第三章
第三章 幼馴染
街灯が疎らな夜の田舎道を歩いて行く、昼間とは違い若干不気味さを漂わせる自宅までの道のりも今の俺にはなんて事はない。上着のポケットに入っている札束効果か知らんが今なら何でもできそうな気がした。いやあ、人間金があるとこうも違うものなのかね。
軽快な足取りであっという間に自宅の前まで来た俺は売り場の入口のドアをそーっとスライドさせる。売り場の電気は消えていてどうやら今日は早めに店を閉めたらしい。これまたそーっと足音を立てないようにして売り場の中へと入った俺は売り場の奥、居間の方にと足を進めて行く。目先に見える居間のガラス戸からは居間の電気が点いているのを確認できた。
店番を途中でほっぽり出した俺としては今のタイミングで親と遭遇するのは非常に気まずい。しかし悲しい事にうちには玄関が存在しないのだ。
家の入口がそのまま店の入口となっている為に自分の部屋に行くにはこの目先にある居間を通らないといけないのである。
一応家の裏手に勝手口はあるが、そこは台所のドアであり、台所を出ると居間なのでどちらにしろ俺はこの居間を通らないといけない。ならば理想は家族全員が夕食を済ませて母親は奥の台所で食器洗いをしていて、父親と妹は個々の部屋で寛いでいる、これが理想だ。
そうである事を願いながら居間のガラス戸をスライドさせた。
ガラガラガラッ。
「あっ、お母さん、健一帰ってきたよ」
(くっ…………)
今俺の目の前にいる黒髪ショートカットの気の強そうな瞳をした少女が『長谷川ひよ子』九歳、小学五年生になる俺の妹だ。
ちなみに母親は呼ばずとも険悪な表情で居間の真ん中に置いてあるちゃぶ台の右側に座っている。左側には父親が座っており、ちゃぶ台の上には料理など並んでいない。どうやらこれから楽しい夕食って訳ではなさそうだ。
「たっ、ただいま……」
今まで無敵だったはずの俺はここに来て急に気分が重くなる。この険悪な雰囲気に妹のニンマリ笑顔、これが何を意味するのかは明白だった。
(うちの母親、とうとう父親に密告しやがった!)
「健一、お父さんが貴方に話しがあるって」
いや、お父さんがではないだろう。お母さんからお父さんに俺を叱ってくれと言ったんじゃないのか、なあ、お袋よ……。
しかし、今更逃げ出す訳にもいかないので俺は覚悟を決めて空いていたちゃぶ台の手前側へと腰を下ろした。
「コホン」
わざとらしい父親の咳払いがこの場の緊張感をより一層高める。正面に座っている妹が口を右手で覆いながら俺を見て嬉しそうに笑っていた。
「健一、今日のお昼にね隣の佐々木さんの奥さんがうちにいらしたの知ってる?」
佐々木さんの奥さんと言えばカレーを作ろうという日にカレー粉を買い忘れてうちに買いに来る程のうっかり主婦じゃないか。
「えっ、来てたんだ。きっ、気付かなかったよ」
『知らなかったなんて』言えるはずもなく俺は適当にはぐらかした。
「気付かなかったんじゃなくて知らなかったんでしょう。佐々木さんの奥さん貴方いなかったって言ってらしたし」
「えっ、あっ、ちょっと用事があって出てたんだよね……」
「健一、それとこれ」
母親は「ドン」っとちゃぶ台の上に何やらアイスの棒らしき物を置いてくる。棒の表面を見てみると幼い子供が書いたような手書きの文字で『あたりあとさんぽんばか』と記載されていた。
「お母さん調べてみたら確かにアイスが三本なくなっていたのよ、お金も置いてなかったし」
あっ、あのクソガキ……人が大目に見てれば調子に乗りやがって!
「これ子供の字でしょ? 幼い子の仕業ね」
「そっ、そうかな? 最近の子はこういうイタズラもするんだね、ははは……」
すげぇな、うちの母親いい名探偵になれるよ。
「初犯じゃないわね」
「はいっ?」
母親がアイスの棒を握りその先端を俺の鼻先に突き付けてくる。突然の事に俺は背筋をピンと伸ばすと自分の鼻先に視線を落とした。
「一度やって味をしめたから三本なんて書いているのよこの子、でもねこの子が悪い訳じゃない。ちゃんと店番をしてれば見ててあげれたし注意もできたはずよ。子供の間違いを正すのは大人の役目です、健一、貴方なにか思い当たる節があるわね」
「…………」
おーい、ワトソン君、ワトソン君は何処にいるんだ? 隠れてないで出て来ておくれ。
「佐々木さんの奥さんには鍵をかけずに店を空けて泥棒にでも入られたらどうするのと言われたわよ」
やはり鍵をかけずに店を出たのはまずかったか……。
「もういいわ」
母親は投げやり気味にそう言うとアイスの棒を置き哀れみの表情で俺を見つめる。
「健一、あんた、店番ひとつもまともにできないの」
「くっ……」
母親が放つアルテミスの矢が俺の心の臓を貫く、実の親に正面を切って無能だと言われた俺は目先で爆笑している妹を見つめながら苦笑いを浮かべた。
「まあ母さん、健一にも理由があるかもしれないから聞いてみようじゃないか」
唯一の救いは父親が頑固者ではなくどちらかというと草食系だってとこか、こういうタイプが怒れば一番怖いのかもしれないが。
「暇だったからその辺をぶらっとね……」
正直に言う必要はない。誰が橋の上で美女と出会ってカジノ建設予定地の高級ホテル内でカードゲームをしてましたなんて信じるだろうか。俺が親の立場でも信じないだろう。
「店を空けた理由がそれなのね」
俺は正座をしたまま母親に向かって深々と頭を下げた。
「すいませんでした!」
弁解の余地はなし、こういう時は素直に謝るのが一番手っ取り早い。畳に額を付けて顔を伏せていると「コホン」と父親のわざとらしい咳払いがまた聞こえてきた。
「健一、顔を上げなさない」
いよいよ判決の時か、顔を上げると父親の方に向き直った。
「父さんが今までお前に何も言わなかったのはお前にだってやりたい事があるだろうから、それが見つかるまでと思い何も言わなかったんだ。だけどな健一、どうやら父さんも母さんもお前の事を少々甘やかしすぎていたようだ」
「はっ、はあ……」
十七歳とはいえ俺だっていい大人だ、両親にこうまで言われると自分が情けなくもなってくる。
「じゃあ俺はどうすれば?」
父親にアドバイスを求めると父親は何の迷いも躊躇もなく答えてくれた。
「何でもいい、バイトでもいいからとりあえず働くんだ。やりたい事が見つかったらその時また考えればいい」
『働くんだ、働くんだ、働くんだ』
父親のこの言葉がいつまで経っても脳裏から離れない。気が付けば俺は自室のベッドの上で仰向けに寝転がっていた。
自室の白い天井板を見つめながら考える。とりあえず「わかった」とは返事したものの俺自身納得はしていない。ただあの状況で「嫌だ」とは言えなかっただけだ。
「やりたい事ねぇ……」
目先の天井に独り言を投げ掛ける。と、上着の胸ポケットからスーっと何かが滑り落ちてくる。俺はすぐさま上半身を起こしてそれに目をやった。
「金、金だ」
百万円だ。覚えている、いや、今鮮明に思い出した。俺は百万円を手に入れたんだ。
「ガチャッ」
突然、誰かが自室のドアノブを回す音が聞こえる、俺は慌てて札束を覆うように身を屈めた。
(誰だ、母親か?)
「ぷっ、いじけて泣いているのかと思ったらお前何やってんだよ」
(なんだ妹か……)
母親じゃないだけましだが何故このタイミングなんだよ……今の俺は部屋の入口に尻を向けている状態だった。
「なっ、何か用か?」
「人に尻向けて喋るなよお、気持ちの悪い奴だなあ」
気持ち悪いとか兄貴に言う台詞か?
