第一章
第一章 奇妙な出会い
(金がない、金がない、金がない)
だからつまらない。自室のパソコンモニターの前で俺は深い溜息を吐いた。
「はあ……」
パソコンモニターを乗せた台の上で頭を抱える。
(飽きた……)
ここ数年で昼夜を問わずありとあらゆるネトゲをやった、アニメも百タイトル近く見たんじゃないのだろうか、その他にも面白そうなサイトや電子掲示板、無料で出来る範囲のネットコンテンツを全てやり尽くした気がする。
『燃え尽きた』
今の俺にはピッタリの言葉だ。
何も考えはない。ただ本能的に立ち上がり、気が向いた時にしか開けない部屋のカーテンを開けてみた。
(眩しい……)
季節は四月中旬、太陽の強い陽射しが土竜のような生活を送っていた俺の目に染みる。突然頭の中がくらーっとなり立ちくらみを起こした。
(げっ、ゲロ吐きそうだ……)
このまま死ぬんじゃないのか? 本気でそう思ったが太陽光で死ぬのだけはごめんだと慌ててカーテンを締めた。
少しだけ吸血鬼の気持ちがわかった気がする。
「健一、健一」
急に体調が悪くなった俺は部屋の奥隅にあるベッドに一時避難していたのだが、下の階から母親の声が聞こえてきた。
自室に置かれた目覚まし時計に目をやると今の時刻は『午前十一時』、この時間に俺の名前を呼ぶって事はいつものあれか。
「健一、いるんでしょ、いたら返事しなさい」
階段を上ってくる母親の足音が聞こえ、俺は自室のドアを開けられる前に自分から二階の廊下へと出た。
「どうかしたの?」
頭をポリポリと掻きながら言う俺を母親はゴミを見るような目で見ている。
「あんたあ、もうお昼だってのに寝癖つけて、今起きたんたでしょう。いつも言っているじゃない、規律正しい生活しなさいって、また昨日も夜遅くまでパソコンしていたんでしょう」
何処にでもいそうな平凡な容姿をした四十後半になるうちの母親がいつもと同じ事を言ってくる。もう何度同じ言葉を耳にしたことか、規律正しい生活なんて誰が決めたんだ。
世の中の伝統的な言葉なのかもしれないが、規則正しく生きて何か得でもあるのだろうか。早起きは三文の得なんてことわざもあるが俺は早起きをして得なんてした事がない。学生の頃なんて早く起きた為に早く睡魔が襲ってきて深夜アニメを見逃したくらいだ。
その教訓から俺は生活スタイルを夜型に変えたのだ。まあ、録画すればいいだけの話しなのだが、あんなもの陽の光が出ているうちに見るものではない。深夜のリアルタイムに見るからこそ新鮮みが増すってもんだ。
「で、なに?」
だからと言って母親の発言に反抗はしない。反抗するとこの母親は父親に密告という大変恐ろしい行動に走る可能性があるからだ。
「あっ、そうそう。今から隣りの山田さんとこの奥さんと買い物に行ってくるからあんた夕方まで店番しててちょうだい」
(ほら来た!)
俺の名前を呼ぶ時は大抵そう、店番以外に俺に用事もないのかもしれないが。
そしてこの母親の頼みを俺はあっさりと承諾する。
「いいよ」
俺の返事を聞いた母親は急に機嫌が良くなったのか軽快な足取りで階段を下りて行く、どうせ近くにあるデパートのバーゲンセールとかそんなとこだろう。
うちも一応、自営で店を営んでるんだけどな……。
俺が店番をあっさりと承諾した理由、それは父親への密告を避ける為でもあるがそれ以外にも二つ程理由がある。まず一つは母親が出掛けるとこの家は俺一人になるので気楽に過ごしやすくなること。二つ目は一応肩書きが『自営業手伝い』の俺は今からやる店番が唯一の微小な収入源なのだ。
先程部屋で金がないとぼやいておきながら金がないなら就職先でも探してせっせと働けばいいだけの話しなのだが、どうも俺は普通に働いて普通に収入を得る事に対してあまりノリ気になれないのだ。
こんな平日の快晴日和、十七歳になる俺は本来なら高校に行ってるはずなのだが高校には進学しなかった。
高校に進学しなかった理由は何となくだ。だから後悔もしていない。普通に高校、それから大学にと進学して無難な職に就くってのが世の中のセオリーなのだろう。
まあ、そういう未来プランが一番無難なのもわかっている。落ちたら溺れそうな激流の上をわざわざ細い橋を選んで渡ろうとする奴もおるまい。いや、訂正する。世の中にはいるんじゃないか? 俺みたいな奴も、要は『刺激』だ。
いつ落ちるかわからないというスリル感を求めて渡ろうとする奴も世の中にはいるはずだ。俺もそういった人間の一人なのかもしれない。そんな馬鹿げた行動をする奴らにおそらく理由なんてないだろう。
あるとすればこう答えるんじゃないか。
『何となく面白そうだったから』
うーん……自分で答えを出しといててあれだが、ちょっと馬鹿っぽいよな……。
「健一、あんたまだ二階にいるの? お母さんもう出掛けるからね、店番頼んだわよ!」
どうせ客なんて滅多に来ないんだからそう焦らすなよマイマザー。
「わかったよ、いってらっしゃい。気を付けてね!」
良い子を演じるってのも大変である。俺は渋々と階段を下りると居間を通り店の売り場へと出た。
うちの家は店舗兼住居の造りになっており、一階の売り場の奥には居間と台所、風呂とトイレがあり、二階には両親の寝室と俺と妹の部屋がある。築は十五年も経つのだが、まだローンが二十年も残っているという曰く付きの建物だ。
早速レジ台の椅子に座った俺はレジ台の上に頬杖をつきながら店内を見渡す。うちは何屋と言えばいいのだろうか、とにかくそこそこ品揃えはいい。左の陳列棚から調味料や日用雑貨、中央の陳列棚にはお菓子、右側の陳列棚、冷凍棚には野菜、氷菓子、精肉等が置いてある。唯一置いていないのは魚くらいか、母親曰く店内が生腐くなるので置いていないらしい。ちなみにこれだけ商品を揃えているのは対コンビニ対策だそうだ。
とはいえ、今時大型デパートや大手チェーン店に客取り合戦で勝てるはずもなく、もともと夫婦で経営していたうちの店も経営不振が長らく続き父親は母親に店を任せ自身は外へ勤めに行っている。
やって来る客といえば大手スーパーで買い忘れた調味料やら日用雑貨を買いに来る近所の主婦かお菓子を買いに来る近所の悪ガキくらいだ。
そういやあ悪ガキで思い出したが最近の悪ガキは実に賢い、こないだの事だ。
ネトゲに夢中だった俺は自室のドアを開け店に客が来たら適当に対応していたのだが、先日、悪ガキがひとり来て「アイスの当たり棒持ってきた!」なんて聞こえてきたからいちいちレジに戻る必要はないと考え「当たり棒置いて適当に持っていけ!」と俺は叫んだんだ。
