第二章
第二章 人の心理を読む男
精神、心理、人のメンタルを研究し読み解こうとする『心理学』という分野がある。昨今では『現代病』なんて呼ばれる心の病に侵される人も少なくないと聞く、俺もメンタルが強い方ではない。謙虚になりがちで自分の可能性を自ら否定してきた。
本当にちょっとしたストレス、人間付き合いの疲れからメンタルってのは弱っていくものだ。
俺も他人事ではないが、そうしたメンタルが弱った方達に手を差し伸べて心の疲れを和らげてくれる心理カウンセラーなる人達が存在する。
その派生かどうかは知らないが、人の心理を研究し運動力学、催眠術、読筋術などを熟知した上で人の表情や行動を見て心理がわかるという連中がこの世の中にはいるらしい。前に雑誌の記事で特集されていたのを見た記憶がある。
最初にその記事を目にした時は素直に凄いと思ったが、付き合うとなればやはり怖いものがある。職業柄仕方ないのかもしれないが、自分が考えている事を相手は手に取るようにわかっているんだ。実際対峙したら神とでも対話している気分になるのだろうか? なんて馬鹿げた事を考えていた気がする。まあ、どちらにしろ俺には縁のない存在だと思っていたんだ。
「長谷川さんこちらに来てください」
コーラを呷っているといつの間にかボックス席には誰もいなくなっていた。
彩花さんが呼ぶ方に視線を向けると、ボックス席のすぐ傍。そこにはカジノのカードゲームで使用するような小さめのテーブルが置かれていた。
小さめのテーブルには相対するよう向かい合わせに椅子が一つずつ置かれている。既に一つの椅子には細身の男が座っており、もう一つの椅子は空席となっていた。
「長谷川さんこちらに」
彩花さんに促され俺は細身の男の向かい側の椅子に腰を下ろした。
「彩花君カードの確認はいいかね」
早乙女がポケットから取り出したカードを見て彩花さんは首を横に振った。
「早乙女さん結果的には当事者二人が彼等のプレイを見守る事になりました。何か異変があればすぐに気付きます。この状況において貴方がカードに細工をしているとは思えません」
「ふふふ、君は実に賢い。私もイカサマをしてまで君に勝とうとは思っていない」
「ですが早乙女さん」
「なんだね」
「アイマスクだけは私が用意した物を彼には付けてもらいます」
「妥当な判断だ」
伏せたカードを当て合うこのゲームで一番考えられるイカサマ、それはカードの細工より『死角』を利用した透視であろう。その透視の可能性が今、彩花さんの判断により否定された。
細身の男は彩花さんから受け取ったアイマスクを着用すると俺に背中を向ける。
「それではゲームを始めよう」
早乙女の合図でいよいよゲームが始まった。
俺はまず全てのカードを手に取りじっくりとカードの裏面を見てみる。当然だが『〇』と記載されてあるカードは一枚のみ、残りのカードの裏面は白色の無地だった。ちなみに俺の今持っているカードの裏面は彩花さんにも早乙女にも見えない。二人共テーブルの中央を挟み向かい合うようにして立っているからだ。
今度はカードの裏面を地面に向けカードの表側に何も傷がないかを確認すると『○』と記載されたカードを真ん中に伏せて置き、残りの二枚のカードは均等に離して伏せた。
「いいかね?」と言う早乙女の問いに俺は首を縦に振る。そうして細身の男がこちらに向き直りアイマスクを外すとカードを選択するのだが、この後に見せる細身の男の行動に俺は驚愕する事となる。
アイマスクを外した細身の男は俺の顔と伏せたカードを交互に見やると、今まで閉じていた口を突然開いたのだ。
「長谷川さん、すいませんがいくつか質問をしていいですか」
なんて言われたので俺は慌てて彩花さんの方に視線を向けるのだが、彩花さんに動じる様子はなく俺を見て首を縦に振る。
「わっ、わかった」
彩花さんが認めたのであれば俺も認めるだけだが、それにしても急に質問をされるとは思ってもいなかった。
「長谷川さん、貴方は○のカードをどちらに置かれました」
細身の男はニヤつきながら聞いてくる。こいつ俺が田舎者だからと舐めているのか。そんな事を馬鹿正直に答える奴がいたらむしろ俺が見てみたい。
「あっ、長谷川さんすいません。少し方法を変えましょう。私が順にカードを指差していくので、貴方は首を縦に振るか横に振るかでお答えください」
(何で答えるのが前提なんだ!)
不快に思うが、男は伏せたカードを右から順に指差していく。
「これが○のカードですか?」
俺は首を縦に振らず横に振った。
「ではこれが○のカードですが?」
正解である真ん中に置いたカード、しかし俺は首を横に振る。
「それではこれが?」
最後に指を指した左のカード、俺の答えは『NO』。つまり、首を横に振る。
「困りましたねぇ。では何処にあるのでしょうか」
質問に対し常に答えが返ってくると思ったらそれは大きな間違いである。俺が言うのも何であるがこの男世間知らずもいいとこだ。
「それではどうしましょうか」
困った表情で細身の男は深く息を吐いた。
「では左で」と男が言った事により俺はホッと胸を撫で下ろす。しかし次の瞬間、俺の安堵の表情を見て男はニヤリと笑うと左のカードから中央のカードに視線を移し指差した。
「貴方が『○のカード』を置かれたのは真ん中ですね!」
自信満々に言う男の顔を見てやっと思い出したよ。これは以前雑誌で見た連中と同じだ。
思い出した俺は咄嗟に早乙女に視線を向けた。
「一度決めたのを変更するのはありなのか?」
今、細身の男が指差しているカードは当たっている、当たってはいるが、俺も「はいそうですよ」とあっさりとカードを捲る程馬鹿ではない。
「ふふふ、長谷川君と言ったかね。確かに君の言う事に一理ある。じゃあこうしよう、次からは選んだカードの前にコインを置く、これでどうかね彩花君。今回のはこのまま引き分けで流してもいいのだが」
何とか相手の一勝は回避できた。そう思っていたのだが……。
「いえ、別に構いませんよ。長谷川さん、彼が指差しているカードを早く捲ってあげてください」
冗談だろう……。
「彩花さん!」
彩花さんの指示に従うとは言ったが、この人は今の状況をわかっているのか?