本来なら妹の方に向き直りじっくり説教といきたいとこだが今は腹の下に札束がある。当然だが妹には見られたくはない。それこそ母親にちくられたら最悪だ。
「悪かったな……用がないならさっさと出てけよ」
一刻も早く妹を部屋から追い出そうと適当にあしらうのだが、
「お金返せよ」
「は?」
「お前ひよ子が学校行ってる間にひよ子の部屋入ってお金取っただろう、鍵付きの引き出しに入れてたのにどうやって鍵見つけたんだよお」
「とっ、取ってねぇよ!」
「はい嘘お、ひよ子お年玉貯めてたんだよお、こないだ引き出し見たら千円なくなってたんだよお」
「知るか」
「お母さんに言おうかな」
「くっ……」
ほんと何でこのタイミングなんだ。
ここだけの話しだが一昨日の事だ。とあるネットゲームの正式サービス開始に備えてどうしてもお菓子とジュースを備蓄しときたかった俺は止む終えず妹の部屋に侵入した。
鍵なんてのは兄貴の特権じゃないが部屋中隅々まで探せば簡単に見つかるものだ。実際はベットの下にあって速攻で見つけたけどな。
うちの妹はドが付く程のケチだから部屋の何処かに金銭を隠し持っているのは容易に予想できたんだ。しかし迂闊だった、こうも早くバレるとは計算外だった……。
妹のしっかりしているとこは母親に似ているんだろうな。うちも店をやってるからお菓子とジュースなんて売り場に行けばいくらでも置いてある。だが、母親が常に商品数と売れた商品の数をチエックしているので無銭で持っていけばすぐにバレてしまうのだ。
バレるとどうなるのかって? そんなの考えるだけで恐ろしい……。
「か、返そうとは思ってたんだよ」
これは本音だ、妹から金を借りる時は毎回そう思っている。
「もう何度同じ台詞を聞いたことか、さっさと返せよニート」
今わかった事がある。俺がいつも妹に対して下手に出てしまうのは職がないのと金がないことが原因だな。
「ふふふ」
「なっ、なんだよ……ウミガメの産卵みたいなポーズして急に笑うなよお、ほんと気持ち悪い奴だなあ」
なんとでも言えばいいさ、今の俺には職はないが金はあるんだ。
「明日だ」
「明日?」
「ああ、明日になれば十倍にして返してやる」
「まっ、まじかあ……」
妹の動揺する声に俺は思わず頬が緩む、ひよ子が驚くのも無理はない。この俺が十倍もの利子を付けて返すと言っているのだからな。
「どっからそんな金出てくるんだよお」
金の出処か、気になるのはわかるが例え妹でも教える訳にはいかない。
「何処でもいいだろう、返すのは返すんだから早く俺の部屋から出て行けよ」
「明日までだぞ」
「ああ」
「返さなかったらお母さんに言うからなあ」
「ああ」
しばらくして「ガチャ」っとドアの閉まる音が聞こえる。俺はすぐさま起き上がり札束を手に持つと、(何処だ、何処に隠せばいい)
部屋中を見渡す。
すぐに思いつくのはタンスの中やベッドの下だが、この辺は在り来たりすぎる。よく漫画やアニメで見るが『赤点のテスト』や『ちょっとエッチな本』をそこに隠して高確率で母親に見つかっているではないか。つまり誰でも思いつくようなとこは危険。
ふっと、部屋の奥隅にあるガキの頃に使っていた机が目に入る。右下の二番目の引き出しには鍵が付いていた。
(ここか)
ひよ子ではないが、なんだかんだで一番安全だ。
わざわざ錠を壊してまで開けようとする奴もいないだろうし、もし仮に鍵が見つかったとしても開けようとは思わないだろう。どちらにしろ俺はほぼ四六時中自室にはいる。
ちょっと部屋を空けた時に母親や妹が部屋に入ったとしてもあそこなら大丈夫なはず、そう思い俺は部屋の奥隅にある机に向かい鍵付きの引き出しを開こうとした時だった。
「みーちゃった」
突然聞こえる背後からの声、振り返ると自室のドアが少しだけ開いていて隙間からは妹が満面の笑みを浮かべていた。
「お母さん!」
すぐにドアが閉まり廊下からひよ子の声が聞こえる。俺は札束を引き出しの中に入れると慌てて廊下に出て妹を抱き抱えた。
「なっ、なにするんだよお!」
少々強引ではあったが妹を抱き抱えたまま自分の部屋に入ると妹をベッドの上に座らせる。
「おっ、幼い少女を誘拐すんのは犯罪だぞお」
「兄貴の部屋を除き見するのは犯罪じゃないのか」
俺は床に正座をして妹を見上げた。
「みっ、見たのか?」
「なにも見てないよお」
とぼけやがって、妹は目を泳がせながら明らかに動揺している。俺もいちいちわかりきっている事を質問すべきじゃなかった。
「嘘つけ!」
「嘘じゃないよお」
っぅ……このままじゃキリがない、そもそも俺はなんで妹に怯えている。
「ひよ子、じゃあなんでさっきお母さんを呼ぼうとしたんだ」
答えは簡単だった母親にバレると面倒だからだ。
「だってお前から犯罪の匂いがしたからあ……」
ひよ子は頬を赤らめ切なそうに呟く、なんて兄思いの妹なのだろうか、こいつをこのままほっとくと近い未来、俺にとんでもない災難が降りかかるであろう。
「やっぱり見たんだな?」
「なあ兄貴、自首しろよ今ならまだ間に合うって」
可愛い妹は俺の目を真っ直ぐに見据えそう言った。
「ひよ子、俺が何をやったと思ってんだよ……」
「強盗とか空き巣に決まってんだろ、犯人は大抵無職だし」
賢い妹だと思っていたが、案外ベタな勘違いをしているんだな。
「ひよ子、俺の目を良く見ろ」
そう言って俺は自分の顔を指差した。
「俺が、空き巣や強盗をやれると思うのか?」
しばらく俺の顔をじっと見つめていた妹は急に力が抜けたように肩を落とすと「はあ……」と深い溜息を吐く。
「妹の部屋で小銭漁りするのが関の山か、お前にそんな度胸はなさそうだしな」
(…………)
この発言はこの発言で不快に思うが、それでも納得してもらえただけ十分か。
「じゃあさっきの金どうしたんだよお」
誤解を招かず妹が納得する答えそれが理想だ。
「友人から預かってくれって」
「お前友人いないじゃん」
「っぅ……」
今の言葉は少々心の奥に響いたぞ。
「もういいだろう、明日十倍にして返すんだからお前には関係ないだろう」
「ふーん、どうでもいいけど、それってやばい金じゃないのかよお」
俺もそれに対しては少々引っ掛かるとこがあった。
「お前もそう思うか?」
例え幼い妹といえ唯一の肉親である事に変わりない。ここは素直に理由を話すのもありか。
「さあね、どうでもいいよお。ひよ子はお金さえ返してもらえれば」
今まで興味深々だったはずの妹はヒョイっと立ち上がると部屋のドアへと向かって歩いて行く。
「おいひよ子、お母さんには内緒だからな」
「ちゃんと金返すならなあ」
そう言って妹は俺の部屋から出て行った。なんて現金な奴だろうか……。
「ガチャッ」とドアが閉まったのを確認したとこで札束を入れた引き出しの鍵を閉める。それからベットの上に寝転がるとまた白い天井板を見つめた。
(今日はいろいろあって疲れた……)
今日手に入れた金はひよ子も感じていた通り使うにしては少々怖いものがある。彩花さんが俺に分け前としてくれた金ではあるが……やはり両親の忠告を聞いて真面目に働くべきか。
ええい、今日はもう考えるのはやめにした。明日だ、明日。こんがらがる頭を落ち着かせようとこの日はそのまま眠りについた。
翌日、いつもより早く起床した俺は下の階に行き洗面所で顔を洗い歯を磨く、ふと鏡を見ると寝癖のせいか髪型が野口英世とかぶっていたので髪もとかした。
