Story 1 -Part.6-
その日は朝から珍しく雨が降ったが、次第にその勢いは衰え、夜になる頃には舗道の水溜りだけを残して立ち去った。僕らはお互いに会社が終わってから待ち合わせ、昔よく行った、大学の近くのイタメシ屋で夕食をとった。二人の年齢以外には何もかもが昔のままのように思え、僕らはそうしてあの頃の気分に酔いしれた。だから、夕食後の映画を見終わって、橋の上から皇居のお堀を眺める頃には、既に全てがセピア色の思い出から解き放たれていた。
「何も変わってないね。風の匂いも、このお堀も」
「そしてチサトも」
僕の言葉にチサトは一瞬こちらを向いたが、またすぐに目を外して遠くを見つめた。そして、高鳴る想いに耐え切れなくなった僕は、自分の心の扉をチサトに向けて素直に開放した。
「俺たち、もう一度やり直そう。俺、やっぱりチサトのことが好きだよ」
チサトは何も言わなかった。ただ目に涙を溜めて僕のほうをじっと見ていた。僕はその涙がこぼれ落ちる前にチサトを抱き寄せた。
「……嬉しいわ」
チサトの呟きが僕の心臓の鼓動と相まって強く響き、それから僕らはお互いの唇を激しく求め合った。その味が、あの頃と同じであることを確かめながら。
僕らはそうして再び付き合い始めたが、そこには一つだけ厄介な問題があった。それは全く僕の個人的なことだったが、容易に片付けるにはかなり難しいことだった。
それは翌週の火曜日だった。僕は仕事を終えると、駅から電車を乗り継いで池袋へ向かった。そして、毎週そうするように駅近くの喫茶店に入ってコーヒーを注文した。そこは大通りから一本裏に入った路地にある小さな店で、僕は静かに流れるオールディーズの音楽を聴きながら、時間をかけて自分の心を日常生活から解放していった。
「待った?」
「いや、今来たところ」
「私も、コーヒー貰おうかな」
僕は、彼女のその言葉に促されるようにコーヒーを追加し、それから一週間に一度しかない貴重なひと時に身を委ねた。彼女の名はミサトといい、二十九歳で同じ会社に勤めていた。実年齢は上だったが、見た目の雰囲気や物の考え方はむしろ僕より年下のように思えた。ハニーブラウンの髪は肩につかず短くまとまり、小ぶりな顔には人なつこそうな柔らかい視線を放つ目と、常にピンクに潤んでいる唇がほどよく収まっていた。目元や首筋の細かい部分に目を向けなければ、二十歳といっても通用する顔立ちだった。
「『デザート・ムーン』がかかってるね。何度聴いてもいい曲よね」
「今日は家のほう大丈夫なの?」
「うん、旦那は仕事で遅くなるし、子供は実家に預けてきたから」
ミサトは何気なくそう言うと、運ばれてきたコーヒーを口に含み、それから白いシャツの襟を少し直した。短めのチェックのスカートとの取り合わせは、どう考えても女子高生の制服のようだったが、ミサトはそんなことなど気にもとめていない様子だった。
「さてと、出ましょうか?」
ミサトに促されて僕らはその店を後にすると、いつものように目に付いたホテルに入りお互いの体を求め合った。そうすることが正しいかどうかなど、僕らは全く考えていなかった。少なくとも僕はミサトを求めていたし、彼女も僕を愛してくれた。でも僕らにはわかっていた。二人の関係が道徳的には間違っていることを、そしていつかそれにも終わりが来ることを。
「実は、ミサトに話したいことがあるんだけど」
「何?」
僕の問いかけに、ミサトはベッドの中で僕の胸から顔を上げてこちらを向いた。その目には、いつもの柔らかな光が浮かんでいた。
「好きな子ができたんだ。だから、俺たちもう会わないほうがいいような気がするんだ」
「会いたくないんじゃなくて、会わないほうがいいと思ってるのね」
ミサトは僕に向かってそう念を押した。その表情からは、既に人なつこさは消え失せていた。
「ああ。そうすべきだと思うんだ」
「ねえ、今さら何を言ってるの? 私には旦那も子供もいるのよ。でも、あなたに会いたいからこうしてここにいるの。そんなことを言い出したら、私なんかとてもあなたに会えないじゃない。私たちはお互いに会いたいから会ってるんじゃないの? そこに常識や理屈なんてないのよ。あなたに好きな人ができようができまいが、あなた自身が私と会いたくなくなったら自然に別れるだろうし、私もそうするわ。違うかしら?」
ミサトの言うことはもっともだった。ある意味では筋が通っていた。でも僕は、やはりこのままではいけないような気がしていた。そしてそのことは、最も残酷な事実によって僕の目の前に突きつけられることになった。