俺は彩花さんの腕を掴むと地下室の隅へと連れて行き、早乙女達に聞こえないように微小な声で話し掛ける。
「何を考えているんですか、彩花さん気付いていないんですか」
彩花さんは中指でこめかみを抑えると天井の赤いネオン灯を見上げた。
「ええ、彼は人の心理を読むのに長けているようですね」
「気付いていたのなら何故……」
「長谷川さん私もね、何度も同じ事を言うのは疲れます。これが最後ですよ、私の指示にだけ従ってください。できないのであればこのまま帰ってもらっても構いません。ですが財布はあげませんよ。あれは一度だけのチャンスだったのですから!」
彩花さんは唇を尖せて言う。この人は人を何処まで馬鹿にすれば……財布になんて興味はない。自分で勝手に俺をつれて来といてもういい。彩花さんの心配をするのはもうやめた。
馬鹿らしい……。
「わかりましたよ、やればいいんでしょう、やれば。どうなっても知りませんからね!」
ムカッときた俺はそのまま席に戻り、すぐに真ん中のカードを捲る。俺が捲ったカードを見て早乙女と細身の男はニヤリと微笑んだ。
ゲームは続く、今度は俺が相手の伏せたカードを選択する番だ。アイマスクを着用し細身の男に背を向けていた俺は正面を向くと相手のカードより先に脇に置いていた空のグラスに目がいった。
「彩花さん、ドリンクのおかわりいいですか」
「何を召し上がりますか」
「無添加のオレンジジュースを」
「ぶぁはははは」とさっきから早乙女の笑いが絶えない。こうなってくると早乙女は楽しくてしょうがないだろう。傍から見れば俺は勝負を諦めているようにしか見えない。その通りで俺にはやる気がない。こうなったらただのドリンクでもしこたま飲んで適当にプレイしてやろうと思っていたとこだ。
「左だ」
なのでカード選択も適当で左のカードの前にコインを置く。いや、それは少し違う、若干は考えた。
さっきは真ん中に○のカードを置いたので真ん中はないんじゃないのかと思ったんだ。
しかしその考えを利用してあえて真ん中に置くって手段もある。所謂『裏の裏』ってやつだ。だが、それをやると真ん中のみとなる為に逃げ場がない、左右ならば最悪二分の一の確率に逃げれるのだからわざわざ分が悪い待ちを選ばないはずだ。
しかし、細身の男はニヤつくとカードを三枚とも捲り俺に見せつけてくる。○のカードが置かれていたのは真ん中だった。
「ははは、長谷川君面白いだろう。この手の心理ゲームってのは考えずともつい考えてしまう。何も考えなければ三分の一で当たるのものを、自分に有利な選択肢を模索してしまう。模索すれば模索する程、相手の術中にはまっていると気付かずに」
早乙女はそう言ってくるが気付いていない訳じゃない。そんなのはわかりきっている、相手もその道のプロなのだから。確かに早乙女が言っている事は的を得ている。相手の心理を読めば読む程、パターンが増え単純な三択は複雑になっていく。しかし三分の一の確率に身を委ね、運任せでプレイしたとしても目の前の細身の男には勝てないであろう。ならば思考を停止する訳にもいかなかった。
ゲームは進む、またもや細身の男にあっさりと○のカードを当てられた俺は細身の男が伏せたカードを今度は選択する番となった。
今回だけは自信がある。とはいえまた二択のパターンなのだが、もう一度真ん中か左右か、当然左右ならば五割でしか当たりはしない。だけど今度は絶対左右のどちらかのはずなんだ。
安牌は左右のどちらか、またしても真ん中って可能性もあるが細身の男はもう二度当てている。ならばわざわざリスクをおかしてまで当たりのカードを真ん中に置くメリットはないはずだ。絶対安牌に逃げるはず、守りに入るに決まっている。だが、俺がカードを選ぼうとする寸前。
「長谷川さん、真ん中ですよ」
「えっ……」
「ですから今度も真ん中に○のカードを置いています」
「…………」
細身の男は真ん中に置いてあるカードを指差すと平然とした表情で言う。もっ、もちろん俺はこんな男が言う言葉を信用はしていない。コインは右のカードの前に置いた。
「長谷川さん、せっかく教えて差し上げたのにもったいないですね」
そう言って男が捲った真ん中のカードには確かに『○』の記号が記載してあった……。
今更ではあるが俺は目の前にいるこの細身の男に全く勝てる気がしない。プロのサッカー選手にPK勝負でも挑んでいるようなもんだ。奴からすれば俺なんて赤子の手を捻るようなもんであろう。何せ俺は選択側でも伏せる側でもこの男の巧みな話術に翻弄されているのだ。
そもそもこの手の心理ゲームは引き分けで流れてもおかしくないはずだ。だがここまで一度も引き分けがない。それだけ相手に隙はなく俺みたいな奴では到底太刀打ちできないってことであろう。
