Story 2 -Part.1-
その日の夕方、僕は自分の住むアパートを出ると、駅近くのコンビニでワインを買い、それから踏み切りを横切って南に歩を進めていた。天空からは久しぶりの雨がしたたり落ち、僕はビニールの傘をさしながら目的地へと向かった。午後六時を少し廻った町は、次第に薄暗さを増していたためか、あるいは降りしきる雨のせいなのか、どことなくうらぶれた寂しい雰囲気を醸し出していた。そう、僕は今まさにサトミのアパートに着こうとしていた。この一週間の寂しさに耐え切れずにサトミに電話したのは昨日の夜のことだったが、描いている絵を仕上げる関係で外には出られないと言ったので、唐突ながらサトミの家に押しかけることになったのだ。僕は最初、絵を描く邪魔になることを考えて行くのを躊躇ったが、とにかく自分の胸中の想いを誰かに、特にいろいろな事情のわかるサトミに聞いてもらいたい一心だった。
アパートの二階の部屋のブザーを押すと、開け放たれた扉の向こうには、二ヶ月前と同じ格好のサトミが立っていた。気だるそうな眼差しは相変わらずだったが、そこには既に僕を苛立たせるものはなかった。サトミは僕を部屋の中に招き入れると、キッチンのそばにあるテーブルに座らせた。奥のほうには彼女のベッドと描きかけのキャンバスが無造作に置いてあり、全体的には雑然としていたが、どこか訴えかけるような雰囲気を持ち合わせている部屋だった。
「狭い部屋だけどね」
「いや、こっちこそ急に押しかけちゃって悪かったな。あっ、ワイン買ってきたんだ。後で飲もうよ」
「今飲もうか? もっとも、気の利いた食べ物は何もないけど」
サトミはそう言うと、冷蔵庫からカマンベールチーズとクラッカーを出し、二人分のグラスとともにテーブルの上に置いた。グレーのTシャツとスウェットを着た彼女は飾らない自然体だったので、僕はそのことに奇妙な安らぎを抱いた。
「絵を描いていたのか?」
僕がグラスにワインを注ぎながらそう尋ねると、サトミは口元を少し緩めながら軽く頷き、それからいつもの気だるい言葉遣いで続けた。
「あと少しで完成なの。だから、このまま一気に描ききっちゃおうかなと思って。その時の勢いって結構大事だから」
「じゃあやっぱり、邪魔して悪かったかな」
「いいのよ。ちょうど一息入れたかったところだから。それに、本当に嫌だったら最初から断ってるわよ。そんなに気を遣うタイプじゃないから」
「ならいいんだけど……。この前ヨルダンで描いていた絵なのか?」
「そうよ。二ヶ月かかったけど、ようやく完成するわ」
サトミは感慨深げにそう言うと、グラスの白ワインを一気に飲み干した。
「これ、美味しいわね。高かったんじゃないの?」
「いや、コンビニで買ってきたやつだから」
「何だ、そうなの……。で、何か私に話があるんじゃないの?」
「ああ、実は俺、チサトと駄目になりそうなんだ」
「この間、また付き合い始めたばかりじゃない」
「まあ、そうなんだけど」
「さては、何かあったわね。話してみなさいよ。力になれるかどうかわからないけど」
「俺、前からミサトと付き合っていたんだ」
「だって、ミサト姉さんは……」
「その通りさ。だからチサトとまた付き合い始めたんだけれど、俺やっぱりミサトが忘れられなかった。チサトも好きだったけれど、俺にとってはミサトのほうがどうしようもなく好きだったんだ」
「じゃあ、これからもミサト姉さんと付き合っていくの?」
「いや、こうなった以上はもう付き合えないって言われて」
「そう」
「そうって、驚かないのか?」
「驚くも驚かないも、いろいろなことが偶然に重なっただけのことじゃない。好きになった人に偶然家族がいただけだし、二人の女性が偶然姉妹だった。ただそれだけのことよ」
「それが、サトミの姉さんたちだったとしても?」
「ええ。まあ、あまりに身近だったから少しは驚いたけど」
「サトミは大人だな。俺なんか、その偶然だけで夜も眠れなかったのに」
「人を好きになるって、結局そういうことなんじゃない? 結果的に状況が悪くなることもあるけど、仕方ないんじゃない? 運命っていうか……」
「宿命的な想い」
「ちょっと聞こえが悪いけど、まあそういうことよね」
自分でグラスにワインを注ぎながら自然体の表情を浮かべるサトミにある確信をもった僕は、聞くべくして次の言葉を解き放った。
「俺たちの場合はどうなのかな?」
「どうって?」
「俺たちの間って、宿命なのかな?」
「当たり前じゃない。だからあなたはここにいるの」
「ストーカー呼ばわりしたくせに?」
「最初はね。でも、今は違うわ」
何気なく放たれたサトミの言葉に、僕はお互いの想いが近づいていることを直感した。秋を告げる雨音をかすかに聞きながら、僕は次第に収斂していく自分の気持ちを静かに噛み締めていた。