それから風呂場の脱衣所で服を脱ぎ下着のまま二階の自室に上がると箪笥の中から紺色のティーシャツとジーパンを取り出しティーシャツを着ながらパソコンの電源をつけた。
ジーパンを履きながら『太陽光で立ちくらみを起こした』で検索してみる。
「なっ、なにぃ! 太陽光は体にいいだと……」
検索結果を目の当たりにした俺は誰もいない部屋でひとり声を響かせた。
おかしい、そうなるともっと根本的な所か。今度は『立ちくらみの原因』で検索してみる。
(うーん……)
結構な数が検索結果に引っ掛かったが根本的な原因となると『低血圧や貧血』が多いみたいだ。更に俺は『貧血対策』で検索して『レバー』というキーワードに行き着いた。
「ふふふ」
ひとり笑みを浮かべながら俺は感心して唸った。
「凄いよな」
レバーのことではない、インターネットの事だ。
なんと便利な世の中だろうか、ちょっとしたお悩み相談もマウス数クリックで解決してしまう。そりゃあ実際に行動に移さないと意味はないが答えがわかっただけでも十分だ。
「健一、ひよ子と早苗ちゃんが店の外で待ってるわよ」
インターネットの凄さを再確認していると下の階から母親の声が聞こえてくる。昨日は平日だと思っていたが、今朝になって今日が日曜日だとわかったとこだ。
平日であれば昨日の両親の忠告を聞き入れハローワークにでも行こうと思っていたのだが週末であれば仕方がない。常に暇な俺でも毎週この日曜日だけは欠かせない用事があるのだ。
早起きしたのもその為、身支度を済ませた俺は自室を出ると階段を下りて居間を抜け靴を履くと店の売り場から外へと出た。
ギラリと眩しい太陽の日差しを左手で爽やかに遮っていると右足に突然強烈な痛みが走る。
「いっ、いてぇな、急に何すんだよ!」
隣を見たら妹が蹴りを放った体勢で俺を睨みつけていた。
「遅いよお」
言ってる台詞の割には行動がえぐい。本来なら早朝から兄妹喧嘩といったとこだが今は分が悪い。俺はひよ子に秘密を握られているしそれに今は客人の目の前だ。
「健一お兄ちゃんおはようございます」
横着な妹の後ろから俺に深々とお辞儀をしている黒いショートカットにおっとりとした瞳の少女、この子は近所に住むひよ子の幼馴染であり親友でもある『時沢早苗』ちゃん十一歳の小学六年生だ。
「おはよう早苗ちゃん、今日は天気が良くてよかったね」
「はいっ」と快晴日和の空の下ニコッと微笑む早苗ちゃんが一瞬天から舞い降りた小さな天使に見えた。
そんな早苗ちゃんを見ていると思わず頬が緩む、うちの妹と違って早苗ちゃんはとても素直で良い子なのだ。
「早苗ちゃんこんな奴ほっといて行こお」
まだ早苗ちゃんに見とれているとこを妹が早苗ちゃんの手を引き俺の前から遠ざける。ひょこひょことショートカットの髪を揺らしながら先を歩く少女達の後ろを俺は一定の距離を保ちながら追い掛けた。
(可愛いなあ)
うちの妹ではない、早苗ちゃんがだ。
先程から表情が緩みっぱなしの俺だが変な誤解はしないで欲しい。なんにも日曜日の日課が幼い少女のウオッチングではないし、そういったロリコン的な趣味も持っていない、そうじゃなくとも片割れは妹なのだ。
早苗ちゃんはさて置きわざわざ憎き妹と一緒に出掛けているのには訳がある。その訳については後程詳しく話したいと思うのだが。
「おーい、お前ら今日は本屋に寄って行こう!」
叫ばないといけないこの距離感、俺的にはくっついて一緒に歩きたいのだが妹が嫌がる為、一定の距離を置いて歩いている。九歳の少女といえば難しい年頃だ、素晴らしい兄貴と一緒に歩くのが恥ずかしいのであろう。
「何だよぉ、変質者」
ひよ子は俺の方を振り返ると他人のように言った。
「ひよ子その言い方はいい加減やめてくれって言っただろう……」
周りを歩いていた通行人の視線が痛い、俺は慌てて妹のもとに駆け寄った。
「こないだもそうだ。お前が変な事言うから警察のおじさんに職務質問されたんだぞ」
「それはひよ子悪くないだろ、お前が本当に変質者に見えたんじゃないのぉ」
違う、知らばっくれているがこいつはこないだ俺の事を身売りしたんだ。
「じゃあ何故警察のおじさんが『兄貴さんだって言ってるけど違うの?』って質問した時にお前は『違う』と答えて逃げたんだ!」
「えっ、だって……」
「あれから色々と大変だったんだぞ、親に確認の電話されたりな」
「だって近所の目ってあるだろぉ」
「それはこっちの台詞だよ!」
ただでさえ近所の人が定職にも就かずだらだら過ごしている俺を見る目が冷たいと言うのに『変質者』なんて汚名を着せられたらこの先俺はどうやって生きていけばいいんだ。
「わかったよお、本屋行けばいいんだろぉ」
ひよ子は後頭部に両手をやり、ムッとした表情で仕方なさそうに呟く。何故こいつは俺に対して常に上から目線なのだ。
いっ、一応はこいつらの保護者として俺は付き添っているんだ。
「ああ、すまん」
だがまあ、最近思うんだ。
兄妹で仲良くやってくにはどちらかが折れる必要がある。横着な妹に対しての兄の資質ってのは耐え凌ぐ事ではないのかと。
少女達の先導に身を任せ春の蒼き空の下、歩道の脇に植えてある深い緑色をした街路樹を眺めながらのらりくらりと歩いて行く、しばらく歩くと見えてきた商店街にある老朽化が目立つ一軒の小さな本屋。
レトロ雰囲気漂う店内に入ると母親の倍くらい歳をとったお婆さんがひとりで店番をしていた。
「あら、ケンちゃんいらっしゃい」
俺はわりと本を読む、お婆さんが俺の名前を知っている通り、ここは俺の行きつけの本屋なのだ。
「お婆さんおはよう」
「はい、おはよう」
お婆さんは一瞬だけ店の入口に立つ俺達を見ると、レジ台の上に視線を落としまるでブリキ人形のように動かなくなる。同じ店番をする者として一度お婆さんに質問をした事があるんだ。
『お婆さん何もしないで店番するのも退屈でしょう、ここ本屋なんだから本でも読んでれば』と。
するとお婆さんはこう答えた。
『ケンちゃん、歳をとるとね時間なんてあっという間に過ぎていくの、朝起きたと思ったらもう夕方なのよ』
正直この答えを聞いた時、俺は驚愕したね。お婆さんの時間の感覚は一分が一秒ペースじゃないのかと、それと同時に俺は思った。俺が店番に集中できるはずがないよな、だってまだ若いんだし。
とまあ、そんな他愛もない思い出に浸りながら店の奥へと入って行こうとすると誰かが俺の腕を引っ張る。振り返るとひよ子が無愛想な表情で俺を見上げていた。
「どうかしたか?」
「お前金あんだから今日は一冊だけなんてケチな真似はするなよお」
ひよ子に借りていた金は今朝で全て精算した。約束通りの十倍返しでだ。
それともう一枚あの札束から夏目様を抜かせて貰った。なるべくなら手を付けたくなかったが今日は特別な日だ、なので金に余裕がない訳ではない。だが人間金があるからとそう簡単に生活スタイルが変わるものではない。深く染み込んだ貧乏性はそう簡単に抜けるものではないのだ。
「小説はボリュームがあるからな一冊で十分なんだよ」
「面白い本なんてあっという間に読み終わるだろお」
「お前何もわかってないな。余韻に浸る期間ってのも大事なんだ。一冊に込められた作者の思いってのかな。何度も読み返してみるのもまた面白いんだよ。新しい本があるとすぐそっちを読みたくなるからな」
「ただの言い訳だろお、早苗ちゃんが見てるよお」
(えっ?)