ゲームは進んで行き、ちょうど交互に五回選択し合った結果、俺は一つ当てただけで細身の男は俺の伏せたカードを全部当てていた。
一勝五敗という結果に絶望感しかなく、こうなってくると人間投げやりになってくるものだ。
相変わらず彩花さんも彩花さんで俺のプレイを黙って見ているだけで何か指示を出す訳でもない。ドリンクを飲みまくった俺は集中力が切れたとこで尿意を感じ席を立ち上がった。
「トイレは?」
「あっちの奥だ」
早乙女が指差す方に視線を向けると俺達が入って来たドアの右側に細い通路が見える。トイレで用を済ませトイレを出ると、俺の目の前、トイレの入口に彩花さんが立っていた。
「どうかしました?」
彩花さんは後ろを振り返り早乙女に視線を向ける。
「早乙女さん、もう一度この部屋を長谷川さんと共に退室してもよろしいでしょうか」
「彩花君、君、逃げないだろうな」
「そんな事ありえませんわ!」
「いいだろう、好きにすればいい」
圧勝している余裕だろうな、早乙女はあっさりと認め彩花さんは俺の手を引きもう一度地下室の外へと出る。何事かと彩花さんを見てみれば今までのお気楽な表情とは打って変わり真剣な眼差しで俺を見つめていた。
「なっ、何か?」
「いえねぇ、いつまで経っても長谷川さんに私が期待していた反応が見れないのですよ」
彩花さんは下顎に右手を沿え困った表情を浮かべた。
「はっ、反応? もしかしてドリンクに何か入れてたんですか」
「いえ、別に」
(勘ぐりすぎか……)
「じゃあ何の反応ですか」
「長谷川さん、貴方あの橋の上で何をなさっておられたのですか……」
「えっ、魚を見ようとしていただけですが」
何を今更な事を彩花さんは聞いてくるんだ。
「ほっ、本当に魚を見ようとしていただけなのですね……」
彩花さんはそう言うと突然、その場にへたり込み額に左手を添える。
「間際らしいですわ、長谷川さん……」
「……俺言いましたよね、彩花さんが俺の話しを全く聞かなかっただけですよ」
「だっ、だって普通、貴方みたいなお若い方が平日の昼間からあんな橋の上で魚を眺めているなんて思わないでしょう」
「知りませんよ、貴方の普通なんて」
「困りましたねぇ……」
「今やっている事とその事と何か関係があるんですか?」
「あります、大ありです。私が求めていた方は長谷川さん、貴方ではないのですよ」
「なっ、えっ?」
今更、ここまで来て、この人は何を言っているんだ!
「しっ、知らないですよ。今更じゃないですか、俺は自分の意思では来ましたけど、誘ったのは彩花さんですからね」
「ええ、わかっています、悪いのは全て私なんです……」
彩花さんは地面に着いていた右手も自分の額にやり両手で顔を覆う。
(おっ、俺が悪いのか?)
悪くはないはず。とは思っても目の前で女性が悲しんでいると良心が痛む。そっと彩花さんの肩に手を伸ばそうとした時だった。
「長谷川さん」
俺はすぐさま手を引っ込める。
「なっ、何でしょうか」
「先程もお聞きしたのですが、もう少し詳しく長谷川さんの性格を知りたいのでいくつか質問させていただいてもよろしいでしょうか」
また俺の性格か、そんなの聞いてどうするつもりなんだ。
「別に構わないですが」
だがまあ、隠す事でもない。
「では三つ程お聞きします。長谷川さんは負けず嫌いですか?」
「そんな事はないですね」
「諦めが早い方?」
「どちらかと言えばそうですね」
「この世の中に絶望されていますか?」
「はっ、はい? 何ですか彩花さんその質問は」
「いいからお答えになってください!」
(…………)
何故か彩花さんは怒っているようで俺は渋々質問に答えた。
「どちらかと言えばですよ、はいです……」
自分の現状を考えたら嘘でもいいえなんて答えは出てこない。何か切っ掛けでもあればと彩花さんについて来てみればこのざまだ。
急に憂鬱になった俺は自分の足元に視線を落とした。
「ふむ、なる程」
顔を上げると彩花さんはいつの間にか立ち上がっていて、俺に背を向けたまま何かに納得したように首を小刻みに三度程縦に振るとこちらを振り向いた。
「長谷川さん戻りましょう」
「戻るって言っても、何をどうすれば……まだ俺にプレイしろなんて言わないでしょうね」
「言いますよ。貴方がプレイするのですよ」
彩花さんはケロッとした表情で言う。
「俺は彩花さんが求めていた人間と違うのでしょう?」
「そうですね」
「そうですねって……今更ですが俺、今戦っている相手に全く勝てる気がしません」
「でしょうね」
「わかってるなら何故俺が……」
「長谷川さん、もう負けてもらっても構いません」
彩花さんは俺をまっすぐに見据えそう言い切った。
「はい? 彩花さん自分が負けたらどうなるのか覚えていますよね」
「ええ、わかっていますが、もう仕方ないじゃないですか」
仕方ないだと……そもそもこの人は勝つ気があったのか?