それからネトゲがひと段落したとこて売り場に戻ってみるとレジ台の上には『ばーか』と手書きで記載されたアイスの棒が一本置かれていた……。
当然、当たりの棒なんかではない、もともと無字の棒にそう書いてあったのだ。
『当たり』と書いてあればまだ可愛いものの、『ばーか』とはあの子の親は子供に一体どういう教育をしているんだろうね。まったく、親の顔を見てみたいものである。
(って……)
「それは俺もか……」
自覚はある。十七にもなって高校にもいかず定職にも就かずこうやって平日の昼間から店番してんだ。近所の人が俺を見て思う事は今俺が悪ガキに対して思った事と同じ事を思っているのかもしれない。中学を卒業してから二年、このままではダメだと薄々気付き始めてはいるんだ。
とにかく俺を見る両親の目から愛情の欠片が感じられない。更にそれより冷たいのが妹の目だ。もともと横着な妹ではあったが、あいつは俺の事をゴキブリとでも思っているのかね。こないだ食事中に出たゴキブリを見る目が俺を見る時の目とそっくりだった。
それにだ、先程俺の人生観に少し触れたが、いくら待っても肝心なものがないのだ。
それは『刺激』なのだが、俺は刺激を求めているのにまったく刺激を感じるような出来事が起きないのだ。
そりゃあこんな箱入り息子みたいな生活送っていたら刺激なんてものはないのかもしれない。だからって自ら行動してお昼のワイドショーを賑わせたり盗んだバイクで走り出したり。そんな刺激を俺は求めている訳じゃないんだ。
俺が求めている『刺激』ってのは何て言うのかな……言葉では言い表しにくいが、自分だけしか知らないちょっとした裏世界ってのかな。
普通的ではなく、ちょっと特殊な感じ。そんな世界で俺は生きたいんだって言ってもわからないよな。俺も自分で言っといて良くわからん……。
レジ台から店の外の景色をぼーっと見つめる。
「はあ……」
もうかれこれ二年来の付き合いになる深い溜息を吐くと売り場の時計に目をやった。
『午前十一時三十分』
正直、客が来ない店でインターネットにもマンネリ化してきた俺に今日の店番は苦痛以外の何者でもない。どうせ客は学校帰りに来るガキ共か夕食前のうっかり主婦しか来ないのだ。
ひょっとしたら昼食前のうっかり主婦が来るかもしれない。しかし急に外の風にあたりたくなった俺は店をほっぽり出して、自宅を後にした。
生暖かい微風の春風が頬を掠める。道中、真新しい制服に身を包んだ学生達を何人か見た。
若人が羽ばたいて行くこの神聖な季節に、店をほっぽり出して俺が何をしているかというと、海上を繋ぐ道路橋の歩道の上に一人ぽつんと立っていた。
橋の手摺に手をやるとほんのりだが冷たい。橋の下から見える海面は穏やかだったが、海の温度はどうなのだろうか、最近では春に雪が降るとも聞く、おそらく暖かくはないであろう。
ここが俺の散歩スポットである『二葉堂海上道路橋』だ。
金がない俺はここで時折暇を潰している。金がないなら金がないでこんな道路橋の上でもいい暇つぶしになるもんだ。
例えば狭い海峡の上に掛かっている橋なので大潮の日になると橋の下では大きな渦潮が発生する。橋の上から見る渦潮の光景はまるで台風でも真上から見ているようで神秘的だ。後はこれだけ海が穏やかだと海面から魚が、あれ、魚の姿が見えるはずなんだが……。
俺は橋の手摺に両手をつき、前屈みになりながら海面を覗き込もうとした。
「あのぉ、すいません」
突然だった。後ろから声を掛けられ、腕の力が抜けた。
後ろを振り返るとそこには長い黒髪の清楚な出で立ちをした美しい女性が立っていた。
「なっ、何か?」
「いえ、まあ、大した事ではないんですけど、飛ばれますか?」
「はっ、はい?」
そりゃあ驚いたよ。急に飛ばれますかと聞かれたんだもの、大した事を聞かれた俺は首を慌てて横に振った。
「いえ、そんな気は……」
「あっ、すっ、すいません」
(んっ?)
目の前の女性は恐縮するように軽く頭を下げると目の前から遠ざかって行く、女性の行く末をただじっと見つめていると女性は右の拳で左の手の平を「ポン」と叩きまた戻って来た。
「はっ、早まらないでください!」
女性は両手を天高く突き上げると俺の胸元に額を「ドン」と打ち付ける。
「さっ、さっきから貴方は何を言っているんですか……」
「すっ、すいません。こんな事初めてでしてどうしていいのかわからなくて……」
女性の肩に手をやり、俺の胸元から離してあげる。この女性はどうやら誤解をしているようだ。
でもまあ、女性の立場なら誤解を招くような行為を俺がしていたのかもしれない、ここはそうした願望者が後を絶たない有名なスポットでもあるのだ……。
「こちらこそすいません、誤解を招くような行為をしていたみたいで」
「いえいえ、貴方みたいな方をずっとお待ちしていたのですよ」
「はっ、はいっ。今何を待っていたと?」
「あっ、いえ、すいません、さっきの発言はなかった事にしてください」
そう言うと女性はくるりと背を向け俯く、どうやら何かを考えている様子だったが、しばらくしてまたこちらを振り向いた。
「もしよろしければ、あんな事をやろうとした理由を教えてもらえないでしょうか」
どうも俺はこの女性との距離感がいまいち掴めない。しかし誤解とは言え相手も善意でやっている行動、そう怪訝にもあしらえないであろう。
「ここでは何ですし、ちょっと移動しませんか」
場所を移して彼女を少し落ち着かせよう。そう思った俺は彼女を近くの公園のベンチまで誘導し、先に座っていた女性の横に腰を下ろした。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
途中、なけなしの金で買った缶コーヒを彼女に手渡す。それから自分の分の缶コーヒーを一口、口に含んだ。
「私、さっきから貴方に対して失礼な事ばかり言っているような」
女性の頬はほんのりとだが赤らんでいる、何とも不思議な女性だ。
「いえいえ、いいんですよ。俺もあんな所に一人で立っていて変な誤解を与えてしまったようでお恥ずかしい……」
「恥ずかしくなんてないですよ、もっと自分に自信を持ってください!」
女性は両拳を上げガッツポーズをすると凛とした瞳で俺を見つめる。この人はあれか、さっきから俺に喧嘩を売っているのか?
