退散、悪霊退散……)
心の中で何度も唱える。するとだ、トイレ内が嘘のように静まり返った。
(かっ、帰ったのか?)
顔を覆っていた手を下ろし目を開け耳を澄ませる。何も聞こえない。やはり帰ったのか? そうして顔を上げた時だった。
「みーつけた」
個室の上から青白い顔の女性が俺を見下ろしていた。
「ぎゃあああああああああああ!!」
「悪霊退散、悪霊退散、悪霊退散」
女性に向け必死に叫ぶ、初めて生で見た、間違いない幽霊だ。俺は殺される!
「何をなさっているのですか『冬花』姉様……」
(んっ?)
俺の目先にいる女性の怨霊はトイレの入口に視線を向けていた。
「あっ、彩花」
そう言って女性の怨霊はまた俺に視線を戻してくる。
「貴方よく見たら彩花じゃないわね」
「えっ……」
自分の下半身を見て俺は咄嗟に両手でアレを隠す。再び顔を上げると女性の姿は消えていた。
「久しぶりですね冬花姉様。母が亡くなって以来ですから四年ぶりでしょうか」
聞こえてくるのは彩花さんの声、いつの間に来たのか。それより気になるのは冬花姉様って一体誰なんだ。
「そうね、貴方の彼って変態なの?」
彩花さんは幽霊と話しているのか? しかしこの声何処かで聞いたことあるような……。
「いいえ、変態ではありませんわ。ちょっと先程のゲームでお漏らししちゃったのですよ」
「彩花……が?」
「いいえ私ではありません……彼がです」
「そう。どうやら二人共無事だったようね」
「ええ冬鬼姫のおかげで助かりましたわ」
冬鬼姫? そっ、そうだ。この声は冬鬼姫の声、って冬花姉様? ひょっとして冬鬼姫と彩花さんって姉妹なのか……。
「その呼び名はあまり好きではない」
「そうですか……冬花姉様、まさか貴方が冬鬼姫だったとは夢にも思いませんでしたわ」
「そう、でもそう」
「姉様が闇博打の代打ちをしていたなんて信じられません」
「じゃあ彩花は何をしているの?」
「えっ、わっ、わたくしですか……」
珍しく彩花さんの声は動揺していた。
「人に言えるような事しているの? あんなとこに顔を出しておいて」
「うっ……わっ、わたくしは、ペテン師を少々……」
「そう、母さん天国で泣いているわね」
「おっ、お言葉ですがね冬花姉様。私は好きでペテン師なんてやっている訳ではありません。あくまでも足掛かりです、もっと大きな野望の為にはお金が必要なのです。母が亡くなったあの日、私達姉妹は母の墓前で誓い合いましたよね。この国で一番の富を得ようと。その誓いの為に約束もしたはずです、自分の道の前に例え姉妹が立ちはだかろうとも妙な情けは一切掛けないと。今日の冬花姉様はどうですか、私を目前にして貴方は逃げましたよね。それが私には不快でなりませんわ」
「そう、あまり興味ない」
「ほんと姉様は相変わらずですね……そのようでは他の姉様がたに足元をすくわれますわよ」
「気を付ける、足元を良く見て歩くように心掛けるわ」
「ふっ、ふざけないでください!」
「別にふざけてはいない。彩花、久しぶりに貴方の顔を見たけど昔より表情がきつくなっている。昔はまだ貴方って穏やかな表情をしていた。もう少し肩の力を抜いて生きた方がいい」
「大きなお世話ですわ……」
「そう、そうね。今日はもう帰るわ、貴方とはまた何れ何処かで会えるでしょうから」
冬鬼姫の声を聞いたのはこれが最後、彼女の足音はトイレ内から遠ざかっていった。
何がなんだか良くわからないが、先程の会話を聞いてわかったことと言えば、彩花さんと冬鬼姫は姉妹で間違いなさそうだ。
それと彩花さんには冬鬼姫以外にもまだ姉妹がいる。その姉妹達と亡き母の墓前でこの国で一番の富を得ようと誓い合った。
この国で一番の富ねぇ……なんだろう、とんでもなくスケールの大きな話しを聞いた気がする。まるで戦国武将の野望みたいだ。
「ドサッ」
そんなことを考えていると個室の天井の隙間から買い物袋が投げ込まれる。
「長谷川さんそこにいるのでしょう。買ってきましたので早く着替えてください、脱いだズボンとパンツはその袋に入れて持ち帰ってくださいね」
「はっ、はい!」
「私はタクシーを待たせていますので先に乗って待っていますよ」
「はっ、はーい!」
気さくに返事をすると買い物袋の中に入っていた白色のトランクスと黒色のハーフパンツを取り出し着替える。それから湿ったジーパンと濡れたパンツを買い物袋に入れやっとこさトイレから出ることが出来た。
公園の前にはタクシーがハザードランプを点滅させ停車している。トイレに入る前はまだ薄暗かった公園内も今ではすっかり暗くなっていた。