言い訳ではないが……後ろを振り返ると早苗ちゃんがぼーっとした表情で俺達を見ている。今までの会話をもしかして聞かれていたのか。
「ははは、本ってのはいくら読んでもいいんだよ。最近本離れなんて聞くけど、皆本の魅力を知らないんだよな。読めば読む程、教養と知性が身につくってのにな」
「お前が言っても説得力ないけどなあ」
一言余計だよ……。
今日は違うってのをこの二人に見せつけなくてはならない。俺は妹の見ている目の前でとあるライトノベルのシリーズ本を一巻から十巻まで一冊づつ手に取り積み重ね、重ねた本の両端を両手で挟みながら慎重にレジまで運んで行く。「ドン」とレジの台の上に大量の本を置くとさっきまでウトウトしていたお婆さんが顔を上げ、驚きの表情で俺を見上げていた。
「けっ、ケンちゃん、これ全部買うのかい?」
俺はお婆さんを真っ直ぐに見据え「はい」と深く頷いた。
「こりゃあ、たまげたわ」
そんなに驚くことか? と、次の瞬間、隣からも熱い視線を感じる。また妹かと隣を見てみれば妹ではなく、早苗ちゃんがまるで宇宙人でも見ているかのような不思議そうな表情で俺を見上げていた。
「早苗ちゃん、どうかした?」
早苗ちゃんは首を縦に振る。
「うん、いつも健一お兄ちゃん一冊しか本を買わないのに今日はいっぱい買ってるから驚いたの」
なんだろうか、ちょっと鼻高々な気分だ。
「たまにはね、奮発しようかなって」
俺がそう言った途端、早苗ちゃんの瞳が輝いた。
「今日の健一お兄ちゃんかっこいいです」
まっ、まさに早苗ちゃんは俺が思い描いていた理想の妹像であり、理想としていた言葉を掛けられた俺は天にも昇る気持ちであった。だが現実の妹がそんな俺を見てニヤつくや早苗ちゃんの耳元に口を近付けようとする。すぐに俺は妹の額を左手で抑えそれを制止した。
「ひよ子、お前達にも後で食事奢ってやるからな、なっ?」
別に強要された訳じゃないが強調する。俺にだって格好つけたい時はある。
妹はそんな俺を見て何か言いたげな表情をしていたが満面の笑みを浮かべると早苗ちゃんのもとから離れて行く。
「健一お兄ちゃんどうかしたのですか」
「えっ、なっ、なんでもない。ひよ子の奴おかしいよな、あははははは」
早苗ちゃんとひよ子とではまるで天使と悪魔くらいの違いがある、俺はなんでミニデビルの方に秘密を知られてしまったんだ。
今更だが不覚だった……。
「ケンちゃん、ありがとね」
お婆さんから釣り銭を受け取ると、大量のライトノベルが入ったビニール袋を手に持ち店内を後にした。
本屋を出るともと来た道を引き返しバス停でバスを待つ。バス停のベンチではひよ子と早苗ちゃんが楽しそうに会話しており、そんな二人を俺はバス停から少し離れた電信柱から温かい目で見守っていた。
三人で出掛ける時は他人から他人だと思われる距離感を保てと常日頃から妹に言われている。だからといって妹の言うことを頑なに守る必要もないのだろうが、守らなければ守らなかったでうちの妹は執念深くて後々面倒なのだ。
孤独にバスを待つ事しばし、街の中心部へと向かうバスが見えたとこで電信柱に別れを告げ他人のようによそよそしく二人の後からバスへと乗り込む。
ゆらりゆらりとバスに揺られる事しばし、街の中心部で下車した俺達はビルが立ち並ぶ通りを抜け街道から外れた公園へと続く桜並木道を歩いて行く、更にその公園内を通り抜けると見えてくる白い外壁の巨大な建物。先程の公園を通り抜けるとこの建物までの近道になると最近知った。
目の前に見えるこの建物がこの辺で一番大きな病院、俺達の目的地である『里ヶ崎共立病院』である。
この病院にはかれこれ五年間ほぼ毎週末通っている。だからって俺達の中に病人や怪我人がいる訳ではない。ちなみに言っておくが俺も至って健康だ。
じゃあ何故俺達がこの病院に毎週末通ってるのかというとこの病院には早苗ちゃんの姉である『時沢紅音』が入院しているからである。
ひよ子が早苗ちゃんと幼馴染であるように俺も紅音とは同い歳の幼馴染であり、小学生までは一緒に登下校し休日には一緒に遊ぶ事も多かった。
紅音に異変が起きたのは小学校六年生の頃だ、もともと紅音は体が強い方ではなかったがそれ程弱いという印象もなかった。だがそれは紅音が明るい性格だったから俺が一方的にそう思い込んでいたのだろう。紅音は突然学校を休み始め、しばらくして担任の先生から紅音が喘息で入院している事を聞かされた。
うちの両親も紅音の両親とはご近所付き合いで仲が良く、親づてで何処の病院に入院しているのかを知った俺は週末になれば自然とこの病院に足を運ぶようになっていた。
紅音の闘病生活は中学時代も続き高校進学までには完治できずに紅音は高校進学を諦めた。
今現在も紅音の闘病生活は続いている。前に一度紅音に言われたことがある、俺が高校に進学しなかったのは私のせいじゃないのかと。もちろん俺は違うと答えた。
しかし俺の本音としては紅音が高校にいけないのならという寂しい気持ちも何処かにはあったと思う。だがまあ、結局はそんなことは言い訳にしか過ぎない。高校に進学しても紅音の見舞いには行けたはずだし俺は自分の意志で高校には進学しなかったんだ。
なのに紅音のせいと少しでも考えた自分が情けない……。
病院の正門を通ると広大な駐車場、その奥側病院の前には芝生や木々が植えられており中庭の中央には噴水まで設置されている。この中庭の風景は紅音の病室からも眺められ、ついこないだ草木を眺めているだけで癒されるものだねと紅音と話していたとこだった。
中庭を散歩している患者の方々に軽く会釈しながら病院内へと入って行く、今日は日曜って事もあり一般外来の患者はいないみたいで、ロビーには見舞い客の姿がちらほらと見える程度だった。
早速エレベーターに乗り込んだ俺達は押し慣れた『3F』のボタンをひよ子が押す。「チン」とエレベーターの到着音と共に三階の病棟に出ると、目の前のナースステーションでは白衣の天使達が俺達を見てニコッと微笑んでいた。
「早苗ちゃん、ひよ子ちゃんいらっしゃい、健一君今日は紅音ちゃん朝から調子良さそうだったわよ」
ナイチンゲールの申し子達に名前で呼ばれるってのは大変喜ばしいことである。五年も通ったおかげで三階病棟のナース達とは妙な顔馴染みになった。
今俺達に声をかけてきたのが美香さん、茶髪にツインテールの垢抜けた雰囲気の女性。苗字は、えっと……『山下』、『山下美香』、胸元のネームプレートにそう書いてある。年齢は二十代前半、美香さんとの付き合いは古くこの病院では彼女がまだ看護学生だった頃からの付き合いだ。
新米の頃の美香さんは注射が苦手で手を震わせながら注射を打つ彼女を神に祈りながらよく見守っていたもんだ。
そんな美香さんも今や、
「早苗ちゃん、ひよ子ちゃん聞いてよぉ! また彼氏と喧嘩しちゃってさ」
立派な恋多き乙女へと成長した。
まあ、大病院とはいえ常に独特の緊張感に包まれている病院内で彼女みたいに愛嬌のいい看護婦さんがいても俺はいいと思う。
泣き顔で幼い少女二人のもとに駆け寄る美香さんだが俺は彼女のいい所も知っている。持ち前の愛嬌で孤独な年配患者の話し相手になったり、紅音のように闘病生活が長びく幼い患者の世話をしていたりと、見えない所でも患者に対して気を使う優しい女性なのだ。
「美香ちゃんまた彼氏に世話焼いたのかよぉ」
「ひよ子ちゃんどうしてわかったの」
「こないだも言ったよお、職業病か知らないけど美香ちゃん世話を焼きすぎるんだって、ねぇ早苗ちゃん」
「そうですよ、美香さんはお節介焼きだから彼から疎まれるんです」
「早苗ちゃんまで……そうよ、彼がひとり暮らししてるから料理や洗濯してあげようと思って毎日通ってたんだけど、彼が毎日来なくていいとか言うからついカッときちゃって……」
「それは彼氏が正論だよお、彼氏だって一人で過ごしたい時もあるよぉ」
ひよ子に指摘された美香さんはその場にしゃがみ込み膝に顔を埋めた。
「私もねわかってはいるんだけど不安になっちゃうのよ……」
そう言って美香さんは顔を上げると目元に透明な雫を蓄えて何故か俺に視線を向けてくる。