そりゃあ早乙女はあんな感じだが、日本屈指の大財閥の御曹司には変わりない。最悪負けても玉の輿だ。
そうなると俺は何の為にここまでついて来たんだ……。
百万円もおそらくは絶望的、それでも彩花さんに同情してここまで付き合ってきたものの、これじゃあ俺が馬鹿みたいじゃないか。
「彩花さん俺はもうやりません、ここから先は自分でプレイしてください」
俺は彩花さんの目を見てきっぱりとそう言い切った。
妥当なはず、俺にだって拒否権くらいはあるはずだ。どうせもう勝つのは不可能だ。そんな中で俺がプレイを続けて彩花さんに逆恨みでもされたらたまったもんじゃない。
だいたい自分の運命を賭けるような勝負を挑んでおいて俺なんかに代役でプレイをさせるのがそもそも間違っている。
「いえ、それはダメです。長谷川さんには私が良いと言うまでプレイしてもらいますよ」
「はっ、はい?」
どっ、どんだけこの人は自己中心的なんだ……。
「勝った時の条件は約束した通り、負けてもタクシー代くらいは出しますよ。それともこのまま歩いて帰られますか」
「っぅ……」
呆れたね。そして彩花さんに対して怒りがこみ上げてきた。が、相手は女性だ。自らついて来た責任もある。ならば本人が望む通り俺が愛のキューピットになってやるまでだ。
「わかりましたよ、やればいいんでしょ、どうなっても知りませんからね」
「ほんと、どうなるんでしょうね、楽しみですね。ふふふふふ」
彩花さんは俺を見つめたまま不気味に笑う。こんな事は言いたくはないがこの人本当に頭がイカれてる。こんな人に関わるんじゃなかったと深く後悔をしながら地下室へと再び戻った。
早速俺がテーブルに戻ると早乙女が気色悪い笑顔で出迎えてくれた。
「まだ君がプレイするのかい」
そう言って早乙女は後から入って来た彩花さんの方に視線を向けた。
「彩花君、もう勝負は諦めたのかね」
「ええ、もう私の負けでしょうね」
「じゃあもうやめにするかい?」
「いえ、わたくし諦めが悪い女ですので勝負は続行しますよ」
「ふふふ、彩花君、君も変わってるね」
俺も早乙女とは同意見だ。こんな結果がわかっている勝負さっさと終わらせて一刻も早く帰りたいとこだ。
「長谷川さん、貴方が○のカードを置かれたのは右ですか」
目の前にいる細身の男が相変わらず人を小馬鹿にしたようにニヤついている。この男も圧勝してると言うのによくもまあ飽きもせず同じ事ばかり聞いてくるもんだ。
正直、俺はもうゲームの事なんてどうでもいい。そうなると細身の男がいちいち聞いてくるこの質問も鬱陶しくて仕方がなかった。
「ああ、右だよ、右」
今は六度目の俺がカードを伏せる番、○のカードを本当に俺は右に置いていた。
「真ん中ではありませんか?」
「右だって」
俺が正解を馬鹿正直に答えている理由、それは考えがあっての事ではなく何か策略があった訳でもない。ただ早くゲームを終わらせたい、その一心だった。
「左では?」
「だから右だって」
頬杖でもつきながら目下にあるカードをぼーっと見つめていると、ちょっとした異変が起きる。早いとこ当てて欲しいのだが細身の男がなかなかコインを置こうとしないのだ。
それを疑問に思った俺は顔を上げ男に視線を向ける。と、細身の男は頭部を掻きながら自分の頭を抱え出す。このゲーム始まって以来初めて男が悩んでいるのを見た。
しばらくすると細身の男はコインを手に取り置こうとするのだが、右や左や中と置く素振りを見せるだけで俺の顔色を伺うばかり。いつまで経ってもコインを置こうとしない。この時の俺の顔は自分で言うのも何だが表情の変化はなくただ虚ろな目をしていたと思う、それだけこのゲームだけではなくもう何もかもが嫌になっていたのだ……。
「くっ」と呻き声を上げて細身の男がコインを置いたのは左のカード、これには俺も驚いたが右のカードを捲ると俺なんかよりもずっと細身の男の方が驚きの表情を見せていた。
ゲームは続き、俺がカードを選択する番。いい加減さは変わらず適当に選んでコインを置いたのは左のカード、それがまさかの正解だった。
次に相手がカードを選択する番がきた。俺が○のカードを置いたのはまたしても右の位置だ。
「長谷川さん、今度は首を縦に振るか横に振るかでお答えください」
今更だが、俺は何でこの男の言う事を馬鹿真面目に聞いていたのだろうか、彩花さんが頷いたから答えていたものの、冷静に考えれば俺にだって拒否権はあるはずだ。
そもそもこの細身の男は、このゲームで一億と彩花さんが賭けて行われているのを知っているのか? 知っているにしてはあまりにも冷静というか淡々としすぎている。が、それもこの際どうでもいい。面倒だった俺は頬杖を付いたまま答えた。
「それでは長谷川さん、貴方が○のカードを置かれたのは右ですか」
俺は「ああ」と微小に頷く。
「では真ん中は違いますね」
これまた俺は微小に頷く。
「ならば左も違いますね」
『猿も木から落ちる』と言う。どんなプロでもミスはあるものだと細身の男を正解に導く為に俺は「そうそう」と答えだけを言って微小に首を縦に振った。
しかし、そんな俺の想いとは裏腹にまたもや男の動きが止まる。細身の男は頭を抱えたまま指先で自分の後頭部を何度も激しく掻き毟りだした。
「どうしたんだ!」と今まで黙っていた早乙女が不安気な表情で細身の男を見つめる。