タクシーに駆け寄り後部座席の方から乗り込む。彩花さんは後部座席の奥側に座っていて車窓から何かを思い詰めるような表情で外の景色を見つめていた。
「彩花さん、いろいろとご迷惑をおかけしてすみません」
「お気にならさらずに、それでは行きましょうか」
「はい」
(…………)
俺が返事をした後、タクシー内は数分間静まり返った。
「長谷川さん、行き先を告げないとタクシーは動きませんよ」
「行き先? 戻るんじゃないんですか」
俺を見て彩花さん「はあ……」と深い溜息を吐いた。
「病院に行くのでしょう、病院名を言わないと」
病院? 紅音のことを忘れていた訳じゃない。だけど彩花さんと交わした条件を俺は満たしてはいない。ゲームが終わるまで正気でいたら三千万を貸してくれるという条件だった。
しかし俺は正気ではいられなかったはず、その証拠の品もしっかりと自分の左手で握っている。だからって紅音のことを諦めた訳ではないが一度家に帰りもう一度何か策がないか探してみようと思っていたとこだった。
「いっ、いいんですか? 俺は正気でいられなかったんですよ……」
「まだお金を出すとは言っていませんよ、ただ貴方がここまでして助けたい女性ってのを一目見たくなりましてね」
単なる気紛れか、もっと彩花さんは利己的な人だと思っていたが、運転席側のデジタル時計に目をやると時刻は『午後七時』。一般客の見舞いは確か午後八時までだったはず。
「彩花さん時間が時間ですので後日でも」
「長谷川さん、私の気の変わらないうちに早く行き先を告げてください」
「じゃ、じゃあ、里ヶ崎共立病院まで!」
「畏まりました」とタクシーは走り出す。
彩花さんの表情は冷静に見えたが何処かイラついてる気もして先程トイレ内で聞いた会話のことには一切触れなかった。
車内で会話もないまま病院に着いた時刻は『午後七時四十分』。タクシーを降りて玄関から一階のロビーに入ると人気はなく。静まり返ったロビーからエレベーターへと乗り込んだ。
『3F』のボタンを押し、上にある数字盤でもぼーっと見つめることしばし「チーン」と鳴る到着音と共に開かれたドアから三階の病棟へと出ると、目の前のナースステーションから看護婦さんが一人顔を出した。
「健くんじゃない。どうしたのこんな時間に、一般客の見舞い時間は……って、えっ……」
顔を出したのは美香さん、美香さんは俺ではなく隣に立つ彩花さんを見て唖然としていた。
「すいません美香さん、紅音に用があって、大目に見てもらえませんか」
「あっ……えっ……うっ、うん……」
言葉が出ないのか美香さんは唖然とした表情のまま頷いた。
今の美香さんの反応はわからなくもない。俺が彩花さんを連れているから変な勘違いをしているって訳ではないだろう。そもそも変な勘違いをしようにも俺と彩花さんでは不釣り合いだ。
彩花さんはただの美人ではなく、着ている服のセンスか、それともそもそものオーラが違うのか美人な上に圧倒的な品格がある。美香さんは女として純粋に彩花さんに見蕩れているのだろう。
ならば美香さんには悪いが今の内にと紅音の病室へと足を進める。道中すれ違う入院患者や看護婦さん達も彩花さんを見て美香さんと同じ反応をしていた。
『301号室』、病室のドアを開けると紅音はヘッドボードに背を預け俺達が来るのをまるでわかっていたかのようにこちらを見ていた。
「こんな遅くに悪いな」
紅音は首を横に振り、後から入って来た彩花さんに視線を向けるが別段驚く様子は見せない。
「見てたから、健一達がタクシーを降りて病院に向かって来てるの」
どうりでだ、確かにここの病室の窓からなら見える。来るのが事前にわかっていたんだな。
「ちょっと紅音に用があって来たんだ」
そう言ってベッドに近寄り紅音に向かい立つ。
「わかってる、早苗に聞いたんでしょう。じゃないとこんな時間に健一は来ないよ」
「ああ聞いた、でもそうじゃないんだ。今日はお前に会いたいって人を連れて来たんだ」
「私に?」
紅音は視線を彩花さんの方に移す。彩花さんは病室の窓辺で下顎に手を添え紅音をじっと見ていた。
「彩城彩花さん、歳は俺らよりひとつ上で俺の知人だ。彩花さんがお前に会いたいって言うから連れて来たんだ」
「知人ですか……」
彩花さんは意味深に呟く。
「はっ、はい?」
「貴方は先程、私の名前を呼び続け私を強く求めていたじゃないですか」
銃をこめかみに突き付けられた時のことか。確かに彩花さんを強く求めたが今のタイミングで言うことではないだろう!