「ははは」と後頭部に手をやり俺は思わずニガっと苦笑い。
「そっ、それではそろそろあんな事をやろうとした理由を教えてください!」
俺はこの人とまともに会話のやり取りが出来ているのだろうか? それさえ疑問に思うとこだがここまで誘っておいて誤解を解かねば俺が納得いかん。
「すいません、おそらくなんですが貴方勘違いされていますよ。俺はあの橋の上から魚を見ようとしていただけなんです」
「なるほど、よくあるパターンですね」
これをよくあるパターンと言うのであれば、この女性は違う楽しみ方でも知っているのか。あの橋を愛する者としては大変興味のある発言だ。
「貴方はあの橋の上で何を」
「私ですか、私は貴方を止めようと思いまして、わかりますよ貴方の気持ち。でっ、ですが隠す必要もないじゃないですか、見ず知らずの人間だからこそ打ち明けられる事もあるのでは……」
「は?」
畏まる女性を見て俺は呆れたね。どうやらこの女性は今だに俺の事を誤解しているようである。どれだけ思い込みが激しい女性だろうか。
普段から温厚な俺でもここまで聞き分けが悪いと多少はムカっとくる訳で、
「はっきり言っていいですか、貴方は先程から何を言いたいんですか、俺はあの橋の上から魚を眺めていただけなんです!」
そう声を張り上げる俺に彼女は恐縮しだすのかと思いきや、突然腰を上げると俺の目の前に立つ。
「お節介かもしれませんが私は貴方を助けたいのです!」
「はっ、はい?」
この人は一体何を言い出すのかと、俺は一瞬自分の耳を疑った。
「失礼ですが借金はおいくら程でしょうか」
もういい、もうどうでもいい……。
「十万円程ですかね……」
適当に付き合って切りの良い所で引き上げよう、俺はたぶん触れてはいけない禁断の果実に触れてしまったのだ。
ちなみに借金の十万円は嘘ではなく本当の事だ。母親から借りている前借りの額がたぶんそのくらいまで膨れ上がっているだろう。
「あら、意外にお安い。貴方小心者なんですね」
「安いですか……」
「ええまあ、そのくらいの借金といいますかローンなんて誰でも持っているものですよ」
(俺、まだ十七なんですが……)
だけど彼女の発言に一瞬何かが心にグサッと突き刺さったような気がして俺は肩を落とした。
「ええ、小心者なんです……」
「いえいえ、褒めているのですよ。尚更私にとっては好都合だったのでそれでは今から少しだけ私にお付き合いください」
「はっ、はい? いや、俺は店番がありますから……」
「店番? 貴方何をおっしゃっているのですか、店番をされている方があんな橋の上にひとりで立っているはずないでしょう」
「そっ、それは……」
今になって後悔する。店をほっぽり出したのはまずかったか……。
「そもそも助けるって俺を一体どうするつもりなんですか」
「そうですねぇ。あっと、自己紹介が遅れました。私の名前は『彩城彩花』と申します。年齢は十八なのですが、貴方と歳は近そうですね」
「俺は長谷川健一、十七歳です」
「ふむ、長谷川さん意外にお若いのですね。あっ、でも、若いからこそ人には言えない悩みもあるのでしょう。お金の問題とかお金の問題とかお金の問題とか!」
「そこまでお金の問題には……すいませんけど貴方は一体何者なんですか」
「私ですか、そうですねぇ、貴方の救世主とでも言っておきましょうか。長谷川さんもしかして私の事を疑っておられます?」
今頃この人は気付いたのか。しかし自覚があるだけまだましか。
「そりゃそうでしょう、突然俺を助けるなんて貴方に一体何の得があるというのですか、それに今、貴方の事を美人局か悪質なグループの引っ掛け役じゃないのかと疑っていたとこです」
今の世の中いろんな手口の詐欺があると聞く、この女性は絶対におかしい。何か裏があるはずだ。
「美人局か? 悪質なグループの引っ掛け役? ぷっ、あははははは」
彩花さんは右手を口元にやると前屈みになりながら突然笑い出した。
「何がそんなに面白いんですか」
「だって長谷川さん、貴方自分から疑っている相手に疑っているとおっしゃっているじゃないですか」
「えっ、あっ、確かに」
指摘された俺は慌てて自分の口を右手で覆った。
「いいんですよ、そういうのは自分で言っておいて気付かないものです。なる程、長谷川さんが私の事をどう思われているのか良くわかりました。ですがね長谷川さん、貴方を助ける事により私に得がないという訳ではないのですよ」
「どういう事ですか」
「簡単に言いますと、今から私に付き合ってもらいとある場所に移動してもらいます。そこで私の指示に従ってもらい上手く事が運べば貴方に百万円を差し上げましょう。まあ、上手くいけばとは言っていますが間違いなく大丈夫でしょう。ですがそれは貴方がいればという前提の話しですがね」
「ひゃ、百万円!」
聞き慣れない大金に思わず声が張る。
「お金欲しいのでしょう?」
そりゃあ欲しい。世界中共通の願いだ。
「だけど何で俺なんかが?」
疑問だ。俺がいれば上手く事が運ぶなんてこの人は何を根拠に言っているのだろうか、俺はそんな大それた人間ではないぞ。
「今はそれをお答えできません。道中で詳しい経緯は説明しますけど、長谷川さん貴方は今私を疑っておられますよね。もちろんこの場で断ってもらってもいいのですが、道中もし私の事を不審に思われるのであれば途中で帰ってもらっても構いません」
「時間はどのくらいですかね」
「夜までには」
夜ねぇ……行けば間違いなく母親に怒られるだろうな。
「あのぉ、後日とかは無理ですよね……」
「無理ですね、時間もありません」
彩花さんはきっぱりとそう言い切る。
「少し考えさせてください」
俺はベンチに座ったまま額に右手を添えた。彩花さんはそんな俺に気を使ってくれたのか公園内に植えてある一本の大きな桜の木の下に歩み寄って行く。
正直こんな怪しい話しはない。悩むまでもなく断るべきなのは重々承知している。何せさっき出会ったばかりの女性が突然、百万円あげるからついて来いと言っているのだ。
だがその百万円は条件付きでもある、それに彩花さん自身も俺が疑っているのを知っていて顔色一つ変えず話しを続けた。
(嘘か誠か……)
これがもし、悪質な詐欺だとしたら危険なのは彩花さんと共に向かおうとしているその場所なのであろう。そこまで同行したら逃げれないのかもしれないが……。
しかし真実ならば? もう少しだけ彼女に付き合ってみるのもありかもしれない。もしやばそうなら逃げればいい。彼女も途中で帰ってもいいと言っているんだ。
(百万円、百万円、百万円)
例え怪しいとわかっていても気持ちが揺るがないはずがない。本当に馬鹿らしい話しではあるが、若さ故の興味か。俺は顔を上げるとベンチから立ち上がっていた。
彩花さんの方に引き寄せられるように自然と足が向かっている。何となくだが俺が求めている『刺激』を彼女が持っていそうな気がして、いや、持っていなくてもそういう世界を彼女が知っていそうな気がしたんだ。
「彩花さん行きます。俺も同行させてください」
彩花さんは桜の木を見上げながら「ふふふ」と不気味な笑みを浮かべた。
「では行きましょう」