細身の男は頭部を掻き毟る指先を止め、俺の顔をまじまじと見つめてきた。
「この人の顔からやる気と言うか生気を全く感じないんです……」
だろうな、やる気はない。だが生気がないとは言い過ぎじゃないのか……。
「どういう事だ」
「普通は人でしたら、勝負事の最中であれば喜怒哀楽の感情が必ず表情に現れるはずなんです。少しでも表情の動きや行動にズレがあれば心理を読み解く事は容易いのですが、今の長谷川さんはまるで魂の抜け殻のようで表情の動きもなければ行動のズレもないのですよ。この人一体何を考えているのか僕にはわからない。まるで死人と対峙しているようだ」
「死人だと?」
そう声を張り上げ早乙女が俺を見てくる。と、その時だった。
「ふふふ、あはははは」
突然、彩花さんの高らかに笑う声が地下室中に響き渡った。
「長谷川さん、ご苦労様です。そろそろ私と交代いたしましょう」
「えっ……」
俺は唖然としながらも隣に立っていた彩花さんを見上げる。
「さっ、彩花君。急にどうしたんだ!」
早乙女も驚いたのか面と食らった表情で彩花さんに言う。
「早乙女さん、代役は立てれるのですから当事者がプレイできないって事はないでしょう」
「彩花さん、もういいんですか?」
彩花さんは俺の顔を見て「はい」と頷く。俺が席を立つと早速、彩花さんはテーブルの椅子に腰を下ろした。
まさかのまさか、自らプレイするの事を拒んでいた彩花さんはテーブルに着くと細身の男を真っ直ぐに見据えニヤリと微笑む。
「いやあ、貴方も苦労しますね」
細身の男は彩花さんを見て首を傾げる。
「貴方はこのゲーム、何を賭けて行われているのか知っていますか?」
彩花さんがそう言った途端、早乙女の表情がみるみる豹変した。
「彩花君、余計な事を言うんじゃない!」
「余計? この勝負には私も関わっているのですから余計ではないでしょう。それにこの方は早乙女さんが囲っているのでしょう。ならば余計な事を外には漏らしませんよ、いや、もっぱら外に漏らしたとしても誰も信用はしないでしょうが」
彩花さんは頬杖をつくと、下顎に右手を添え細身の男に微笑みかけた。
「この勝負、一億と私を賭けて行われているのですよ」
彩花さんの話を聞いた細身の男はすぐに早乙女に視線を向ける。やはりこの男何も知らなかったようだ。
「うっ、嘘だ。この女の言っている事はデタラメだ。君は普段通りやりたまえ」
必死に細身の男を説得しようとする早乙女だが、そんな早乙女を見ていた彩花さんは前屈みになりながら「くっ、ふふふ、あはははは」と気が狂ったかのように笑い出した。
「知らぬが仏とはよく言ったものです、しかし知ってしまった以上貴方は負けるとどうなるのでしょう。天下の早乙女財閥の御子息に一億もの負担を背負わせるのですから、貴方もタダでは済まされないでしょうね」
細身の男の顔色は青白くなる。怒りに満ち溢れた表情の早乙女はテーブルの上を叩くようにして両手を置いた。
「無駄なお喋りはここまでだ。さあ、ゲームを続けたまえ、君も普段通りにやるんだ! 余計な事は考えるな。わかったかね?」
怯えるような瞳で細身の男は早乙女を見るとコクリと頷いた。
ゲームは再開し、細身の男がカードを選択する。当然彩花さんは俺が何処に○のカードを置いているのかは知らない。しかしこれが逆に良かったのか男も思ったような根拠を得られなかった為か何も考える様子もなくコインを真ん中のカードの前に置いた。
この選択は外れ、○のカードは右だ。だが、男の方もこの回は流そうとでも思っていたのであろう。そううろたえる様子は見せなかった。
続く、彩花さんがカードを選択する番、彩花さんは椅子を身体ごとクルリと回し正面を向くと細身の男が並べた三枚のカードを見て右側のカードを指差した。
「それでは長谷川さんにやっていたように、貴方にも私の質問に答えてもらいます」
なんて彩花さんは言い出す。それを聞いて早乙女が笑いだした。
「ふふふ、彩花君。何をやるのかと思えば彼の真似かね。そんな付け焼刃の考えが上手くいくと思っているのかね。君はもう少し賢い女だと思っていたが、ははははは」
「それはどうですかね、早乙女さん。彼が言っていたでしょう、勝負事の最中であれば喜怒哀楽の感情は人なら必ず表情に現れると、彼も特別な訳ではありません。それに何を賭けてこのゲームが行われているのか今の彼は知っています」
そう言うとニヤリと微笑み彩花さんは右のカードから順に指を差していく。
「貴方が○のカードを置かれたのは右ですか?」
「違います」
細身の男は真顔で答える。俺とやっていた時の余裕の表情が今の細身の男には見られなかった。
「それでは真ん中でしょうか?」
「違います」
「では左ですか?」
「違います」
彩花さんはすました顔で天井を見上げる。
「困りましたねぇ、すると貴方の○のカードは天にでも昇って行かれたのでしょうか?」
それから間髪入れず、彩花さんは細身の男の顔を見て右のカードにコインを置こうとする。が、途中で手を止め次は真ん中のカードにコインを置こうとする、その時俺も一瞬だけ見た。男の上唇の左端が一瞬だけ吊り上がり嫌な顔をする瞬間を。それを彩花さんも見逃さなかったのか、コインを真ん中のカードの前に置いた。
「貴方が○のカードを置かれたのは真ん中ですね」
男が険しい表情で捲る真ん中のカードには『○』の記号が、まさかの正解だった……。
