Story 3 -Part.1-
一体俺は何をしているのだろう。何故こんな所にいるのだろう……でもその答えは既に僕の手の中にあった。サトミと会うために、そして何より一人の人間として躍動感のある生き方をするために、僕は迷うことなく日本を離れ、この無限に広がるアラビア世界の大地を踏みしめていたのだ。これまでの非人間的な日常から脱却し、非日常的でも人間的なサトミとの宿命を貫こうとしていたのだ。
僕は、再び裸の上半身にリュックを背負い込むと、長い間座り込んでいた岩のかけらからしっかりと立ち上がった。九月も半ばを過ぎたとはいえ、容赦なく照りつける灼熱の太陽さえも、もはや行く手を阻む障害とはなりえなかった。ペットボトルのミネラルウォーターは既に空になっていたが、僕は全く気にしていなかった。目の前に立ちはだかる岩山を登りつめれば、そこには気だるそうな表情を浮かべたサトミがいて、不釣合いな笑顔を見せながら水を差し伸べてくれることを信じていたからだ。そう、夢幻のように思えた目的地は、今現実となって僕の目にはっきりと見えていたのだ。
遺跡へと向かう山道は思っていたよりも険しくはなかった。それは以前と同じように崖の上にへばりつくように延々と続いていたが、僕は一度も休むことなく歩を進めた。サトミと会えるという一念だけが、ともすれば朦朧とする意識を呼び戻し、脚に再び活力を取り戻させた。デニス・デ・ヤングの「デザート・ムーン」が何度も頭の中で繰り返され、僕はそのメロディーに背中を押されるように目的地へと急いだ。
一時間ほどで遺跡に辿り着いた僕は、あの時と同じように神殿の彫刻物を目の当たりにした。でも、そこにサトミを見出すことはできなかった。僕は、これまで意識していなかった疲労を感じてその場に膝まずき、半ば呆然としながら周囲を見渡した。その空間は決して広くはなかったが、人の気配というものを全く感じさせなかった。僕はもはや何も考えられなくなり、遺跡の隅の岩陰で飲み物を売っている現地の老人に気づくまでにかなりの時間を要した。でも、その隣に座っていた白いTシャツにカーキ色のショートパンツ姿の女性を見て、ある決定的なイメージが頭の中に浮かんでくるのを感じた。そして迷彩色のキャップを確認するに及んで、それははっきりとした形となって僕の目の前に提示された。
「サトミ!」
日本から遠く離れた異界の地の果てで、僕はそうして彼女の名前を呼びながら走り出していた。
でも、顔を上げたその女性を間近で見た僕は、それがサトミではないことを十分に認識した。小麦色以上に日焼けをした顔立ちのせいで、遠目ではわかり辛かったが、明らかに他人を見るその眼差しが別人であることを証明していた。
「あなた、誰?」
「あっ、すみません。人違いでした」
「サトミって、ひょっとしてハセベ サトミのこと?」
「ええ、そうですけど。どうして……」
「私、サトミの友達なの」
その言葉に僕は混乱し、頭の中で真実のありかを必死に模索したが、それは虚しい試みだった。極度の疲労が思考能力を鈍らせ、サトミに会えなかった精神的なダメージがさらに追い討ちをかけていた。
「どうかしたの? 随分疲れているように見えるけど」
「いや、もう何が何だかよくわからなくて」
僕は独り言のように呟きながらその女性の横に座り、それから喉の渇きを思い出して老人からコーラを買った。水に浸されていた割には、その温さはまた格別だった。
「そう言えば、まだ私の名前を言ってなかったわね。ワタベ ミサトっていうの」
「ミサト?」
「そう、サトミを反対にした感じよね。それに、全体的な名前のイメージがサトミとよく似てるのよね。もちろん偶然だけど」
彼女……ミサトの言葉に、僕はうまく会話を続けることができなかった。サトミと名前が似ていたからではなく、今頃は日本で家族と共に戯れているであろう、あのミサトが目の前を過ぎったからだった。僕の頭は再び痛みを増し始めた。
「どうかしたの? 暑さにでもやられた?」
「いや、何でもないんだ。それで、サトミとは?」
「同じ大学で絵の勉強をしているの。まあ、クラスメイトってとこかな。今回も、サトミが急にここに来たいって言うから、もの珍しさで一緒についてきたんだけど」
ミサトはその大きな目をさらに大きくしながら僕にそう説明した。彼女に見られると、僕は底なしの井戸に引き込まれるような気がした。
「で、サトミは?」
「今はいないわ」
「だって、今一緒に来たって……」
「昨日までは一緒だったんだけど、今頃は多分死の海にいると思うわ。サトミとは今朝別れたの。私はそろそろ日本に帰ろうかと思って、最後に気に入ったここにもう一度来てみたんだけど。大学も始まるしね」
「確かに死の海に行くって言ってたのか?」
「ええ。当分日本には戻らないみたいよ。あちこち回ってみたいって言ってたし」
「他に何か言ってなかったか? 例えば、男のこととか」
「そうね……ああ、彼氏とは別れるって言ってたわ。他に好きな人ができたからって」
「それから?」
「ところで、あなたは誰? サトミとはどういう関係なの?」
「ああ。俺の名前はホリベ ユウト」
「あなたがユウトさん。サトミから聞いてるわ。宿命を感じた相手だって。でも……」
「でも、何?」
「あなたとは、やっぱり付き合えないって言ってたわ」
何事もなさそうに言うミサトに、僕は返す言葉もなく固まった頭を必死に解そうとした。唯一の救いであったサトミが言ったであろうその一言は、これからの自分の人生を否定することにもなりかねなかった。気の抜けたコーラの缶を手にしたまま、僕はただうんざりしながら頭上の太陽を仰ぎ見るしかなかった。
「その理由を言っていなかった?」
「そうねえ、特に言ってなかったと思うけど……。ああ、そう言えば」
「何?」
「別に関係ないかもしれないけど、ここで絵を描いている時に、これからユウトと付き合っていっても、私は多分どこにもいけないって言ってたわ。この絵から輝きが失われるって」
「どこにもいけないって、サトミは確かにそう言ったんだね」
「私には、その意味がよくわからなかったけど、ユウトさんならわかるんじゃない?」
それだけを言うと、ミサトは被っていた帽子を外して、天空を仰ぎながら軽いため息をついた。僕は、そこに現れた茶色のショートヘアを見ながら、サトミの言ったことを頭の中で繰り返し唱えてみた。僕と付き合うとどこにもいけなくなり、さらには絵から輝きが失われるという言葉は、確かにある事実を暗示しているように思えた。でも、具体的に何を意味するのかがよくわからなかった。宿命的な想いだけではない何かを、サトミが感じたことは間違いなかったが、それはあまりにサトミらしくなかった。自分の想いのままに行動しているはずの彼女に、心境の変化でも起きたのだろうか。いずれにしても、僕はやはりサトミと会わなければならなかった。会ってそれを確かめるしかなかった。