もしやばそうなら逃げるまでだと自分に何度も言い聞かせ彼女に同行する事にした。
とある場所にはタクシーでの移動との事なので、俺と彩花さんは公園を出るとタクシーが拾えそうな街の中心部へと向かっていた。
「長谷川さん、気付かれましたか?」
「はい?」
俺と横並びで歩いていた彩花さんが何かを握り締めたまま右の拳を俺の目の前に差し出してくる。
「先程の桜ですよ」
「ああ、立派な桜の木でしたね」
「はい、ですが、あの桜の木花が咲いていませんでしたよね」
「遅咲きなんですかね」
「いえ、もう既に散った後でした。その証拠にほら、あの桜の木の下に落ちていたんですよ」
そう言うと彩花さんは握り締めていた右の拳を開く、彼女の右の手の平の上には一枚の桜の花弁が乗っていた。
「早く咲けば早く散る。桜だけではなく花全般に言えることですが、散った後は切ないものですよね」
「はあ……」
「だけど人間は違いますよね。不運なんて事もありますが、寿命を迎えるまでは自分の意思で咲き誇る事もできれば散る事だってできます」
「彩花さん、それって俺に言ってるんですよね……」
「さあ、少なくとも私は思った事を口にしただけですが」
彩花さんは小首を傾げながら言うのだが、おそらく俺に対して言ったのであろう。あの橋の上でそういう事を考えていた人間ならばありがたい言葉なのかもしれない。しかし俺は違う。だが今だに誤解しているとはいえ、ここまで親身になって俺を宥めようとする彩花さんってもしかして良い人なのか?
いや、ダメだ。こういう思考こそ危険なのだ。
俺はまだ彩花さんの事を信用している訳ではない。あくまでも今は『百万円』として接しているだけである。そもそもこの人、俺が仮に願望者だとしてもそんな人に声を掛け止めようとする行為までは理解できる。だが、金まであげるからついて来いなんて不可解な行動までは理解できない。彼女に対する不信感は益々積もるばかりだった。
「それでは長谷川さん、私に対する貴方の疑いを晴らす為にも、今からやろうとしている事について経緯を軽くお話ししておきたいのですが」
「えっ、話してくれるんですか?」
「ええ、自分でも自覚しているのですよ。先程の会話程度で私を信じる程貴方もお人好しではないでしょう」
彩花さんは俺の心を見透かしたかのようなタイミンで言う。彼女の真意を少しでも知りたかった俺としてはありがたい。
「言ったでしょう。貴方がいれば間違いなく大丈夫だと、なので途中で帰ってもらっても構わないとは言いましたが、長谷川さんがいなければ当然私としては困る訳です。貴方に途中で逃げられいない為にも私の事を信用して貰う必要があるのですよ」
「わっ、わかりました。聞かせてください」
彩花さんを歩みを止め、ビルの壁に背中を預けると淡々と経緯を語り始めた。
「話しは一ヶ月前にさかのぼります、長谷川さん早乙女財閥ってご存知でしょうか?」
「早乙女財閥って言えばこの辺の企業の親元じゃないですか、日本でも有数の大財閥ですよ」
「ええ、私は一か月前にその早乙女財閥が主催するパーティーに出席致しまして。そこの馬鹿息子、いえ、すいません今のは訂正させてください。そこのご子息の方と知り合いましてねぇ、その方から私求婚されたのですよ」
「はい? いきなりプロポーズされたんですか」
「いえ、何度かその後も食事に誘ってもらい三度目にお会いした時ですね」
「ならいいじゃないですか、早乙女財閥のご子息となれば玉の輿ですよ」
「玉の輿ね……私あまりそういうのには興味がなかったので、その時はお断りしたのですよ」
「そっ、それはもったいない……」
「もったいない? うーん、まあ、それは長谷川さんにもご本人を直接見て貰えればわかると思います。それで話しを戻しますが彼のプロポーズを断ったまでは良かったのです。しかしその後も何度も言い寄られましてね」
「しつこい方だったんですね」
「ええ、そりゃもう……だから彼に言ったのですよ。もし私をお買いになるならいくら出しますかと」
「はっ、はい? 何故急にそんな事を……で、いくらと……」
「一億です、彼は私なら一億出すとおっしゃいました」
「いっ、一億!」
あまりの額に俺は思わず後退る。今更だが冷静に見ると彩花さんはかなりの美人だ。
清楚な出で立ちに大きな瞳、整った鼻立ちにシャープな淡い紅色の唇。出るとこも出ていて白いドレスも良く似合っている。あんな場で出会ってなく、もし街中ですれ違ってれば振り返ってしまう程の美少女だ。更にはこの若さで財閥のパーティーに出席できる程のコネがあるのなら彩花さんって何処かのお嬢様なのか? しかし一億とは金持ちの考える事は良く理解できん。
「なので私は彼にある提案をしたのですよ。その一億を賭けて私とゲームをしませんかとね」
「げっ、ゲーム? 何でまたそんな発想に……」
「それは私のビジネ、いえ、ただの思いつきですよ。私が負けた場合は貴方の妻になります、ただし勝った場合は私に一億を支払い尚且つ私をきっぱりと諦めてくださいと彼に言いました」
「するとその方は?」
「あっさりと承諾されましたよ。もともと金持ちなんて人種は株を主にカジノや競馬とギャンブルが嫌いなクチではないですからね。ですが、彼にもいくつか条件を提示されましてね」
「なんと」
「君は負けてもそう深手は負わないが、僕は負けると一億を失う上に君を諦めなくてはならない。だからゲームと場所はこちら側で指定させてくれと」
「まさか彩花さん、その条件を呑んだのでは?」
「ええ、彼が言った事は妥当でしたから、私が条件を飲んだ途端、彼が嬉しそうに笑うのですよ。それがとても印象的でしたね」
この人は何を考えているんだ……。
「そりゃあそうですよ! いくら妥当だからってそれを呑んじゃダメでしょう……そんなの相手の思うツボじゃないですか、何か不正があったとしても何も言えませんよ」
「長谷川さん、全てわかった上で私は承諾したのですよ。なので私もそれを呑む条件としてひとつだけ彼にお願いしました。場所とゲームとそのゲームのルールを一週間前に教えてくださいとね」
「それじゃあ彩花さんは今から何処で何をやるのかを知っているんですね」
「はい」と彩花さんは頷くと、ビルの壁から背中を離し、「歩きながら話しましょう」と先を急ぐ。それ程時間が迫っているのだろうか? 俺は彩花さんに遅れまいと足早に彼女を追い掛けた。
「長谷川さんゲームの内容ですが」
「はい」
「簡単な心理ゲームです。三枚のカードを互いに見えないようシャッフルしそれを伏せてその中に一枚だけある『○』と記載されたカードを当て合うというゲームなんですが」
「そのゲームなら何となくわかります」
「なら話しは早い。ルールの方も大変シンプルでして、カードを互いに当てあい先に十勝した方が勝者となります」
彩花さんがここまで言い終えた時、ちょうど前方からタクシーがこちらに向かって来ていた。
そのタクシーの『空車』表示を目にすると、彩花さんは右手で合図を送りすぐにタクシーは俺達の目の前で停車した。
「彩花さん、あのですよ」
俺がここまで言い掛けると彩花さんは突き立てた左手の人差し指を自分の唇に押し当てる。
(喋るなと言っているのか?)