「ちょ、ちょっと彩花さん、紅音が変な誤解をするのでやめてください」
「誤解?」
彩花さんは紅音が足を向けている側、フッドボードに肘を乗せ頬杖をついた。
「長谷川さんと紅音さんはお付き合いしているのですか?」
「つぅ、付き合ってはいません」
「長谷川さんには聞いていません、私は紅音さんに聞いているのですよ」
なんて意地悪な質問だ、紅音はしばらく彩花さんを見て頬を赤らめ俯いた。
「付き合っています」
「おっ、おい! 冗談だよな紅音、俺達付き合ってなんか……」
「長谷川さん、女性の気持ちを男性の方から否定するものではありません。それに長谷川さんも紅音さんのことが好きなのでしょう? 嫌いなら今日の貴方の行動は一体何の為なのでしょうか」
「そっ、それは……」
今やっと自分の素直な気持ちに気付いた。俺は恋愛対象としても紅音のことが好きなんだ……でも今はそれより優先すべきことがある。好きだからこそ紅音のことを助けたい。
「今日の行動? 健一が何かしたんですか」
「ええ、貴方を助けようとわたくしに」
「彩花さん! それは言わなくてもいいでしょう」
彩花さんは俺を見てニヤリと微笑む。
「そうですね、男性を立てなければ。それが女性の情け」
「情けって……」
「では長居する訳にもいきませんので紅音さん、貴方にひとつだけお聞きしたいことがあります」
「なんでしょうか……」
彩花さんの強い眼力に圧倒されたのか紅音は緊張しているようだった。
「事情は長谷川さんに聞きました。紅音さん、貴方本当にそんな理由で死んでもよろしいのでしょうか」
「そんな理由?」
「ええ、貴方は周りに迷惑を掛けるからと手術を諦めた。聞こえはいいですがそんなお人好しな理由で生きるのを諦めてもよろしいのでしょうか」
「初対面なのに失礼じゃ……私は私なりに考えたんです」
「何を考えたのですか? 潔く死ぬ理由でしょうか」
「彩花さん!」
「長谷川さんは黙ってください。私は紅音さんに聞いているのです」
気の強そうな瞳で彩花さんは俺を睨みつける。彼女の言ってることが全て間違ってるとは思わないがそれでも言い過ぎだ!
「貴方に私の気持ちの何がわかるの……」
紅音は俯いたままぼそっと呟く。
「ええわかりませんね。ですが先程長谷川さんと付き合ってるって言われましたよね、あれは私に対する妬みからでしょうか? 私は本音だと見ましたけど」
「どっちでもいいじゃないですか……」
「いいえ良くありませんね。紅音さんは長谷川さんのことが好きなのでしょう? ならば長谷川さんの気持ちはどうなるのでしょうか。自分を好きだと思われてる方が生きる希望を持っていない。こんな悲しいことはありませんよ」
「仕方ないんです……」
そう呟く紅音の瞳からは大粒の涙が溢れていた。
「何が仕方ないのでしょうか」
紅音は顔を上げると彩花さんを睨みつけた。
「私調べたんです。例え肺の移植手術に成功しても、健康な身体に戻れる訳ではありません。生きていても皆に迷惑を掛けるだけなんですよ! 両親、妹、健一やひよ子ちゃんにも……そこまでして私は生きたくないんです!」
「なる程、手術に成功しても周りに迷惑を掛けるくらいなら死んだ方がましだと」
肩をヒクつかせ目元を右手で拭う紅音を見て、彩花さんは……笑った。まるで悪魔が微笑むかのように。
「長谷川さん、私気が変わりました」
「えっ……」
彩花さんは俺を見てニヤリと微笑む。
「貴方にではなく、紅音さん個人に海外での移植手術費として五千万円お貸し致しましょう。後は長谷川さんに紅音さんの説得はお任せします」
「紅音個人に? それはダメです。俺に貸してください」
「いいえ、紅音さんはもう立派な大人です、自分の負担は自分で背負うべきです」
「もし、手術に失敗したら……」
言ったのは紅音だった。
「その時は私の負けです」
彩花さんは病室のドアの前で立ち止まり背中を向けたまま呟く。
「さっ、彩花さん!」