動揺する細身の男に早乙女は声を張り上げる。
「何をやっているんだ君は! さっきのは私にでもわかったぞ、何をそんなに動揺しているんだ」
「仕方ないですよ早乙女さん。このゲームで何を賭けているのか知った以上、彼も今まで通りの冷静さは保てませんよ。このような状況で自分の心理まで隠せってのが酷ってもんです。それ程言われるのであれば早乙女さん、貴方がおやりになられては? 私はどちらでも構いませんわ、ふふふ」
「くっ……君が余計な事を言うから」
早乙女は下唇を噛み締め彩花さんをサングラス越しに睨みつけた。
「早乙女さん、大丈夫です。僕とした事が少々取り乱しました。次からは大丈夫ですので」
細身の男の発言を聞いた早乙女は安堵の表情を浮かべる。細身の男の表情は冷静さを取り戻したかのように思えた。しかし、俺は見ていた。早乙女が視線を外した瞬間、彩花さんが口元を右手で隠しニヤリと微笑むのを。この人はまだ何か考えている。
続くゲーム、彩花さんがカードを伏せる番となった。
正面を向いた細身の男は深く息を吐くと、右手の人差し指を突き立て右のカードから順に指を差す。
「それでは彩花さん、貴方が○のカードを置かれたのはこの右でしょうか」
「そうですね」
彩花さんは目下のカードを見ないで、男を真っ直ぐに見据えながら自信たっぷりに答える。まるで俺とやっていた時の細身の男のような表情だ。
「では真ん中は違いますね」
「そうですね」
まったく彩花さんに動じる気配もなければ表情に変化も見受けられなかった。
「ならば左も違いますよね」
「そうですね」
三つの質問に対し同じ表情、同じ言葉で彩花さんは答える。細身の男は頭を掻くとまだコインには手をつけず質問を変えてきた。
「すいません彩花さん、今度は首を縦に振るか横に振るかでお答えしてもらってよろしいでしょうか」
テーブルの上に彩花さんは両肘をつくと両手を握り合わせ細身の男を真っ直ぐに見据えたまま答えた。
「嫌です!」
(なっ、ええっ!)
これには俺も驚いたが、彩花さんは確かにそう言い切ったのだ。
「なっ、何を言っているんだね彩花君。彼の言っている事には従って貰わないと困るよ」
それを見て黙っていないのが早乙女、早乙女は狐につままれたような表情をしていた。
「何を言ってるって、それはこっちの台詞ですよ早乙女さん。もともと私達が彼の質問に答える義務はないはずですよ」
「はっ、長谷川君は答えていたじゃないか」
「ええ、ですから。長谷川さんがお答えになったのでこちら側としても相手に聞く権利はあるのですよ。なのでこれから先も私は彼に対して質問はしますけど、動きでの質問や答えは一切受け付けませんしこちら側も致しません。それだけの話しです」
せっ、正論だ……彩花さんの言っている事が正論、早乙女が言っている事は強要だ。
まさに『ぐうの音も出ない』とはこの事であろう、早乙女は悔しそうに地面を二度、三度強く踏みつけた。
動きでの質問を拒否された細身の男は他に打つ手もなかったのかこれ以降彩花さんに同じ質問をしつこく繰り返すのだが、彩花さんは「同じ質問に二度は答えません」と天井を見上げて男から視線を逸らす。それに心が折れたのか男は力なく右のカードの前にコインを置いた。
しかし、彩花さんが捲ったカードは左の位置、左のカードには『〇』の記号が……まさかのまさか、男はまたしても外したのだ。
この心理戦に置いて、細身の男に何か変化でも起こったのか。何故、彩花さんは男に心理を読まれないのか。
動きでの質問を拒否したり、視線を逸らしたり、男の顔を自信を持って見つめたりと、理解出来ない行動が多いが、それでも自然ではなく彩花さんは狙ってやっているように見えた。
ゲームは続いて行き、三勝五敗という結果から気が付けば八勝八敗という結果の五分と五分。俺にはこの結果が今だに信じられなかった。何せ相手は言うならばその道のスペシャリストみたいなもんだ。俺がプレイしている時にはこんな接戦になろうとは予想だにもしなかった。
ほぼ圧勝で負けるだろうと、しかし、それどころか気が付けば接戦、いや、彩花さんに代わってからは六勝三敗と逆に男を圧倒しているのだ。
細身の男は頭を抱えると頭部を指先で掻き毟る。この結果を目の前に焦りを感じているのは早乙女も同じだったであろう。早乙女は腕を組むと右腕だけを解き右手の中指で耳元を掻きながら妙な事を言ってきた。
「さっ、彩花君。一つ提案があるのだが」
早乙女は苦笑いを浮かべながら言う。
「どうかされましたか、早乙女さん」
「ここは引き分けと言う訳にはいかないかね? このままゲームを進めればどちらかが勝ってどちらかが負ける。当然私から提案してきたのだから、和解金として一千万は支払おう。それで十分じゃないか、君は諦めたくないが、この際だ仕方がない、諦めよう……」
「早乙女さん、それはあまりにも虫が良すぎる話しではありませんか? そうですねぇ、今の状況と結果でしたら五千万が妥当な額かと」
彩花さんは早乙女の顔を見てニヤリと微笑んだ。
「ごっ、五千万だと、ふざけるんじゃない! 引き分けで和解すれば君には何もリスクはないのだぞ」
「早乙女さん、誰が勝ち戦を目前にして引き分けで和解するのでしょうか。そうですねぇ、もしも相手が同じ事を言って引くような方でしたら少しは考えましょう。しかし私が同じ事を言っても貴方があっさりと承諾されたとは思いませんが」