口を噤む俺を確認するとその動作をやめ、彩花さんはタクシーの助手席に回り込んだ。
「長谷川さんここまでです。ここからは貴方の質問にはお答えできませんし、質問も受け付けません。ここから先は私の指示にだけ従ってください。それが出来ないのであれば今からでもお帰りいただいて構いません。『来るか』、『来ないのか』、この二択でお答えください」
突然だった。正直俺にはまだ疑問だらけだしそれどころか益々わからなくなってきた。
根本的な所になると、何故そのゲームに俺が必要なのか?
ただ心細いからという理由だけではおかしな話しだ。
だが、それすらゆっくり考える暇もないらしい。彩花さんは助手席のドアに手を掛けタクシーに乗り込もうとしていた。
それに焦りを感じた俺は「行きます」と答えてしまう。
彼女に対しての疑いが俺の中で完全に払拭された訳ではないが、経緯を聞き当初からすれば信用はできると思った。
しかし彼女について行こうとした一番の理由は彩花さんから感じる深い闇を漂わせるような独特のオーラであろう。何故か彼女について行けば俺が求めているものが見れるような気がしたんだ。
「では、後部座席へ」
彩花さんの指示に従い俺は後部座席へと乗り込む。助手席に座った彩花さんは運転手に名刺のような物を渡し「こちらまでお願いします」と行き先を告げた。
名刺を見た運転手は瞬時に顔を上げると彩花さんと俺の顔を交互に見やり視線をまた前に戻す。それからすぐに「畏まりました」とタクシーは走り出した。
タクシーに乗って三十分程経過しただろうか、俺は時計を所持していない。前方にあるデジタル時計やカーナビを見れば時間も場所もある程度特定はできるのだろうが、彩花さんが助手席に座っている手前それはやりにくい。ただぼーっと外を眺めていたのでタクシーの道のりくらいは覚えている。
このタクシーは市街地を抜け国道を通り今は山道を上っている。彩花さんは彩花さんで有言実行と言わんばかりにタクシーに乗車してからは口を全く開かない。こうなると人間不安になってくるものだ。
一体こんな山道を上って何があると言うのだろうか、母方の祖母が四国の田舎に住んでいるのでこういった田舎風景はガキの頃に何度か見ている。このまま進んでも、か細い民家と田畑がぽつぽつとあるくらいだろう。やはり俺は騙されているのか?
そう思うとつい俯いてしまう。
そんな疑心暗鬼の中でふと顔を上げてみると、突然開けた広大な開拓地が見えてきた。対向車線から走ってくるダンプカーの横には『早乙女建設』と表記されている。早乙女建設と言えば社名の通り早乙女財閥が運営する建設会社だ。
これ程の広大な土地を切り開いてるって事は工場でも建設しようとしているのか、更にタクシーは進んで行き俺は思わず「えっ」と声を張り上げた。
広大な開拓地を抜けるとそこには驚く程の大きなホテルが建っていたのだ。
さっき見た広大な開拓地、おそらくは工場を建設する為のものではないであろう。社員寮にしてはあまりにも神のような待遇だ。
そうなると考えられるのはテーマーパークか?
(しかし何故こんな山奥に……)
「長谷川さん、先に降りていてもらってよろしいでしょうか」
タクシーはホテルの前で停車していた。
彩花さんに「はい」と返事をしタクシーを降りると、改めて目の前の巨大なホテルをまじまじと見てみる。どうやらこのホテルまだ完成はしていないらしい。外装こそ立派なものの入口から見えるロビーの床にはペンキ缶が置かれている、まだ内装工事の途中みたいだ。
彩花さんは運転手の男性と何やら話している様子だったがしばらくしてタクシーから降りてきた。
「彩花さん、あの開拓地といい、このホテルといいこれは一体なんですか」
俺の話しを聞いた彩花さんはしばらく俯いたたまま何も言わず。やはり何も答えてはくれないのだろうかと思ったその時だった。
「長谷川さん、タクシーに乗車する前に私が言った発言ですが、少々制限しすぎました。長谷川さんもいろいろと不安があるでしょう。お答えできる範囲であればお答えします。ただし、余程の事ではない限り私に質問はしないでください」
「はっ、はあ……」
「カジノです」
「はっ、はい?」
「ですから先程の長谷川さんの質問にお答えしたのですよ」
「カジノ?」
そう聞き返すと彩花さんはコクリと頷く。
「カジノって最近法案が通ったばかりですよね、もう着手していたんですか」
「長谷川さん」
俺の名を呼ぶと彩花さんも目の前の巨大なホテルを見上げた。
「経済のトップに立つ連中の嗅覚はずば抜けています。一般人が今知り得た情報なんてのは彼等には数年前から耳に入っている情報なのですよ」
「そっ、そうですよね。ははは……」
先程見た広大な開拓地に目の前の高級ホテル、余りのスケールの大きさに俺はただ苦笑いでも浮かべているしかなかった。
「それでは行きましょう」
そんな俺を尻目に彩花さんはホテルに向かって歩いて行く。
「彩花さん!」
ホテルの玄関前で足を止め俺の方を彩花さんは振り返ると、またもや左手の人差し指を突き立て自分の唇に押し当てた。
「今から地下室に行きます。地下室には彼もいますので全てが終わるまでは余程の事がない限り私に話し掛けないでください。長谷川さん、何度も言うようですが本当にその辺は気を付けてくださいね」
「すっ、すいません」
小声で言う彩花さんに小声で返した。
ホテルの玄関から中へ入ると広々としたロビー、その天井には金ピカのシャンデリアがいくつもぶら下がっていて足元に視線を落とすと床は煌く大理石ときた。俺には不釣り合いの高級ホテル内で天井を再び見上げながらこのシャンデリアはメッキなのかそれとも純金なのかなんて馬鹿げた事を考えていると、「長谷川さんこっちです」と俺の名を呼ぶ彩花さんはいつの間にか受付カウンターの中に立っていた。
彼女は自分の後ろ側、受付カウンターの中にあるドアを指差す。
「行きますよ」
彩花さんの声は聞こえないが口の動きがそう言っていた。
彩花さんの後に続きそのドアから中へと入る。この部屋は従業員の休憩室なのか部屋の中にはパイプ椅子や長テーブルが置いてあり、長テーブルの上には電話機やノートパソコンが数台置かれていた。