「長谷川さん、私は一階のロビーでお待ちしていますのでごゆっくり」
そう告げると彩花さんは病室から出て行った。
彩花さんが退室した後もしばらく病室のドアを見つめていたら紅音の声が聞こえてきた。
「健一、ごめん……あの人に断ってくれないかな」
「どうして……五千万の負担がきついなら俺が代わりに背負うから」
振り返ると紅音は病室の窓から普段よりも星が輝いている夜の空を見上げていた。
「どっちでも結局一緒なんだよ。あの人にお金を借りるのも気が引けるし健一にも迷惑掛けれないよ」
「俺は迷惑だとは思っていない、彩花さんも迷惑だなんて思っていないはずだぞ」
「嘘だよ……普通に考えておかしいよ。だって初対面の私に普通大金を貸すだなんて言わないよ」
「そっ、そりゃあそうだけど、あの人はちょっと特殊なんだ。普段は何を考えているかわからないしやることも無茶苦茶な人だけど……変なとこは信用できるというか、自分の信念を突き通す人なんだよ。それに紅音、心配しなくても彩花さんはお金持ちだから大丈夫だ。たぶん……」
「健一は怖くないの?」
「怖い?」
紅音は俺に視線を向けコクっと頷く。
「以前健一から彩花さんのことを聞いた時も怖いという印象はあったの。今日実際会ってみてあんな綺麗な人なのに顔を合わせている時は何故か怖かった……」
「わからなくもないかな……俺も以前は彩花さんのことが怖かったけど付き合ってみたら男気があっていい女性だぞ」
「違う、そういった怖さじゃないの。あの人は天使のように見えて悪魔……私には死神が気紛れに笑ったように見えたの」
紅音の目の錯覚ではない。俺にもそう見えた。しかし彩花さんと付き合っている内にそれとなくわかってきたことがある。
「紅音、これはチャンスなんだよ」
「チャンス?」
「ああ、紅音が生きるチャンスを彩花さんは与えてくれたんだよ」
「だから健一、私はあの人のことが……」
「紅音、良く聞いてくれ」
俺はベッドの上に両手をつき紅音の顔をまじまじと見つめた。
「世の中は公平そうに見えても均等に幸せや不幸は訪れない。幸せの方が多い人もいるだろうし、不幸の方が多い人もいる。それは感覚だったり、日頃の行いを見て自業自得だって言う人もいるだろう。でもな、そんなのわからないだろう……どういう道を選べば幸せなのか不幸なのか。そんなのがわかっているなら皆幸せなはずだ。だけどな、わからなくてもいいんだよ。わからないからこそ自分に正直に生きるべきだと俺は彩花さんを見て思い知らされたんだ」
彩花さんは野望の為なのかもしれないが好きで今のような生き方をしている。じゃないと自分を賭けてゲームなんてできない。俺が経験して良くわかった。
自分に正直に生きているからこそあれだけの覚悟ができるんだ。
「それに紅音、今のお前を助けられるのはあの人だけなんだよ。天使がいたとして万人にリンゴをひとつずつ配ってもそれじゃあ満たされない連中だっている。だけどそれは欲じゃない。生きる為に後リンゴのひとつやふたつどうしても必要としている人達だっているんだ。ただ天使はくれないぞ、『平等』という絶対的な建前がある。奇跡が起きるなら気紛れに悪魔が微笑んだ時なんだ」
「悪魔が気紛れに?」
「ああ、誰にでも微笑みかける訳じゃない。でも今は紅音に微笑みかけているんだ。これは生きる為の最後のチャンスなんだよ」
「でも私もうそんなに長くはないんだよ……」
「早苗ちゃんに聞いたぞ、国内はドナーがないけど海外なら紅音に合うドナーがあるんだろう。彩花さんが金を貸してくれるって言ってるんだし海外で手術を受けてくれよ」
「でも……」
「自分に正直になれよ。紅音が死んだら早苗ちゃんはどうするんだ? ひよ子だって悲しむし俺だって……お前がいない先の人生なんて考えられないんだよ!」
「健一……」
俺だって自分に正直に生きる。紅音は俺にとっては必要な存在なんだ。
「紅音、頼むから正直に言ってくれ」
「私だって……私だって……皆と会えなくなるのは嫌だよ……」