「ひっ、人の足元を見やがって、まだ君が負ける可能性もあるのだぞ!」
彩花さんはテーブルの上に左肘をつくと左手に左の頬を乗せ右手の人差し指でテーブルの上をコツコツと叩き出した。
「私が負ける可能性ですか……それはもうないですね」
「なっ、何故そう言い切れる!」
彩花さんは俺には今まで見せた事がない冷たい瞳で目の前の細身の男を見つめた。
「彼、まったく場慣れされていませんね、まあ、無理もないですが。一億なんて大金を賭けたゲームなんて早々体験できるものではありませんし」
細身の男は顔を上げると彩花さんに視線を向けた。
「確かに貴方はこの手の心理ゲームにおいては長けているでしょう。長けているからこそ常にゲームの主導権を自分が握っているようで楽しかったでしょうね。まるでライオンが小動物を追い掛けて気紛れに食すか食さないかを決めるかのように相手の反応を見て楽しんでいたのでしょう」
彩花さんは不気味な笑みを浮かべる。まるで悪魔が微笑むかのように。
「ふふふ」
そして男を真っ直ぐに見据えぼそっと呟いた。
「貴方、負けたら死にますよ」
「えっ……」
細身の男の顔色は見る見る青白くなっていく。
「当然ですよ、天下の早乙女財閥の御曹司に一億もの負担を背負わせるのですから」
「なっ、何を言っているんだ彩花君、やめたまえ!」
早乙女の罵声に怯む事もなく彩花さんは細身の男を見つめたまま話しを続ける。
「そうですねぇ、現実的な所なら保険金ですかね。多額の保険金を掛けて貴方を殺しちゃうんですよ、もちろん事故に見せかけてですがね」
「そっ、そんなのすぐにばれるに決まっている!」
細身の男はテーブルの上を右の拳で力強く叩き彩花さんを睨みつける。
「ふふふ、ばれませんよ。早乙女さんならばね、それだけの富と名声を彼は持っておられます。私達虫螻の命など世に知られずとも消す事はできましょう」
細身の男の顔色は更に青白さを増していった。
「先程、貴方をライオンと例えましたね。ですが貴方はライオンでもまだ甘噛みしかした事がない子ライオンです。獲物は殺さず致命傷程度で済ませている。そうやって逃げて行く獲物を見て楽しんでいたのでしょうが」
彩花さんはテーブルから身を乗り出して細身の男をまじまじと見つめた。
「本気で捕食しようとするライオンと対峙した場合、捕食される側の小動物はどのような行動を取るのか知っていますか? まず、必死に逃げます、命懸けで逃げますが、やがては徐々に追い詰められます。岩場まで追い詰められた小動物は今の貴方のように顔色が悪くなり、体は震えだして目からは生気が消えます。生きたい生きたいと願いますが、ライオンの牙が喉元まで迫って行く」
「やめろおお! やめてくれえええ!」
突然、細身の男が悲鳴を上げる。男の顔色は青白く体は震えていて大粒の涙が頬を伝っていた。
「ふふふ」
彩花さんは身を引き椅子に座り直すと早乙女に視線を向けた。
「早乙女さん、最後に貴方に面白いものをお見せしましょう」
そう言って彩花さんは右手の指全てを曲げ手の平を軽く屈折させたままそれを俺に向けてきた。
「長谷川さん、これ猛獣の口みたいに見えませんか?」
「えっ、まっ、まあ……」
俺が頷くと彩花さんはニヤリと微笑み正面へと向き直る。
「ちょうど今は私がカードを選択する番ですね。それでは私の質問に答えてもらいましょう」
彩花さんは形を固定したままの右手を細身の男に向けて押し出した。
「貴方が○のカードを置かれたのは右ですか、ガオー」
(…………)
まっ、まるで、子供の遊びだ。彩花さんはライオンの鳴き真似をしながら男に質問をするのだが、真ん中のカードに向かって右手を押し出した時だった。
「貴方が○のカードを置かれたのは真ん中ですか、ガオー」
「うっ、うわああああ!」
突然悲鳴を上げると細身の男が後ろにたじろぎながら椅子ごと後方に倒れ込んだ。これには俺も早乙女も驚いたが彩花さんだけは冷静で相手側の真ん中に置かれていたカードを指差す。
「早乙女さん、彼の代わりに捲ってください」
「くっ……」
早乙女が嫌そうな顔をして捲った真ん中のカードには『○』の記号が……途端、早乙女は肩をガクッと落とした。
「どうしましょうか早乙女さん、もう彼はプレイ出来そうにありませんが」
「ごっ、五千万だ」
力なき声で早乙女は呟き「そうですね、この辺で私も折れておきましょう」と彩花さんはゲームを降りる事を承諾する。結果的に、五千万の和解金でこの勝負は決着した。
俺達の目の前ではまるで死人のような顔をした細身の男が虚ろな目で天井の赤いネオン灯を見上げている。今となっては俺とあの男どちらが生気がないかなんてのは明白だった。
早乙女もイラつきを隠せないのか時折「チッ」と舌打ちをしては地下室を歩き回っている。そんな中でバーカウンターからバーテンダーの女性が五千万の入ったアタッシュケースを彩花さんの目の前、テーブルの上に置く。ケースが開けられた瞬間、俺は絶句した。
こんな大金見た事がない、それもたった数時間の出来事で動いた金だ。
五千万という大金を初めて目にした俺はつい見とれてしまうが、彩花さんの方はこれ程の大金を目の前にしても何ら表情に変化はなく、それどころか札束を慣れた手つきで親指のみを使い器用に捲っていく。
「早乙女さん、確かに五千万円受け取りました」