「ねぇ、健一君。私ってうざい女なのかな」
「えっ、いや、そんなことは……」
俺は押し出した右手を咄嗟に横に振り否定した。
「嘘よ……」
「嘘じゃないですって、お節介すぎるとこが美香さんのいいとこだと俺は思っていますから」
「ほんと?」
美香さんはまるで神とでも遭遇したかのような純粋な眼差しで俺を見ている。少し軽率だったか、しかし本音は本音だ。
「ぷぷっ、美香ちゃんこいつに聞いてもダメだって、こいつ恋愛なんてしたことないんだから」
くっ、悔しいが妹の言う通りだ。
恋愛経験もない俺に救いを求めるなんて間違っている。所詮はエロゲでしか恋愛を語れない男なのだ。
「えっ、ひよ子ちゃんどうして? 健一君と紅音ちゃんって付き合っているんじゃなかったの」
「はっ?」と驚いたのは俺の方。
「ぷっ、あひゃひゃひゃひゃ、美香ちゃんそれないって。こいつが紅音ちゃんと付き合ってるなんてありえないよぉ」
人を小馬鹿にするよう笑う妹を見ても美香さんは真顔だった。
「付き合ってなくても健一君って紅音ちゃんのこと絶対好きだよね。でも私は健一君っていいと思うよ、純粋で一途で私もこんな人に愛されたい」
「なっ、何を言い出すんですか美香さん! 紅音はただの幼馴染で……」
「ただの幼馴染なら毎週末お見舞いになんて来ないわよ」
「そっ、それは……」
もう既に俺の顔は真っ赤に染まっていたであろう。そのくらい焦っていたし自分の心臓が強く脈を打っていたのもわかった。
確かに美香さんの言う通り紅音に対して特別な感情がない訳ではない。しかしこれが恋愛感情なのかはわからない。今更だが美香さんにこの手の質問をいつされてもおかしくはなかった。言われたのが遅いくらいだ。だけど今は妹もいるし早苗ちゃんもいる。それに美香さんと三人に一斉に視線を向けられているこの状況で絶対に答えたくはない!
「そっ、そんな、紅音が好きだなんて、あははは」
「健一君、そっちは非常階段よ」
後頭部を掻きながらくるっとターン、動揺していたのであろう。
「ひよ子、早苗ちゃん、俺先に紅音のとこに行ってるから」
誤魔化したというより俺は逃げた。
この行動により図星だと思われても仕方がないであろう。それでも俺は自分の口から答えたくなかった。
好きだと言ってしまえば今までの五年間となんか状況が変わってしまいそうな気がしたんだ。
ナースステーションの奥にある左右に分かれている通路を左手に曲がる。通路の奥に進むにつれ病院内特有の消毒液の匂いが漂ってくる。大部屋の入院患者の話し声が漏れている通路をしばらく進み『301号室』と張り出されたプレートの前で足を止めた。
ここが紅音の入院部屋であり個室になっている。個室に入院なんて大病に思えるが実際喘息とは周りの環境やその日の気分で症状が軽くなったり重くなったりと、とてもデリケートな病気らしい。前に美香さんが言っていた。
コンコンと部屋のドアを右の拳で軽くノックする。すぐに柔らかい声質で「どうぞ」という返事が部屋の中から聞こえてきた。
ドアノブを回し部屋の中へ入ると、ほんのりと赤みがかった髪色をしたショートカットの女性がベッドから上半身だけを起こして優しそうな大きな瞳で部屋の入り口を見つめていた。
「おはよう紅音、今日は調子いいんだってな。美香さんに聞いたよ」
紅音は俺に微笑みかけるとハラリと赤い髪を靡かせ窓の外に目をやった。
「うん、今日は天気もいいから」
「そっか」
俺も窓辺に差し込む暖かい陽射しを感じながらベッドの横に置いてあるパイプ椅子へと腰を下ろした。
「健一、今日は一人なの」
「いやあ、早苗ちゃんとひよ子は美香さんに捕まってる」
「そう。美香さんまた彼氏と喧嘩したって言ってたでしょう」
「紅音のとこにも来たのか?」
「来たよ、早朝から泣きつかれて大変だったんだから」
「そっ、そうだったのか……」
あの感じならあの人、いろんな人に言ってるんだろうな……。
「いい人なのにね、美香さん」
「ああ、根はいいんだけどな。なんつーか姐御肌っていうか面倒見が良すぎるんだよな」
「ねぇ健一」
「ん?」
「私達って喧嘩したことないよね」
「えっ……」
突然、紅音が窓の外から視線を外し俺の顔を直視して言うもんだから俺は一瞬だけ言葉に詰まった。
「別に今まで喧嘩する原因なんてなかっただろう……」
『私達』なんて言うもんだからひょっとして紅音は俺と付き合っているとでも、いや、違う。紅音はそんな意味で言ったんじゃない。何故俺はこんな事ばかり考えてしまうんだ。
「それは嘘だよ、健一」
「どうしてだ」
「だっていつも健一が折れてたから私達喧嘩にならなかったんだよ」
「俺が折れてた?」
「この病院に入院した最初の頃だよ、私、健一に酷いこといっぱい言った」
思い出した、確かに言われた。でもそれは紅音が最初の頃なかなか退院できない自分にイラついたり、症状が辛かったりで俺にあたっていただけなんだ。
「もう二度と来ないでって健一に枕投げつけた事もあったよね」
「覚えてたんだな……」
「覚えてるよ全部、それでも健一はいつも週末になると来てくれた」
「そっ、そりゃあ、お前の事が心配だからな。あっ、でもその心配は紅音が幼馴染だからの心配であって別に変な意味じゃ……って、おい!」
紅音は目元を拭うと「うん」と頷きあろう事か俺の胸元に飛び込んできた。
「健一、ありがとう」
(まっ、まじか……)
今俺は生まれて初めて女性に抱きつかれている。あっ、違う。昨日もあった彩花さんとこれに近い体制になったが昨日とはまったく違う。何が違うかって頭がぼーっとなり、熱い、体全体がとにかく熱いんだ。
「ふふ、健一の心臓の音が聞こえる」
「きっ、緊張してるからな、紅音……急にどうしたんだよ」
「どうもしてないよ」
そんなはずない、今日の紅音はどうかしてる。普段はこんな事をする奴ではないんだ。なのに今日は一体どうしたと言うんだ。
「なっ、なぁ紅音、もういいだろう」
「ダメ、しばらくこのままでいさせて」
(…………)
沈着冷静。自分にそう言い聞かせ、雪祭りの氷彫刻のように何も考えず静止していると「ガチャ」と突然背後からドアの開く音が聞こえた。
「紅音ちゃん、おっはよぉ! って、えっ……ええぇっ!」
わかるぞ妹よ、お前のその絵に書いたような反応は正しい。俺は紅音の両肩に手をやり自分の胸元から優しく放すと慌てて後ろを振り返った。
「俺は何もしていない!」
これが誤解を解くなら一番シンプル、妹は別にいい後でいくらでも説明できる。どちらかというと早苗ちゃんには見られたくなかったのだが、どういう訳か目を見開いているうちの妹とは違い早苗ちゃんは別段驚く様子もなく、それどころか妙に落ち着いているように見えた。
「ひよ子ちゃんこの前この病院の近くに小物屋さんがあるの発見しましたよね」
落ち着き払って言う早苗ちゃんの言葉にひよ子は目を見開いたまま口をあんぐりと開けコク、コクッと二度頷く。
「来週、お母さんの誕生日なのですがプレゼントをまだ決めていないのです。良かったらひよ子ちゃん今から見に行きませんか」
「えっ」
はんば強引に早苗ちゃんはひよ子の腕を掴むと病室から出て行こうとする。
「ちょ、ちょっと待ってよぉ、早苗ちゃん。うちの兄貴と紅音ちゃんが……」
「いいですから、行きますよ」
ひよ子は俺に指を差し抵抗を見せるのだが早苗ちゃんは振り返りもせずひよ子の腕を掴んだまま病室のドアに向かって歩いて行く。すぐに「ガチャ」っとドアが閉まり二人の会話は聞こえなくなった。
(なっ、何だあ……)
しばらく呆然と病室のドアを見つめていた俺だったが、二人が戻って来る気配もなかったので視線を戻すと紅音はヘッドボートに背を預け窓の外を見つめていた。
「あっ、紅音。二人に変な誤解されたかも……」
「そうだね」
紅音の視線は快晴の青空に注がれている。さっきの事はどうでもいいのか素っ気ない返事が返ってきた。
「そうだねってお前なぁ……」
「早苗っていい子でしょう」
「えっ? まっ、まあな。うちの妹と全然違って早苗ちゃんは素直でいい子だよ」
「ひよ子ちゃんだっていい子だよ。あんな風にしてるけど人の事を考えてあげられる思いやりがあって優しい子だよ」