「じゃあ受けてくれるな」
紅音は目元に右腕をあてたままコクっと頷いた。
「良かった……」
それを見た俺は安心からホッと胸を撫で下ろした。やっと生きた心地がした。
「健一、私もう大丈夫だから。あの人のとこに行ってあげて」
そうだ、彩花さんを待たせていたことをすっかり忘れていた。
「紅音、じゃあ俺もう行くから、また来るからな」
「うん」
泣き疲れたのか紅音は顔を上げるとニコッと俺に微笑みかけてくれた。久しぶりに見た気がする。紅音が心から笑っている顔を。その表情に安心した俺は紅音に手を振り病室を後にした。
三階のエレーベーターに急ぐ、ナースステーションの前を通ると美香さんが慌てて駆け寄ってきた。
「けっ、健一君。あんな綺麗な人と紅音ちゃんの病室で一体何をしていたの」
美香さんの表情は真剣そのもの、彩花さんの魔法は解けてしまったようである。
「別に何もしていません。美香さん、これからも紅音の事をよろしくお願いします」
「これからって……まさか健一君、紅音ちゃんのこと知っちゃった?」
「それはあえて何も言いません。俺、美香さんのこと見直しました。やっぱり美香さんって看護婦さんだったんですね」
美香さんは紅音の本当の病気を知っていて俺は数年間毎週この人と顔を合わせているのにまったく気付かなかった。
お喋りな美香さんが患者の為に数年間も平静を装っていたと思うとプロ根性を感じる。俺は目の前に立つ美香さんの肩をひとつポンと叩いた。
「感動しました」
首を傾げる美香さんを尻目にエレベーターへと乗り込む。ドアが閉まる寸前ぼそっと呟く美香さんの声が聞こえてきた。
「看護婦さんだったんですねって無職の健一君に言われたくないわよ……」
(…………)
紅音の奴俺のこと美香さんに話してたんだな……。
「チン」という到着音と共に一階のロビーに出た俺は周囲を見渡すのだが彩花さんの姿が何処にも見当たらない。病院の外に出るといた。
彩花さんは病院の前にある中庭のベンチに座っていた。
慌てて駆け寄る俺に気付いたのか彩花さんは振り返る、彼女の隣には俺がトイレで処理したビニール袋が置かれていた。
「すいません、待たせたみたいで」
「いえいえ、いつになるかわかりませんでしたのでタクシーは先に帰らせました」
「そうでしたか、すいません……」
申し訳なく彩花さんの隣にあるビニール袋を掴むと俺もベンチに腰を下ろした。
「長谷川さん、彼女は手術を受けると言われましたか」
「はっ、はい! なんてお礼を言っていいか、俺一人じゃどうにもできなかったですし全て彩花さんのおかげですよ。ありがとうございます」
「私のおかげですか……」
彩花さんは夜の空を見上げながら有耶無耶な表情で呟く。
「どうかされましたか?」
「いえ、職業柄でしょうか人に感謝されることに免疫がなくて」
「そっ、そうですか……そうですよね」
ペテン師なんて普段は人を騙しているんだ。確かに感謝はされないだろうな……。
「変な質問なんですけど彩花さんって心から喜んだり楽しいと思われたことってありますか?」
「ここ数年はないですね、今も私のおかげと言われて多少イラついています」
「はは……」
苦笑い、それ以外の選択肢が思い浮かばなかった。
「ふふ、ふふふふ」
何故か彩花さんも笑い出す。前屈みになりながら肩をヒクつかせしばらく彼女は笑い続けた。
「私って変人ですよね、自覚がある分まだましなのでしょうか」
そう言って彩花さんは立ち上がる。
「長谷川さん今から少しお付き合いください、急に母の墓参りに行きたくなりました」
「えっ……」
「嫌、でしょうか?」
「いえ、付き合いますけど……」
「では行きましょう」
断る理由もなかったが断る暇もなかった。
一人先を歩いて行く彩花さんを俺は慌てて追い掛ける。街中の病院だったのですぐにタクシーは拾えたが乗り込んだ時には時刻は『午後九時』を少し過ぎていた。
こんな時間に墓参りとはやはり彩花さんは変わってらっしゃる……。