更にこの部屋には他の部屋に通じているドアが二つあり、一つは正面、もう一つは入口から左手側に見える。その左手側のドアの前に彩花さんは立つと白いドレスのポケットから何やら鍵のような物を取り出した。
「このドアから地下室に繋がっています」
「わかりました」
余程警戒しているのか彩花さんは微小な声で言う。それに対し俺も微小な声で答えた。
「ガチャッ」とドアが開き中へ入ると赤いネオン灯で照らされた薄暗い階段が自分の足元に見える、この階段はそのまま部屋に設置してある訳ではなく、階段のみのスペースになっていた。
思ったより長い階段を下りて行く度に自分の胸の鼓動が早くなっている事に気付く、この空間の静けさも相成り更に俺の心臓は強く脈を打っていた。
階段の一番下まで降りると、そこにはもう一枚ドアがあり彩花さんはそのドアの前に立つとまたもや鍵を取り出す。鍵穴に鍵を差し込もうとする寸前、何を思ったのか彩花さんは俺の方を振り向いた。
「長谷川さんそんなに緊張なさらずに、私の指示にだけ従って貰えればいいのですから」
微小な声で彩花さんは言う。
「よく俺が緊張しているとわかりましたね」
「鼻息が荒いです」
「……すっ、すいません」
荒ぶる鼻息を抑えると、彩花さんが仕切り直してドアに鍵を差し込む。それから彩花さんはドアノブを回そうとする。が、突然何かを思い出しかのように途中で手を止め再び俺の方を振り向いた。
「長谷川さん、私、肝心な事を言い忘れていました」
「肝心な事?」
頷く彩花さんの表情は何処か焦っているように見えた。
「変な事聞きますけど長谷川さんって高校生ですよね?」
「えっ、はあ……普通はそうなんでしょうが高校には行ってなくて……」
「ふむ、まあ、貴方を見ていればそんな気はしていました」
彩花さんは下顎に手を添えると俺の全身を下から舐め回すように見上げて行く。
「彩花さんは大学生なんですか?」
「いえ、私も高校に通ってれば高校三年生ですね。私も進学はしなかったのですよ」
彩花さんはケロッとした表情で言うとドレスのポケットを弄り始めた。
「あのですね長谷川さん、今からお会いする早乙女財閥の御子息の方に私の年齢は二十一歳だと嘘をついています。なので貴方は私の大学の同級生だって事にしたいのですが……」
「何故そんな嘘を……」
「秘密です」
「ですが彩花さん、もうドアの向こうにその方いられるんでしょう、ここでこんな風に話してて聞こえないんですか」
今まで微小な声で話していた彩花さんが急に普通の声で話し出したので俺は不安になった。
「大丈夫ですよ、この地下室はどうやら防音処置がされているようですね。周囲にもカメラはなさそうですし、地下室は坊ちゃんの悪戯部屋ってとこでしょうか」
「どうして防音処置がされているなんてわかるんですか」
「ドアに耳を寄せても室内の物音は聞こえませんでした。地下室であれば排気口の音くらいは聞こえてもいいものです」
彩花さんは周囲を見渡しながらそう言うとドレスのポケットから黒い縁のメガネを取り出した。
「長谷川さんちょっとこれを掛けてみてください」
「はっ、はいっ? いや、俺、視力はそんなに悪くないんですが」
俺の唯一の自慢だ。カーテンを締め切った部屋でパソコンばかりやっていたが視力の低下は不思議と感じていない。
「心配ご無用です、これ伊達メガネですから」
俺に拒否権はないのか、彩花さんは半ば強引にメガネのフレームを広げてメガネの両端を持ち俺の目元に近付けてくる。俺も俺で抵抗はせずそのまま黒縁伊達メガネを受け入れた。
「ほほぉ、長谷川さんは身長も高いですし平凡な顔してますので如何様にでも変装出来るようですね。今の貴方はまるで秀才のようですよ」
(まっ、まじか)
今何がしたいって自分の顔を鏡で見てみたい。嬉しかったというか人間が単純なんだろうな俺は柄にもなく照れた。
「それでは長谷川さん最後にこれだけは守ってください。地下室に入れば私の指示にだけは絶対に従ってくださいね」
凛とした瞳で俺を見つめる彩花さんにコクリと深く頷いた。
郷に入っては郷に従えと言う、いつの間にかここまでついて来たんだ。今は目の前の彼女を信じるしかないであろう。
「それでは行きましょう」
彩花さんは仕切り直してドアノブを握る、ドアノブを回すと「ギーッ」と不気味な音と共に目の前のドアは開かれた。
鍵が掛かったドアを二つも開けて入った地下室の中はこれまた赤いネオン灯で薄暗く、内装はちょっとした場末のバーみたいになっていた。
右手側のカウンターテーブルの中にはバーテンダー風の若い女性がいて、左手側のボックス席にはサングラスとスーツでキメた長髪の男ともう一人はこの部屋に入って来た時からずっと薄気味悪い笑顔で俺達を見ている短髪で細身の男が座っていた。
彩花さんはボックス席の方に歩み寄って行くと長髪の男の前に立つ。
「早乙女さんお久しぶりですね」
何となく独特の成金オーラと余裕のある表情で勘付いていたがどうやらあの長髪の男が早乙女財閥の御曹司のようだ。
「やあ彩花君、待っていたよ。今日は君と僕との入籍記念日になるんだね」
そう言って早乙女はニヤつく、世間一般で言うイケメンって訳ではない。薄いレンズのサングラスなので彼の瞳は見える。力がありそうな強い瞳に太くて凛々しい眉毛、早乙女は所謂『男前』の顔立ちをしていた。
人が好むタイプってのもあるだろうが容姿で彩花さんが彼を嫌っているのなら彩花さんはかなりの面食いであろう。
「それはわかりませんわ、早乙女さん。貴方が私を諦める日になるかもしれませんよ」
「ふふふ、言うね。その気が強そうな瞳、僕は大好きだよ」
(なる程、内面の問題か)
この大柄な態度と臭い言葉に何となくだが彩花さんがプロポーズを断った理由がもうわかった気がする。これは俺が女でも生理的に無理なタイプだ。
「長谷川さんこっちです」
早乙女を見ていると彩花さんが手招きをしたので、俺もボックスに歩み寄って行く。
「そうだ。さっきから気になっていたけど彼は誰なんだい」
「私の大学の友人である長谷川健一さんです」
「ふーん、友人ねぇ」と呟きながら早乙女は舐め回すように俺を見る。
「もしかして彼氏やフィアンセだと君が言うのかと思ったが、彼じゃあ君には不釣り合いだ」
この男の態度、本当に気に入らん!