「そうか? 俺にはそんな奴に見えないけどな……」
「心の目で見るの、兄妹だもん。普段から近くにいて気付かないだけだよ」
「でも滅茶苦茶生意気な奴だぞ」
「何れわかる。妹は大事にしないと、一人って寂しいでしょう」
「そっ、そりゃあそうだけど……」
「健一はお兄さんなんだから」
「お兄さんねぇ……」
「だからって訳ではないけどさ」
「うん」
「これからもひよ子ちゃんと同様に早苗のことも自分の妹だと思っていいから、あの子のことも気に掛けてくれないかな……」
「それは当然だろ!」
抱きつかれた時からおかしいとは思っていたがやっぱり今日の紅音はちょっと変だ。今までひよ子同様に早苗ちゃんも俺なりには気に掛けていたし、紅音本人もそれを見てきたはずなのに今更他人のような言い方しなくても……まるで自分がいなくなるような言い方じゃないか。
「そう、良かった。やっぱり健一は優しいね」
紅音は空を見上げたまま視線を逸らさずに言う。
「なあ、今日の紅音ちょっと変だぞ」
「変? 私はいつもの私だよ」
「いつもの紅音なら俺に抱きついたり早苗ちゃんの心配を急にはしないけどな」
「私だって……孤独を感じる時もあるんだよ」
「なんで孤独を感じるんだよ」
「健一、私だって病人だよ……もう何年この病院に入院してるのか知っているでしょう」
「紅音ぇ……そういう暗いことは言わないって約束だったはずだぞ。前にひよ子や早苗ちゃんの前でも誓っただろう、前向きに病気を治すって。だから俺達も応援してきたし、紅音自身も前向きだったのにどうしたんだよ急に……」
「ごっ、ごめん」
紅音は窓の外からベッドの上へと視線を落とす。それからしばらく沈黙が続き妙な雰囲気から話す言葉も見つからず、それとなく俺も視線を下に落とすと足元に置いていた白いビニール袋が視界に入ってきた。
「そうだった紅音、これ」
そう言って俺は地面に置いていた本を紅音に手渡す。紅音はビニール袋の取っ手を広げ中を確認すると首を傾げながら俺に視線を向けてきた。
「人に変とか言ってるけど、健一も今日は変だよ」
紅音は真顔で言う。俺は後頭部に手をやり思わず苦笑いを浮かべた。
「やっぱお前もそう思うか?」
「うん、お金はどうしたの」
紅音は真顔で言う……。正直、紅音が喜べばと思って買った品なのにこういう返事が返ってくるとは心外だ。
しかし心外ではあるが俺は近況を紅音には包み隠さず話しているのでお金の心配をされるのは仕方がないのかもしれない。俺が定職に就いてない事も紅音は知っているんだ。
「いや、ちょっとな。臨時収入が入ったんだよ」
「もしかして健一、やりたいことが見つかったの?」
『焦らなくていい』。そう助言してくれたのは紅音なのだが、こうも嬉しそうな顔をされるとどうやら本心で言った訳ではなさそうだ。
「まっ、まあな。それっぽいのは見つかったかも……」
「ふーん、どんな仕事なの?」
「仕事って言うのかな、なんつーか俺が憧れていたちょっとした裏世界ってのかな」
「なにそれ、健一は不良になりたかったんだ」
「違う、そっちの裏世界じゃない」
「ごっ、ごめん。健一の言っていること良くわからないかも……」
「だろうな」
困った表情を浮かべる紅音に俺は昨日の出来事を包み隠さず話した。
話しを聞いている最中の紅音はまるでおとぎ話しでも聞いているかのように首を所々傾げながら呆然とした表情で聞いていたが、最後に俺が持ってきた袋の中身をもう一度確認したとこで信じる気になったのであろう。
「何か凄い話しだね……その彩花さんって女性は一体何者なの?」
「それが俺にも良くわからないんだよ。だけど今になって思うと昨日の出来事全てが偶然じゃなかった気がするんだ。彩花さんは狙って大金を手に入れたんじゃないのかって」
「狙って」
「ああ」と俺は頷く、「もし狙ってやったとしたら凄いと思わないか?」
「うん、でも……その人って怖いよね」
「どうして怖いんだ」
「だってそれ程の大金を狙って手に入れるような人ならだよ、私達なんかよりも全然利口だろうし、何を考えているのか良くわからないよ。私そういう人は苦手かも……」
確かに紅音の言うとおり彩花さんが何を考えているのか俺には全く理解できなかった。それでも昨日は終わってみれば結果的に彩花さんの言っていた通りになっていたんだ。
それと彩花さんが怖いという感覚は俺にもある。彼女が細身の男を追い込んでいた時のあのニヤついた表情はまるで悪魔が微笑んでいるように見えた。
あれ程の美人なのに目の錯覚かあの時だけは一瞬だけ背筋が凍りついたんだ。
「怖い、確かに紅音の言う通り怖い人かもしれない。だけどまたあの人に会えれば自分を変えれそうな気がするんだ」
「でも健一、突発的に別れたのならその人の電話番号とか住所とか知らないんじゃ」
「ああ知らない。何処に住んでいるのかもわからない」
「なにそれ、ふふふ」
紅音は口元に右手を添えクスクスと笑う。
「紅音、なにがそんなにおかしいんだよ」
「だって健一、真剣な顔して言ってること滅茶苦茶なんだもん」
「どっ、どの辺が滅茶苦茶なんだよ」
「あのねぇ健一、やりたい事が見つかったと言ってるけどその彩花さんって女性に会う手段もないのに何を一体どうするつもりなのさ」
「そっ、それは……彩花さん美人だから街中とか歩いてればすぐに見つかるかなって」
「ふーん、美人なんだ。だけどもし彩花さんがこの辺の人じゃなかったら? それでも見つかるまで健一は探し続ける気なの」
「いや、そういう訳じゃ……」
「でもまあ、健一らしいっちゃ健一らしいか」
溜息混じりに紅音は言うと窓の外に視線を向けた。
「似た者同士また会えるかもね、何を考えているのかわからないのは健一も同じだもん」
「俺と彩花さんが似てる?」
「似てるよ、普通の人じゃ考えつかないような事をやりたいだなんて」
「紅音……俺そんなに変わっているか?」
「それが健一の良さでもあるんだよ。純粋無垢っていうのかな、目の前の現実がイマイチ見えてないっていうか」
「だから紅音、俺っておかしいのかな……」
「でも健一も健一なりに前に進もうと頑張ってるんだよね」
(否定はしないのな……)
「紅音だって頑張ってるじゃないか」
「私はスタートラインにすら立ってないよ……」
「そんな暗いこと言うなよ、俺だって昨日の出来事ひとつで突拍子もないこと言ってるだけなんだから」
「人生の転機なんて一日あれば十分だよ」
「そっ、そうか?」
紅音の発言にはいつも納得させられる。俺なんかよりよっぽど紅音の方が大人なんだろうな。
「紅音だってやりたい事があるんじゃないのか?」
「昔はね、医者になりたかったけど。今は」
「今は?」と、紅音に聞き返したその時だった。
「ガチャッ」
突然、ドアが開く音がする。それと同時に紅音の声が聞こえてきた。
「健一のお嫁さんかな」
この突っ込み所満載の紅音の発言は今入って来た人物にも聞こえているはず。おそらくひよ子達が戻って来たのだろうが、しかし今日はなんてタイミングで人が入って来るんだ……。
俺は紅音に『何を言ってるんだ』と突っ込む前に誤解を解こうと後ろを振り返った。
「みっ、美香さん……」
俺の視線の先にはひよ子達ではなく、目を見開き口をアングリとさせた美香さんが病室の入口に立っていた。
「ごっ、ごめんなさい」
美香さんは一言誤ると病室から慌てて出て行こうとする。
「美香さん待ってください。なんで謝るんですか」
そんなテンパリ気味の美香さんを俺は慌てて呼び止めた。
「そうよね……私は看護婦さんだもんね。用があったからここに来たのよ。仕事だもん仕方ないわよね」
美香さんは病室の入り口を向いたまま俺達に背中を向け何やら一人呟く。それから咳払いをひとつ「コホン」とすると平静を装ったような顔でこちらに近寄って来た。
「あっ、紅音ちゃん、そろそろ吸入の時間よ」
美香さんの声は震えていて明らかに動揺している。これは俺の方から聞いてみるべきか美香さんはさっきの紅音の発言を絶対に聞いているはずだ。誤解を解いておかねば美香さんのことだ、必ず周りに言い触らすに決まっている!