ボックス席側からこちらに向かって来ていた早乙女が彩花さんの後ろで立ち止まった。
「彩花君、君の素性を少々調べさせてもらったのだが」
「それはそれは、ご苦労様です」
「君は僕を騙したな。白百合財閥の親族だなんて言うから調べてさせてもらったが君の名前は何処にも見当たらなかった」
「早乙女さん、まさかそれでこの勝負はなしだなんて言わないでしょうね」
彩花さんは椅子ごと後ろを振り返り腕を組むと凛とした瞳で早乙女を睨みつける。
「私が仮に白百合財閥の親族ではないとしても、貴方は私をフィアンセにしようとした。早乙女さん貴方が今言っている事は言い訳にしか過ぎません。天下の早乙女財閥の御曹司たるお方が、この期に及んで往生際が悪いのではないのでしょうか」
早乙女は「チッ」と舌打ちをするとボックス席のソファに乱暴に腰を下ろした。
「早く行きたまえ目障りだ!」
彩花さんはアタッシュケースの蓋を締めテーブルから立ち上がる。
「長谷川さん行きますよ」
「はっ、はい」
アタッシュケースを持ち地下室から足早に退室しようとする彩花さんを俺は慌てて追い掛ける。と、彩花さんがドアノブに手を掛けようとした時だった。
「彩花君」と早乙女が呼び止めてくる。
彩花さんも俺も早乙女の方を振り返った。
「僕をここまでコケにしたのは君が初めてだ。覚えておきたまえ」
彩花さんは視線を戻しドアを開け地下室から退室しようとする寸前、一言だけ呟いた。
「ええ、一生貴方の事は忘れないでしょう」
タクシーが昼にいた公園に着くまでの間、地下室を退室してからは俺と彩花さんに会話はなかった。
だがこれは別に疲れていたからとか彩花さんと話す気にならなかったとかそういう訳ではない。地下室を出てすぐに彩花さんに釘を刺されていたのだ。
「タクシーの運転手には聞かれたくない事もあるから公園に着くまでは黙っていてください」と。しかし口止めされていたのはタクシーの中までであり、公園に着いた今、俺としては彩花さんに聞きたい事がいくらでもあった。
タクシーを降りると周囲はすっかり暗くなっている。公園内の時計に目をやれば『午後八時』を少しだけ過ぎていた。
先に公園内に入ると彩花さんもアタッシュケースを持ってこちらに向かって来る。目が合うと彩花さんは空いていた左手でベンチの方を指差した。
「長谷川さんベンチへ」
彼女の指示に従いベンチに腰を下ろす。そして周囲を何気なく見渡すが公園内には俺と彩花さん以外は誰もいなかった。
彩花さんもベンチに腰を下ろし、自分の膝の上にアタッシュケースを乗せる。「彩花さん」、「長谷川さん」口を開いたのは同時だった。が、俺は発言権を彩花さんに譲った。
「先にどうぞ」
彩花さんはアタッシュケースを開きながら口を開く。
「長谷川さん、今日のことで貴方も気になる事が多々あるでしょうが」
そう言いながら彩花さんはアタッシュケースの中から札束を一つ取り出しケースの蓋を閉める。
「はっ、はい。いろいろと聞きたい事が」
はんば強引だった。彩花さんは俺の手を取りおそらく百万円の札束だろう物を俺の手に掴ませる。
「忘れませんか」
「えっ……」
彩花さんは俺の顔をまじまじと見つめてそう言った。
「貴方には何も損はないはず。ならば今後、長谷川さんと私が会う事はないでしょうし今日の出来事は夢だったと、そう思う事にしてください」
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ、今彩花さんに聞きたい事を頭の中で整理し……う、うっ……」
彩花さんは俺の口を左手で塞ぐと困ったような表情をする。
「タクシーを待たせているんです、時間もありません。私はこのまま去りますがどうかお願いします、今日の出来事は夢だったと、そう思う事にしてください」
そう言って彩花さんは俺の目の前から遠ざかって行く、俺は彼女を呼び止めようとはしなかった。ただずっと見えなくなるまで彩花さんの後ろ姿を見つめていた。
しばらくしてタクシーの遠ざかる音が聞こえる、何となく俺は夜の空を見上げた。
「夢ねぇ……」
満天の星空を見つめながら一人呟く、それから視線を手元に落とした。
「…………」
目の前の札束を見て急に現実感がなくなった俺は自分の頬を抓った。
「いっ、痛い」
やはり夢なんかではない、現実だ。そうなると彩花さんが去った今、今日の出来事なんかよりも今俺が持っているこの札束が急に怖くなってきた。
百万円なんて、こんな大金目にした事もなければ持った事もない。そもそも本当にこれは俺が貰っていいものなのか? いや、それ以前にやばい金じゃないのか? いろいろと考える。
(…………)
俺は周囲に人影がないか何度も執念深く確認すると自分の上着のポケットに札束をしまった。
心臓が強く脈を打っている、俺は何故こんなに興奮しているんだ。
これはまるで初恋の相手と始めて手を繋いだ時のあのドキドキ感に似ている。いや、待て俺。リアルで経験はないはずだ。エロゲーをやっていた時の感情と照らし合わせてどうする。
この感情はあれだ、おそらくスリル感から来るドキドキ感、これこそ俺が求めていた『刺激』ではないのだろうか。今日の出来事に俺は気付かぬ内に刺激を感じていたんだ。
興奮を抑えながらもう一度夜の空を見上げた。
「帰ろう」
一人呟くとベンチから立ち上がり俺は自宅へと足を進めた。