「ええまあ、だから友人だと言っているではありませんか」
「そうかい、まあいい。それより彩花君、君も何か飲まないかね」
早乙女は持っているウィスキーグラスをカランカランと回すとカウンターにいるバーテンダーの女性に目をやった。
「いえ、私はすぐにでも始めたい所ですがそうですね。長谷川さん良かったら何かお飲みになりませんか?」
「えっ、いや俺はいいです」
気分が乗らなかった俺は彩花さんの申し出を断った。
「そうですか、長谷川さんお酒でも別にいいんですよ」
「さっ、酒?」
この人、俺が未成年だと知って何を言っているんだ。
しかし彩花さんは凛とした瞳で俺を見つめ「何かお飲みになってください」と強い口調で言う。それに俺は(はっ!)と察した。
彩花さんが地下室の中では私の指示に従えと言っていたのを思い出したのだ。
「それじゃあコーラをください」
「彩花君は何も飲まないのかい」
「私は結構です」
すぐに早乙女がバーテンダーの女性に目で合図を送りコーラが入ったグラスが運ばれてきた。
「さあ君達もいい加減に掛けたまえ」
早乙女に促され俺は細身の男の前、彩花さんは早乙女の前に腰を下ろした。
目の前にコーラが入ったグラスが置かれる、俺はグラスを持つと早速一口コーラを飲んだ。
「最近の大学生は真面目だねぇ、私なら酒を飲む」
早乙女はニヤつきなら俺を見ている。目の前の二人に見られると残りのコーラが飲み辛い。
「早乙女さん、彼は真面目なのですよ、何せ彼は私が在籍する大学でも指折りを数える程の秀才なのですから。貴方とは違うのですよ」
(…………)
俺に更なるプレッシャーをかける必要があるのか、早乙女は俺を見てニヤリと微笑んだ。
「秀才、ふふふ、なる程ね。そうは見えなくもない」
ひょっとしてバレているのか? 早乙女は嘲笑うようにして言う。しかし彩花さんは別に動じている様子はなく、何故かさっきから俺の顔を熱心に覗き込んでいた。
「あのぉ……何か?」
「いえいえ、何でもないです、さあ、長谷川さんコーラを一気に飲み干しましょう」
やはり俺は騙されているのか、今、俺は周りの三人の注目の的だ。この三人がグルで俺は騙されているんじゃ……しかしここまで来て今更疑うのも後の祭り、俺はグラスを持つとコーラを一気に飲み干した。
「すいませんコーラもう一杯頂けますか」
「ちょ、ちょっと彩花さん」
彩花さんの異常な行動に思わず声が出てしまう。
「ふふふ、ぶはははは」と突然笑い出したのは早乙女だった。
「彩花君、君が何を考えているのかわからないが彼の飲みっぷりもなかなか良かったぞ。彼がプレイする訳じゃないのだろうし前祝いだ、さあ、好きなだけ飲みたまえ」
早乙女はニヤつきながら俺にそう言ってくるが、次の瞬間、俺はとんでもない言葉を耳にした。
「えっ、何をおっしゃっているのですか早乙女さん、プレイをするのは彼ですよ」
(はっ、はい?)
「ぷっ、ぶはははははは」と今度は腹を抑えながら早乙女は笑い出した。
「早乙女さん、一週間前におっしゃいましたよね。代理のプレイヤーを立てていいと、貴方も自らプレイする気はなさそうですし」
「そっ、そうは言ったが寄りによって彼が君の代役かね。あはははは」
俺を見て笑っている早乙女にはムカつきを覚えるが、それでも早乙女の気持ちはわからなくもない。何せ今一番驚いているのは何を隠そうこの俺なのだからな。
「彩花君、君は負けるとどうなるのか覚えているよな」
「当然ですわ」
「逃げたりはしないかね」
「私こう見えても約束は守る主義でして。負けたならば貴方に一生尽くしますわ」
「そうかい、それを聞いて安心したよ」
「では早乙女さん、ゲームを開始する前に少しだけ長谷川さんと席を離れてよろしいでしょうか」
「好きにしたまえ、何ならこの部屋を一度出て話し合ってもらっても構わない。ただし彩花君、下手なイカサマは考えない方がいい。安易なイカサマが通用する程私は馬鹿ではない」
「当然ですわ」
ちょうど良かった俺も彩花さんに言いたい事がいくらでもある。俺達は一度地下室を離れ外の階段へと出た。
「彩花さん貴方正気ですか!」
これが地下室を出て俺が最初に言った言葉である。
「ええ、正気ですが、どうかされましたか」
平然とした態度の彩花さんを見ていると益々不安が積もる。
「どうかされましたかじゃないですよ、貴方達三人で組んで俺を騙しているんでしょう?」
「えっ、どうしてそう思われたのですか」
焦るのかと思いきや彩花さんに動じる様子はない。
「いや、俺がゲームをプレイするなんておかしいじゃないですか。俺にプレイさせといて負けたら金払えとかどうせそんな詐欺を企んでいたんでしょう」
当の俺は必死に声を張り上げる。こんな見え見えの詐欺に引っ掛かっては末代までの恥だ。
「いいえ、貴方に負担を背負わせる気なんてありませんよ」
「ええ、詐欺師なんて誰でもそう言いますよ」
俺の発言を聞いた彩花さんは額に手を添えると「困りましたねぇ」と呟く。
「あのぉ……長谷川さん、今の貴方には何を言っても信じて貰えないでしょうが、私は当初言った事と矛盾したことを一切やってはいないはずですよ」
彩花さんが言ったこと、『俺がいればほぼ間違いなく勝てる』、『私の指示にだけは従ってください』。確かに俺にプレイさせるなんて聞いてはいなかったが、事件は現場で起きているんだ。
「それはそうですが、やはり怪しいので俺は帰らせてもらいます」
「そっ、そうだ。長谷川さん!」
階段を上ろうとすると彩花さんは何かを閃いたかのように俺を呼び止めてくる。
「何ですか!」
彩花さんはドレスのポケットからここに入るまでに使っていた鍵を取り出してそれを俺に差し出した。
「まずこれを」
「えっ?」