「美香さん、さっきの紅音の発言ですが」
「えっ、なっ、なんのことかしら」
即答だ……聞いていないのであればちゃんと理解した上で少し間を置き聞き返すはずなんだが、やっぱり聞いているんだ。
「美香さん恍けなくていいですよ、どうせ聞いていたんでしょう。今日の紅音はちょっとおかしいみたいで」
「おかしいのは健一君でしょ」
「えっ……」
美香さんは一瞬冷めた表情になりぼそっと呟いた。
「あら、ごめんなさい。なんでもないわ、それより健一君そろそろ」
「あっ、すいません。もうそんな時間だったんですね」
紅音の吸入の時間は一日三回、朝、昼、夕方にある。いつも午前中に来てお昼の吸入前に俺達は帰っている。見舞い客のマナーではないが紅音の容態が悪化しないよう長居はしないようにしているのだ。
「そうそう健一君、ひよ子ちゃんと早苗ちゃんナースステーションの前で待ってたわよ」
「あいつら戻って来てるのなら顔くらい見せればいいのに」
「早苗ちゃんから健一君に帰るよう伝えてって言われたのよ」
「早苗ちゃんが?」
どうも調子が狂う。今日は皆少しだけ変だ。いつも帰る時には三人で紅音に別れを言って帰るのだが。
「紅音、早苗ちゃん呼んでこようか」
「いいよ」
紅音の視線はいつの間にかベッドの上に向けられていた。
「そっ、そうだよな。どうせ来週もまた来るしな」
「うん」
「じゃ、じゃあ俺そろそろ帰るわ、また来るから」
「うん」
何故か紅音の表情は何処か寂し気で、それでも時間が時間なので俺は椅子から立ち上がり病室のドアへと近寄った。
「健一、ありがとう」
背中側から紅音の声が聞こえてきたので俺は振り返らずに右手を上げた。
「またな」
そう言って病室を出たとこでふと思い立ち止まる。
先程病室を出る前に紅音が言った『ありがとう』の意味が俺が思っていた意味と違う気がしたのだ。俺はてっきりプレゼントのお礼を言われたと思って気楽に返事をしたのだが違う気がする。あの『ありがとう』の意味は今日の見舞いに対してでもない。『全て』、今までのことに対してのありがとうの意味じゃないのか。あの時振り返っていたら紅音が寂しそうな表情で俺の背中を見つめていた気がするんだ。
気になった俺は廊下の途中で足を止めると紅音の病室へ引き返そうとした。
「おーい、何処に行くんだよぉ」
一瞬「はっ」となり、まるで金縛りが解けたかのように声のする方に視線を向けた。廊下の奥側、視線の先ではひよ子が手招きをしている。その隣には早苗ちゃんの姿も見えた。
(考えすぎか)
美香さんじゃないが、おかしいのは俺の方なのかもしれない。いつもと同じ週末、また来週末ここに来ればいつものように紅音に会える。深く考えすぎるのは俺の悪い癖だとひよ子達のもとに駆け寄った。
「二人とも帰る時くらい紅音に顔見せないとダメだろう」
「ひよ子はそう言ったよぉ、でも早苗ちゃんが……」
「早苗ちゃんが?」
ひよ子はバツが悪そうな顔をして俯く。確かにひよ子は外面だけはいい。人並みの礼儀も知っているし紅音を敬愛もしている、それに歳上である早苗ちゃんの言うことだけは良く聞くのだ。
早苗ちゃんに視線を向けると早苗ちゃんは顔を逸らすようにして俺に背中を向けた。
「おっ、お姉ちゃんにはいつでも会えますから」
こんな子じゃないはず。喧嘩でもしたのか?
だが、紅音と会う時はいつも俺達と一緒のはず、ならば電話か。
「早苗ちゃん、もしかして紅音と喧嘩でもした?」
「しっ、してないですよ、健一お兄ちゃんもう行きますよ」
そう言って早苗ちゃんは一人ナースステーション方に向かって歩いて行く、俺とひよ子は顔を見合わせ二人して首を傾げると早苗ちゃんの後を追い掛けた。
こうして、何がなんだが良くわからないままうしろ髪を引かれる思いで俺達は病院を後にした。
週末のファミレスはお昼だった事もあり家族連れやカップルで混雑していた。幸い奥隅側にある窓辺のボックス席がひとつだけ空いており俺達は腰を落ち着けることができた。
いつもなら病院を出た所で俺だけ強制排除させられるのだが今日は約束していたので別行動はしなくていいらしい。俺はというとテーブルの上に頬杖でも付きながらひよ子の隣に座っている早苗ちゃんではなく目の前に座っているひよ子を注意深く観察していた。
ひよ子はパラパラパラとメニューを捲るや途中で手を止めさっきから必死の形相でとあるページを凝視している。奴が見ているページが妙に気になった俺はそれとなあく伸びをするようにして覗き込んだ。
ページの先端がチラッと見えたとこで俺は思わず唖然とする。
(こっ、こいつステーキのページを見ていやがる!)
更にはページ固定をしてメニューをテーブルの上に置く、狙いはステーキだけに絞られたようだ。
いくらファミレスとは言えそこそこ高いメニューはある。そのそこそこ高いメニューが多いのがおそらくはステーキのはずだ。
「くっ……」
ひよ子は視線をメニューから俺に移しニヤリと微笑む。次の瞬間、呼び鈴のボタンを押した。
「ひよ子ちゃんまだ早苗は決めていません」
「いいよ、いいよ、早苗ちゃんはひよ子と同じのを頼むからぁ」
『ピンポン、ピンポン』
悪夢のコール音が鳴り響きすぐに若い女性のウエイトレスがやって来た。
「ご注文はお決まりでしょうか」
ひよ子だけコクりと頷く。
「国産牛のヒレステーキ和食セットとチョコレートパフェにチーズケーキ!」
「ちょ、ちょっと待て、ひよ子!」
危なかった……あまりにも軽快なリズムで言い放つからそのまま聞き流すとこだった。
「なっ、なんだよぉ」
「お前そんなに食べれないだろう」
「デザートは別腹だからぁ」
すました顔で言ってるが家族で食事に行った時もこんな高額品を頼んだ事もない癖に人の奢りだからと調子に乗りすぎだ!
