Story 1 -Part.1-
「じゃあホリベ、今日はお疲れさま」
「お疲れさま。また来週」
毎日八時間以上拘束されているその建物を背にしながら、僕は同僚と別れて帰り道を歩き始めた。七月も終わりにさしかかり、学生たちは夏休みに入っている頃だったが、社会人四年目になろうという僕にとってそれは全くの他人事だった。午後七時を目前にしてもなお頭上には星影も見えず、遠く西の彼方からの淡い光によって、周囲はまだほのかな明るさを保っていた。僕は、体にねじ込まれるような真夏の暑さにうんざりしながらネクタイを緩め、金曜日の舗道を足元に踏みしめていたが、本当にうんざりしていたのは暑さのせいではなかった。二十六歳を迎えた僕は今の仕事にも十分に慣れ、社会人としての生活にも適応できるようになってはいたが、それとは反対に自分の人生に対する積極的な姿勢を失いかけていた。それは本来人間に本能的に備わっていたはずだったが、繰り返される日常的な毎日に堕落を深め、僕の人間としての価値はもはやゼロに等しかった。もちろんそんな事実から脱出するために何度となく試行錯誤を繰り返したが、それは必ずといっていいほど水泡に帰した。そう、僕はそのようにして一介の公務員に過ぎなかったのだ。でも僕は、完全には諦めていなかった。いつか人間らしくなれるその日まで、たとえ這い蹲ってでも生き続けなければいけないのだ。そして僕の執念の産物は、目の前に落とされていた小さな物体によって、全く別の形で示されようとしていた。
それは誰かの財布だった。僕は無造作に置かれていた濃紺のそれを手に取ると、反射的に中身を調べて確認したが、そこには期待をしたようなものは存在していなかった。僅かばかりの小銭と、誰かの無愛想な写真が貼られた運転免許証だけしかなかった。心臓の鼓動が高鳴りそうな札束もなければ、クレジットカードの類さえ一枚もなかった。僕は、そんな週末の夜には抱きたくないやるせなさとともに、ぼんやりと免許証の写真を眺めた。そこには取り立てて美人でもなく、ましてや僕の好みですらない二十歳の女が、気だるそうな視線をこちらに向けながら佇んでいた。辛うじて、若さだけがこちらに伝わってきたが、彼女はそれさえも表現したくはなさそうだった。僕はこのまま財布を放り投げてしまおうかとも思ったが、心の片隅にほのかに芽生えた好奇心によって、それはスーツのポケットにすっぽりと納まった。金曜日の夜、これから特にすることのなかった僕にとって、彼女の家を探し出して財布を届けるという作業は、まさに絶好の暇つぶしだったからだ。
僕はそのまま足早に駅に向かい、自分の降りるべき駅まで三十分ほど電車に揺られた。車内には、憂鬱な表情を浮かべた人たちが、それぞれの時間を無駄に過ごしていた。そして、これから夜の街に繰り出すにしろ、家族との温かい時間を過ごすにしろ、それはどう考えても有意義な時間の過ごし方ではないように思えた。でも、この中でこれから奇妙な行動をとろうとしている僕は、世界で最も無駄に時間を過ごしていることもまた十分にわかっていた。
駅に着くと、僕はいつもとは違う改札口から出て、自分の家とは反対の方向に歩き出した。免許証の住所から、自分と同じこの東京郊外の町の、しかも同じ駅の近くに住んでいることがわかったので、僕は奇妙な戸惑いを感じながら、同じ町とはいえ滅多に通ることのない道を新鮮な気持ちで歩いた。あたりは既に暗闇に包まれていたが、駅から南へと向かう大通りは煌々とした光に包まれていて、彼女の住むアパートを探し出すことは想像よりも容易に運んだ。僕は、電柱に書かれている町の名や道路の標識を頼りに、十分ほどでそのアパートを目の前にした。それは二階建ての小ぢんまりとした造りで、夜の闇の中では壁の薄い青色は目立たずに白く見えた。僕は、階下のポストから彼女が二階に住んでいることを確かめると、すぐそばにあった階段をゆっくりと上り、彼女の名字と同じ文字が書かれた扉の前に立った。一体俺は何をしているのだろう。何故こんな所にいるのだろう……でも僕は、溢れ出る好奇心を抑えることができずに、扉の横にあったブザーを強く押した。自分が後戻りのできない道を歩き始めたことも知らずに。