Story 1 -Part.2-
扉の向こうからは何も聞こえなかった。かすかな物音さえしなかった。僕は、しばらく迷ってからもう一度ブザーを押した。立て続けに三回押したところで、目に見えない向こうで何かが動く音が聞こえ、やがてそれは人間の足音となってこちらに近づいてきた。僕は、扉が自分の体に当たらないように間合いを取ると、次の瞬間写真でしか見たことのないその姿をはっきりと目の当たりにした。
「……誰?」
そう呟いて気だるそうな表情を浮かべながら髪に手をやる彼女は、明らかに写真とは違っていた。いや正確に言うと、同一人物であることは確かだったが、その姿は写真以上に凄まじいものだった。髪の毛は各々が勝手に伸びたいほうを向き、化粧をしていない顔に精気は全く感じられなかった。また、グレーのTシャツにカーキ色のショートパンツといった地味さが、特徴らしい特徴のない目鼻立ちと相まってその存在を見事に薄めていた。僕は自分が今ここにいることを激しく後悔したが、それも十分すぎるほどに遅すぎるものだった。
「ハセベ サトミさん、ですよね?」
「そうだけど……誰?」
「ホリベといいますが、財布を届けにきたんです。あなたが道端に落とした財布を。夜も遅いことは十分にわかっていたんですが、困っているだろうと思って」
僕は辛うじて事務的に用件を伝えると、スーツのポケットから紺色の財布を取り出して彼女の前に差し出した。
「確かに私のだけど、どうして?」
「えっ?」
「どうして、わざわざ私の家まで来たの?」
「私の家がこの近くなので、警察に届けるよりも直接届けたほうが早いかと思ったので」
「ふうん、まあいいわ。わざわざどうもありがとう、ストーカーさん」
彼女は気のない口調で平板に言い放つと、そのまま扉を閉めて部屋に戻っていった。でも、残された僕は事の意外な成り行きに呆然とし、しばらくその場を離れることができなかった。確かに、落ちていた財布を直接持ち主に届けたことは突飛かもしれなかったが、かといってストーカー呼ばわりされる謂れもなかった。細かい部分での非常識さは別にしても、少なくとも僕は、常識的に考えて悪いことはしていないはずだった。
僕はあまりの理不尽さに憮然としながら、やり場のない怒りを抑えようと懸命に歩き出したが、このまま一人暮らしの自分のアパートに帰ることに躊躇いを感じ、携帯電話を取り出して数時間前に別れたばかりの同僚の番号を指でなぞった。
「ああ、ホリベか。何か用か?」
「なあウチノ、お前今暇か?」
「ああ、まあな」
「急かもしれないけど、これから飲みに行かないか?」
「いいけど、何かあったのか?」
「まあな、後で話すよ」
僕は、そうして隣町に住んでいたウチノを呼び出すと、駅の近くの居酒屋で肩を並べてビールを飲んだ。
「悪かったな。急に呼び出したりして」
「いいよ、ちょうど俺も飲みたかったから。それで、何かあったのか?」
そう問いかけて心配そうな表情を浮かべるウチノに、僕は会社で別れてから今までのことを話した。そんな風に改めて冷静に話してみると、たいしたことでもないように思えたが、ウチノはそれでも真剣な眼差しで話を聞いてくれた。
「そりゃあ、お前も災難だったな」
「暇にまかせてそんなことをした俺も悪いんだけどな」
「まあ、その女のことはともかく、お前そんなに暇なのか?」
「やらなきゃいけないことは山のようにあるんだろうけど、何をやるべきなのかがよくわからなくてさ」
「そんなに難く考えなくてもいいんじゃないか。試しに、ここらで結婚でもしてみりゃいいじゃないか」
「そう簡単に言うなよ」
「相手はいないのか?」
「まあな」
「そうか。まあ、ゆっくり考えればいいさ。そうだ、俺と海外に行ってみないか?」
「海外ってどこだよ」
「中近東、イスラム世界さ」
「何でまたそんな所に行くんだよ」
「いやさ、俺の彼女がそっちのほう大好きでさ、一緒に行くことになっていたんだけど、急に仕事で行けなくなって、それでどうしようかと思っていたんだ。キャンセル料も馬鹿にならないしな」
「ってことは、出発は……」
「ズバリ、来週の火曜日」
「おいおい、いくらなんでも急すぎるよ。仕事だってあるし」
「仕事なんかいいじゃないか。どうせ休暇が余っているんだろ? お前は真面目で休まないからな。まあ中近東って言ったって、怖いことなんか何もないんだ。ツアーだし、日本人の添乗員もつくしな。二週間だけど、お前は一人もんだからどうにでもなるだろうし、思い切って行こうぜ」
ウチノから目を輝かせてそう誘われると、僕にはもはや否定する材料はなかった。確かに突飛な話ではあったが、しばらくの間非日常的な空間で時を過ごすのも悪くないような気がしていた。すっかりその気になってビールを口にするウチノの横顔を見ながら、僕はそんな風に潜在的に感じていた日常からのささやかな脱皮を試みようとしていた。