「ひよ子ちゃん、早苗そんなに食べれませんよ」
「いいの、いいの、残してもぉ」
「それはダメですよひよ子ちゃん、食材に関わっている方に失礼です。残してはいけません」
流石は早苗ちゃんいい事を言う。
早苗ちゃんに言われたひよ子は唇を尖らせて渋々と商品をひとつ取り消した。
「じゃあ……国産牛のヒレステーキ和食セットとチョコレートパフェ、この人も同じね」
「畏まりました」
俺的にはチョコレートパフェの方を取り消して欲しかったのだがまあいい。早苗ちゃんのおかげで助かった。
「お客様は?」
顔を上げるとウエイトレスが俺を見ている。
「レバニラ定食でお願いします」
「畏まりました」
「それでは国産牛のヒレステーキ和食セットが二点、チョコレートパフェをお二つにレバニラ定食お一つ、以上で宜しいでしょうか」
「はい」
俺が頷くとウエイトレスは去って行く、顔を戻すとひよ子が冷ややかな視線をこちらに向けていた。
「どうかしたのか?」
「お前ってどう転がっても大成しなさそうだなぁ」
「うるせぇほっとけよ、俺はレバニラが好きなんだよ……」
日曜の午後、西に沈みゆく太陽の陽射しを背に受けてひとりの少女は頭をこちらに向け深々と下げていた。
「健一お兄ちゃん、今日は昼食までご馳走になってありがとうございました」
「いえいえ、どう致しまして」
自宅の前の分かれ道、早苗ちゃんは礼儀正しく御礼を言う。
「ひよ子、今日は早苗ちゃんの家に行かないのか」
いつも週末は早苗ちゃんと一緒に過ごしているはずのひよ子が今日はどういう訳か俺の隣に立っている。
「うん、今日は早苗ちゃん夕方から家族でお出掛けだってさぁ」
なる程、と、なるとあれか。
「早苗ちゃんもしかして今日は家族で外食の予定だったり?」
後頭部に手をやりバツが悪そうに聞くと、早苗ちゃんは首を横に振る。
「お姉ちゃんが入院してから家族で外食はしなくなりました」
「そっ、そっか」
家族全員で紅音には気を使ってるんだな、そうなると変なこと聞いちまったかな……。
「よし、早苗ちゃんまた来週末な。そんじゃ俺達そろそろ行くわ」
そう言ってひよ子の背中を「ポン」と叩く、歩き出そうとした時だった。
「健一お兄ちゃん!」
後ろを振り返ると早苗ちゃんが悲し気な表情で俺達を見ていた。
「どうかした?」
「来週末は……」
今にも泣き出しそうな声で早苗ちゃんは呟く。
「来週末からお姉ちゃんの見舞いに行くのはやめましょう」
「えっ……」
驚いたのは俺だけじゃない隣を向くとひよ子と顔を見合わせた。
「どうして早苗ちゃん急にそんなこと言うのぉ」
ひよ子が早苗ちゃんのもとに駆け寄り早苗ちゃんの腕を掴むと二度三度揺らしながら言う。
「その様子だと、お姉ちゃん健一お兄ちゃんには何も言ってなかったみたいですね」
「どっ、どういうことなんだ早苗ちゃん!」
「お姉ちゃん、もうそんなに長くないんです……」
「はっ?」
突然の事で俺は自分の耳を疑った。
「さっ、早苗ちゃんは冗談が上手いな、紅音が長くないだなんて美香さんからもそんな事聞いたことないよ」
「美香さんは知ってます、ずっと前から。看護婦さんですから」
「うっ、嘘だよ。あのお喋りの美香さんがずっと黙っていたなんて」
「美香さんは大人です、言っていいことと悪いことの区別くらいは知っています」
「えっ……」
そう言われればおかしかった。今日の紅音に美香さんに早苗ちゃんもだ。俺がおかしいんじゃないひよ子も普通だ。やっぱりあの時の違和感は当たっていたんだ。
「でも早苗ちゃん、紅音は喘息だって……」
「最初は私達家族やお姉ちゃん自身もそう思っていました。ですが後日お医者さんに両親が聞かされたのは『若年性肺気腫』と言う病気だったそうです。余命も六年程だと……」
「よっ、余命六年だって!」
そんな馬鹿なことがあるのか!
俺とひよ子は今まで何も知らず紅音と接してきたのか。余りにも突然の話しで目の前の光景が回っているように見えた。
「でも手術とかすれば治るんじゃないのぉ」
ひよ子の声が聞こえてくる。俺も同じ意見だ。今の世の中治らない病気なんてあるのか?
「あるにはあるんですけど、リスクとお金が……」
早苗ちゃんの答えが聞こえてきたとこで俺は冷静さを取り戻した。
「なら受ければいい。お金は俺が出すよ!」
俺は早苗ちゃんの両肩を掴み彼女の目を真っ直ぐに見据えそう言った。
「けっ、健一お兄ちゃん……そんな簡単な話しじゃないんです」
早苗ちゃんの目元からは大粒の涙がこぼれている。早苗ちゃんの肩を掴んでいた両手にいつの間にか力が入っていて俺はすぐに肩から手を離した。
「ごめん早苗ちゃん……手術がそんなに難しいことなの?」
「お姉ちゃんの片方の肺はもう動いていないんです。だから移植手術しないと」
「すればいいじゃないか」
「日本にはお姉ちゃんとHLA(ヒト白血球抗原)が一致した肺のドナーがないんです」
「手術は受けれないってことなの?」
「いえ、海外になら一致したドナーがあるだろうと先生がおっしゃっていたのですが……」
「なら海外に」
「それが問題なんです、海外で移植手術した場合は保険が効かないのでお金がかかるみたいで」
「いくらかかる?」
早苗ちゃんは目元の涙を拭い真っ赤な目で俺を見つめた。
「両親が話していたのを聞いたのですが五千万円だそうです」
「ごっ、五千万! 嘘だろう……」
「海外にも移植手術を受けたい患者さんもいますし、保険も適用されないので優先的にやってもらうのなら高くつくんです」
「さっ、早苗ちゃん募金すればいいんだよぉ」
ぼそっと呟くひよ子の一言に俺は大きく頷いた。
「そうだよ早苗ちゃん、募金すればすぐに集まるよ」
ナイスアイデアだと思ったのだが、何故か早苗ちゃんの表情は冴えない。
「私もそうお姉ちゃんに言ったんです。お姉ちゃんも私も両親に本当のことを聞かせられたのは三年前です。それまではお姉ちゃんのことを考えて両親は黙っていたと言っていました。話しを聞かされた日に私もお姉ちゃんに言ったんですよ」
「すると紅音は?」
「やめてって……お姉ちゃん自分みたいに病気で苦しむ人が大勢いる事を知って自分より他の人にドナーを回して欲しいって……それに自分の病気で家族に迷惑をかけたくないからそっとしといて欲しいって……」
「そんな……じゃあ紅音は」
「私だってお姉ちゃんには生きていて欲しいから何度も何度も言ったんです……だけど……お姉ちゃんもう決めた事だからって……来週から行くのやめようって言ったのもお姉ちゃんが皆の顔を見ていると辛くなるからって……」
「そんなにもう短いのか……」
「後半年くらいだと」
「……そっか」
何にも言葉が思いつかなかった。早苗ちゃんはずっと堪えていたのだろう。ひよ子の胸に顔を埋め泣き声が周囲に響き渡る。
俺も何かいい方法がないか考えた、このまま病院に引き返して紅音を説得しに行こうかとも思ったが仮に説得したとしてもその後どうなる。紅音を手術に行かせる金がない。
五千万……人ってのは金が絡むとどれだけ無力なのだろうか。情けない……本当に自分が情けなかった。
帰り道、俺とひよ子に会話はなかった。いや、あった。自宅の前で俺が言ったんだ。
「なあひよ子、俺達だけで募金しないか?」
「お前早苗ちゃんの話し聞いてたのかよぉ、手術期間もあるし今からなら間に合わないよぉ」
「じゃあひよ子お前を賢い妹だと思って質問がある。短期間で五千万稼ぐ方法を知らないか?」
「そんなのあるなら誰も苦労しないよぉ、ばーか」
「だよな……」
この日家に帰った俺はその後のことを良く覚えていない。夕食は食ったが夕飯のメニューが思い出せないくらい頭の中は紅音のことで一杯だった。