Story 1 -Part.5-
それは、二週間の中近東ツアーから戻ってきた週の土曜日だった。僕はちょっとした買い物をするために、新宿東口のスクランブル交差点に佇んでいた。その日も朝からうだるような暑さで、僕は滲み出る額の汗にうんざりしながら信号が青になるのを待っていた。そんな折、僕は交差点の向こう側に見覚えのある姿があることに気づいた。人違いのようにも思えたが、その姿は確かに僕の記憶に根付いていた。そして気がつくと、僕は信号が青になるのを待ちきれずに正面の人影に手を振っていた。
「おーい、チサト!」
その瞬間信号が青になり、僕らはそうして交差点の真ん中で四年ぶりに再会した。
「……ユウト? 本当にユウトなの?」
「久しぶりだな」
そう言ってつくづくと見るチサトは、かつてのままにそこに立っていた。流れるようにストレートな黒髪は肩を越えて長く伸び、大きめの丸い瞳の奥には澄み切った泉が横たわっていた。そして、薄いブルーのノースリーブとアイボリーのパンツに包まれてはにかんだ笑顔を見せる姿は、何もかもが昔と変わっていなかった。そう、大学時代の同級生だった僕らは、あの時確かに付き合っていたのだ。もう遠い昔のことのようにも思えたが、今現実にチサトを目の当たりにすると、それはほんの少し前のことのように感じた。
「あっ、信号が赤になってる」
チサトの叫び声に我に返った僕は、反射的に彼女の手を取って、車のクラクションに冷やかされながら舗道へと走った。チサトの手はあの時と同じ温もりをたたえていて、それが僕の手に懐かしい想いとなって伝わってきた。頭の中がタイムスリップをしたようになり、僕はその気持ちのままにチサトをお茶に誘った。チサトには待ち合わせの予定があったが、時間までならという条件で、僕らは待ち合わせ場所の喫茶店に入った。
「悪いな。待ち合わせがあるのに急に誘っちゃって」
「いいのよ。まだ時間まで少しあるし、久しぶりに会ったんだもの」
「そうだよな。あれからもう四年が経つんだよな」
「大学を卒業して以来だものね。ところで随分日に焼けてるけど、どこかに行ったの?」
「ああ、ちょっと旅行に行ってたんだ」
「そうよね。もう夏だものね」
店員が注文を聞きにきたので、僕はアイスコーヒーを二つ頼んだ。チサトは自分が夏と言ったことを確かめるように、窓の外にある眩しい光景を眺めた。
「あの時は、ごめんな」
「えっ?」
「四年前のこと」
「もう昔のことじゃない」
「そうだけど……ところで、チサトは今何してるんだ?」
「普通のOLよ。小さな会社だけどね。ユウトは?」
「しがない会社員さ」
「小説、まだ書いてるの?」
「いや、才能ないみたいだから」
「そう、ユウトの書く物語、好きだったんだけどな」
「俺のことは?」
「えっ?」
「今さらかもしれないけど、俺たちもう、昔のようには戻れないのかな?」
僕の言葉に、チサトはこちらに視線を向けたまま黙っていた。そう、僕は今明らかに思い出していたのだ。自分が作家になろうとしていたことを、そしてチサトを好きだったことを。
「だって、私から別れたわけじゃないのよ。あの時は……」
でも、チサトの声は途中で無造作に途切れた。それは彼女が視線の向こうに自分の待ち人を見つけたからだった。そして、僕がその人物を見ようと振り返った瞬間、あまりに意外な光景に思わず息を呑んだ。何故ならそれは、本当にありえない出来事だったからだ。
「あっサトミ、こっちよ」
「サトミって……知ってるのか?」
「知ってるも何もないわよ。妹だもの」
チサトの答えに、僕は近づいてくるサトミを見ながら、混乱する頭の中を必死に整理しようとした。確かに今思えば、チサトの名字もハセベだったし、妹がいることも知ってはいたが、そうは言ってもチサトとサトミを結びつけることは到底できなかった。その違和感は、モンブランの上にイチゴをのせるようなものだったからだ。
「あれっ、ストーカーさんが何でここにいるの?」
でも、必要以上に日焼けをしていたサトミの一言で、僕の頭は唐突にその思考を停止した。
「だから、もうストーカーはやめてくれよ」
「何、二人知り合いだったの? ストーカーって何のこと?」
あっけにとられた表情で純粋に尋ねてくるチサトに、僕は二人の姉妹を座らせてから、ゆっくりと順を追って説明した。
「そう、そんなことがあったの。でも、ユウトをストーカー呼ばわりするのはよくないわよ。ちゃんと謝りなさい」
「謝ったわよ。ヨルダンで」
「あれで謝ってるって言えるのか?」
「そんなことより、姉さんとこの人がどうして一緒にいるの?」
僕の言葉を無視するかのように、サトミはチサトに問いかけた。でも、チサトが言いにくそうな顔つきでこちらを見たので、僕がその代わりに答えた。
「俺とチサトは、大学の時に付き合ってたんだ」
「へえ、じゃあもう長いんだ」
「……卒業する前に別れたのよ」
思い切って呟いたであろうチサトの言葉には、さすがのサトミも押し黙った。三人の間にはエアコンで冷たくなった空気だけが流れていて、僕の居心地は確実に悪かった。隣の席で話している二人連れの会話が妙に生々しく耳に入ってきた。
「そう言えば、姉さんあの頃よく言ってたわね。サトミもいい恋愛をしなさいって」
「もう、今さら変なこと言うんじゃないの」
チサトはそう言うと照れくさそうにうつむいたが、サトミの言葉がその場の空気を変えたことは明らかだった。僕ら三人は再び言葉のキャッチボールを始めた。
「それで、サトミちゃんは二十歳だから、学生かな?」
「サトミでいいわよ。気持ち悪いから。美大で絵の勉強をしてるの。でも、どうして私の歳を知ってるの? やっぱりストーカーじゃない」
「免許証に書いてあったんだよ。お前……いや、サトミが落とした財布の中にあった」
「サトミも、いつまでも失礼よ」
「ごめんなさい。姉さんから見れば元彼だもんね」
チサトの窘めにも、サトミは動じることなく平然と言い放った。でも、僕はサトミに対して以前のような不快感を持たなかった。チサトの妹とわかったこともあったが、僕の中に別の感情が芽生え始めたからだった。でもそれは、一人の女に対するものではなく、珍しい動物を眺めるような気持ちだった。少なくともこれまでの人生の中で、サトミのような女と触れ合ったことがなかったからだ。
やがて二人の姉妹とは別れたが、僕が席を立とうとした瞬間に、チサトが僕のズボンのポケットに小さな紙切れを差し入れた。店を出た後でそれを取り出して見ると、そこにはまた会いたい旨の走り書きと携帯電話の番号が記されていた。僕はその番号を穴が開くほどに見つめながら、あの頃の自分たちに、そしてチサトの笑顔に思いを馳せ、どうしようもなく高まる想いを抑えることができずに、その日の夜に電話をかけ、水曜日の夜に会う約束をした。