「いいですから」と強引に俺の手に鍵を握らせると更にドレスのポケットを弄り彼女は白色の長財布を取り出した。
「鍵とそれと財布ごと貴方に差し上げましょう」
言って字のごとく彩花さんは俺の目の前に財布を差し出してくる。
「なっ、何をやっているんですか彩花さん」
「何って、貴方に私を信じてもらう為に私の全財産を貴方に差し上げました。もしよろしければこのまま逃げてもらっても構いません。長谷川さん見てましたよね、その鍵でここのドアが開いたのを。おそらくオートロックなんて事はないでしょう。階段の上のドアは鍵を使わずとも開くかと、この辺は早乙女さんの甘いとこですね」
俺は自分の手の中にある物と彩花さんの顔を交互に見やった。
「にっ、逃げるったって、こんなもの持って……」
「それでは私の話しを最後に二つ程聞いてもらえませんか」
「わっ、わかりましたよ。何ですか!」
「長谷川さん、貴方は勘違いをされておられます。本来詐欺師なんてのは相手が気付かぬ内にお金をせしめるもの、わざわざ私みたいに足が付くようなまどろこしい詐欺など致しませんよ」
「まっ、まあ、確かに……」
「それに長谷川さん、早乙女さんが偽者に見えましたか?」
「えっ」
「冷静になって考えてください。この場所、その鍵、そしてあの人。早乙女財閥の御曹司が詐欺などするはずないでしょう」
「っぅ……」
確かに彩花さんの言う事は的を得ている。ここは俺の勘違いだったと認めよう。しかしそうなると益々理解できなくなる、この人は一体何を考えているんだ。
「わっ、わかりました。彩花さんを信用しますから、これ返します」
彩花さんは俺の手の中から鍵と財布を取るとゆっくりと自分のポケットにしまう。
「本当に俺なんかがプレイしていいんですね」
「ええ」
信用できるとなれば、彩花さんの今までの発言が全て本当だと言う事になる。もちろん彼女が負ければどうなるかを俺は知っている。
「俺にも一つだけ質問させてください」
「構いませんわ」
「何か策はあるんですか?」
「ありますよ」と彩花さんは俺を真っ直ぐに見据え「貴方ですよ」と言う。
「いっ……言っちゃなんですがね彩花さん、俺程無能な人間はいませんよ、況してやこの状況で貴方の役に立ちそうな度胸もなければ頭のキレもないです」
「大丈夫ですよ、長谷川さんには好きにやっていただければ。その代わり私の指示だけには従ってくださいね」
こう言わると否定する言葉は出て来ない、ならば少しでも彩花さんの役に立つだけだ。
「わかりました、では俺はどうすればいいんですか」
「そうですねぇ、長谷川さん。貴方は自分の性格をどのような性格だと思っていますか?」
「難しい質問ですね……」
「簡単にいいですよ。例えば楽天的だとか?」
「いえ、むしろ逆ですね。悲観的かもしれません……」
「完璧ですね」
彩花さんは凛とした瞳で俺を見つめる。この人は負人間マニアなのか。
「それではいつもの自分でいてください」
「本当にそれだけでいいんですか?」
「はい」
本人がそう言うのであれば俺は従うだけだが、彩花さんはギュッと口元を引き締めると「そろそろ戻りましょう」と地下室のドアノブを回した。
「ギーッ」と不気味なドアの音と共に再び地下室の中へ戻った俺達を早乙女は余裕の表情で見ていた。
早乙女のこの余裕はわからんでもない。ほぼ勝ちを手中に入れたとでも思っているのであろう。むしろ気になるのは早乙女の横に座っている細身の男だ。
男が俺達に向けている視線は早乙女のそれとは異なり何を考えているのか良くわからない。人を嘲笑うかのように気色悪い笑みを浮かべて俺達の顔をじっと見つめていた。
「随分と遅かったじゃないか彩花君」
俺達がボックス席に戻ると早乙女が目の前に座る彩花さんを見てニヤリと微笑む。
「ええ、長谷川さんが緊張なされていたようなので、彼を宥めていたのですよ」
「ふーん、仲間割れじゃないのかね」
本当にこの部屋は防音処置されているんだろうな。
「そっ、そのような事があるはずないでしょう。彼とは親友なのですよ、ねっ、長谷川さん」
俺は「はい」と頷くだけ。
「長谷川さんコーラのおかわりをいただきましょうか」
俺はただ「はい」と頷くだけ。
早速、彩花さんがバーテンダーの女性にコーラを注文をすると、早乙女が前屈みになりながら笑い声を室内に響かせた。
「ふはははははは、君も大変だな」
なんて早乙女は言ってくるが俺は何も返さなければ顔も上げない。ただ、目の前に運ばれてきたコーラを見つめグラスを持つと口に運ぶ。もう自分で色々と考える事はやめにした。考えれば考える程彩花さんの事がわからなくなるし重荷にもなる。一方的につれて来られたのだから俺には何ら責任はない。本人が望んでいるように俺はただ無心で彼女の指示に従うだけだ。
「もう彼からは戦意を感じ取れないな。彩花君、もうやめようじゃないか。私はもともとこんな形で君をフィアンセには迎え入れたくはないんだよ」
「早乙女さん、貴方は勘違いをされていますわ。こんな形でしか私は貴方の婚約者にはなりませんのに」
「彩花君、君はもう少し口を慎みたまえ!」
早乙女は表情を急変させ声を荒らげる。
「早乙女さん、私はまだ貴方の婚約者ではありません」
そんな早乙女に彩花さんはまったくたじろぐ様子はなく、それを聞いた早乙女は眉間に皺を寄せ呟いた。
「そうだな、君の言う通りだ。ならばすぐにでも始めよう」
「ええ、構いませんわ」
彩花さんは早乙女を見て自信たっぷりに言う。しかしゲームを始める前に早乙女の怒りをわざわざ買う必要があったのか?
今から始まるであろうゲームは早乙女が計画した手中のゲーム。ならば相手を怒らせる事にこちら側のメリットはないはずだ。少なくとも今の早乙女は怒っている。それに何処か焦っているようにも見えた。